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水の王子・「岬まで」31(最終回)

第十章 夜が明ける

「夜明けまでに料理ができあがるのかしら」台所のあちこちに灯った灯りの淡い光の中で、ウムギが悲鳴のような声をあげた。「豆もまだよく煮えていないし、昆布も味がしみていないわ」
 「だからせめて昨日の内に、お魚だけでも料理しておけばよかったのよ」キサガイが情けなさそうに笑った。
 「間にあいますよ」奥の部屋で衣装を選んでいた女主人が落ち着いてなだめた。「たしか去年もこうだったでしょ。それでも明るくなるまでには、ちゃんと晴れ着もごちそうもそろったわ」
 「そうだったかしら、毎年忘れる」キサガイが手首で額にたれかかる髪をかき上げた。「サシクニワカヒメさま、私のこの前新しく作った赤い上着は見つかりましたか?」
 「ここにそろえてありますよ。あの虹色の首飾りと腕輪もね。それとも真珠の方をつけるの?」
 「あとで確かめに行きます。ああ、海鳥の声がしたような気がした」
 「気のせい気のせい。外はまだまっ暗よ」
 「さっき外に出て崖の下を見たら、村の家にもちらちら灯がついてましたよ」女主人が楽しそうに言った。「浜辺でも新年のお祭りの準備をきっとしているのでしょう」
 「とにかく私は卵を焼くわ」ウムギが両手を耳のあたりでぱたぱたさせた。「今はそれしか考えない。今はそれだけしか考えない」
 「はい、卵ね」キサガイが大小のころころと丸い卵のいくつも入ったかごをウムギの前にとんとおき、身をひるがえして、かまどの前に戻る。
     ※
 「ほらね、世の中こんなもんよ」うす紅色の杯に注いだ酒をすすりながら、ウムギがぶつぶつ文句を言った。「ごちそうもできたし、お風呂に入って髪もゆったし、晴れ着もちゃんと着たというのに、肝心のお日様があらわれなくて空はくもったままなんて!」
 「空のはしが明るいし、海もおだやかだから、その内に日は出ますよ」女主人がほほほと笑った。「ウムギ、このあなたが味つけした肉まんじゅうは最高の味ね。ごぼうと貝も悪くないわ」
 「キサガイのあんころ餅も、やわらかくて最高!」ウムギはぱくぱく箸で料理を口に運んでいた。「サシクニワカヒメさまのこのお魚も、去年よりまたもっとおいしくなってる!」
 部屋のあちこちに飾られた赤や黄色の花が、かぐわしい香りをただよわせ、かまどの火や酒の香りにまじっている。灯皿の火はもう消されているが、外からの明かりで小屋の中はほのかに明るく、三人の華やかな衣装と宝石のきらめきが浮かび上がっていた。
 「世の中と言えば」女主人のサシクニワカヒメがのんびり言った。「暮れに来た物売り女の話を聞きましたか? フヌヅヌとオミヅヌが和解して、二つの町は平和になったようですよ」
 「あら、そうなの!」ウムギが喜んだ。「何があったか知らないけど、よく仲直りができたわね」
 「旅に出ていたヤシマが帰ってきたのがよかったようですね。今は妻のヤノハハキと二人が中心になって二つの町を治めているとか。海賊の一団ともいい関係を保っていて、近くの海の安全も万全のようですよ」
 「草原のためにもいいことだわ」キサガイが野菜をほおばりながらうなずく。
 「まあこれからもいろいろあるでしょうけどねえ」サシクニワカヒメは言った。「とりあえずは喜びましょう」
 「外も少し明るくなって来たようだし」キサガイが戸口の方を見た。
 「お日さまが上るかもね」ウムギが期待をこめて言う。
     ※
 日の出を見のがしたくないというので、三人は食事をいったん中断して外に出た。
 海風は冷たかったがさわやかで、どこかに春の気配もした。
 「こんな朝は思いきり楽しいことを考えるようにしなくっちゃ」はずんだ声でキサガイが言う。
 「一番楽しいことねえ」ウムギが風と光に目を細めた。「やっぱりそれはこれまでに私たちが助けて、新しくこの世に送り出した人たちのことじゃない?」
 「多すぎて覚えてないけど」サシクニワカヒメが二人の腕に手をかけて、ひきよせながら笑う。
 「だけど一番覚えているのは?」
 「それはやっぱり自分の息子ね」サシクニワカヒメが言った。「あなたたちといっしょに死んでいたのをよみがえらせた、あれが最初ではなかったかしら? へまな子でねえ、二度も死にかけるのですから」
 「ウムギ、あなたは?」
 「私も思い出は多すぎるけど」ウムギも楽しそうに言った。「しいて言うなら、あの子かな。スサノオの都にいたとき、マガツミたちをよせあつめて作り上げたあの男の子」
 「あの時のことは私も覚えているわ」キサガイがうなずいた。「皆でさんざん議論したわよねえ、いく晩も、いく晩も。どのマガツミを使うのか。勇ましいのやまじめなのや面白いのや優しいのや」
 「結局話がまとまらなくて、ほとんど全部使ってしまったのよねえ。かわいい赤ん坊だったけど、いったいどうなったのかしらと今でもちょっと心配だわ」
 「キサガイはどう?」サシクニワカヒメがうながした。
 「二人いて、決められないのよ」キサガイはほおえむ。
 「あら、それはちょっとずるいわ」ウムギが軽くキサガイをたたく。
 「だって甲乙つけがたいのよ、私のなかではいつも二人は」キサガイはほおえんだ。「一人はずたずたに切りきざまれた肉片になって、草原の笹原のそばに散らばっていた子。もう一人は浜辺の水たまりの中に海に溶けかけながら、ぷよぷよ浮かんでいた子。ひろい集めてつなぎ合わせるのも、かき集めてまとめあげるのも大変だったけど、私たち、うまくやったと思わない?」
 「あれはいい仕事でしたねえ」サシクニワカヒメがうなずいた。「私も覚えていますよ」
 「皆、どうしているんだろう?」ウムギがつぶやく。「あまり苦労してないといいけど」
 「それはもう、めいめいで何とかやってもらうしかないわね」サシクニワカヒメがさばさば言った。「私たちはできることはしたのですから」
 「ああ、日が昇る!」ウムギが喜びの声を上げた。
 うす紫と青の雲が灰色がかった黒い空にくいこんで、明るいわれ目を広げたところから赤みがかった光がさっと流れ出し、海も草原も一気に明るく染め上げて行く。
 崖の下から村人たちの上げる喜びの声が、遠く潮騒のように立ち上がって来た。
 「また新しい年が来る」大きな声でキサガイが言った。
 「そして私たちはあらゆるものをすくい上げ、よみがえらせて、また世の中に送り出す」ウムギがはしゃいで軽くとびはねながら続けた。
 「ここにいる限り、この世にいる限り」サシクニワカヒメの声は落ち着いていた。「私たちは自分の仕事を続けるでしょう」
 光があふれて三人を包む。三人の背後の小さい家も、そそりたつ大岩も。遠い沖も地平線も。とびらの中の皿の料理も、すりきれた布巾も、岩をよちよち登る小虫も、草原を走る子鹿の耳も、雲も空気も、何もかもを、風と光がはてしなく、おおって行った。

水の王子・岬まで   完

水の王子 全巻 完                2024年1月9日

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