水の王子・「川も」18
第十章 春の訪れ
雪は次第にとけ始めていた。川もそろそろ新しい流れの場所をさがしているように、水が減ったり増えたりと、不穏な動きを見せ始めていた。人々の家の回りには、可憐な淡い水色の花が咲き出していた。
商人の宿にはまた荷物が増え、下働きの男女は仕分けや整理に朝から晩まで余念がなかった。このごろは時には子どもたちも連れ立ってよく来ていた。「旅に出るのに、商人の馬車に乗せて連れて行ってもらったら便利じゃから、毎年何人かはそうやって出て行くんじゃわ」と、はげ頭の主人はハヤオたちに説明した。
「親はとめたりしないのか?」
「いろいろじゃなあ。喜んで送り出す親もいれば、親にかくれて出て行っちまう子どももいて、ま、そのへんはさまざまだわな」
主人は仕事がますます忙しくなる一方で、何とか時間を作っては、二人の少年にナカツクニの村の話を聞きたがった。「いっぺん行ってみたいけど、毎年こんな忙しさじゃ、私が行くのはきっと一生無理だろうなあ」彼はちょっと淋しそうに、そう言った。「それにタカマガハラは立派すぎて、私のような者には何だか恐いし」
「変なとこ弱気なのよね」娘が言って、主人の頭をぴしゃぴしゃはたいた。主人もうれしそうに、はたかれていた。
お屋敷の娘たちは、まだ旅立つ決心はついていないようだった。「あたしの首のところの目、このごろだんだん薄くなって消えちゃいそうだし」姉娘は不安そうにそう言っていた。「商人たちは、これがたくさんある方が大切にしてくれるって話だし」
「急ぐことないわよ」屋敷の妻はのんびり言っていた。「もう何年か待ってみたら? この村にずっといたっていいんだし」
「あたしは姉さんといっしょでなきゃ行かない」妹娘はハヤオにそう打ち明けた。「姉さんはあれで案外、あたしがいなくちゃだめなのよ」
※
ツマツとモモソの毎日は少しも変わらなかった。二人はそれぞれせっせと働き、夜は寝床でおしゃべりしていた。そろそろ旅立つことにしたよ、とヒルコがまだ寝ている早朝、畑でハヤオがツマツに告げたときも、彼女は「そう」と言っただけで、特に驚いた様子はなかった。
「商人たちのいる宿に行かせてくれてありがとな」ハヤオは礼を言った。「あんたがまた行くようになったら、あの娘もきっと喜ぶ」
ツマツは畑の柵によりかかって笑った。「どうかな。淋しがるんじゃない?」
「また来るよ」
「そうだといいわね。そう言っとくわ」
「お屋敷にいた若者とも時には会ってやれよな。あんたのこと好きみたいだし」
「ああ、彼ね」ツマツはうなずいた。「考えとく」
あんまりツマツが落ち着いてふだんと何も変わらないので、ハヤオは動揺させたくなった。
「おれとヒルコと、どっちが好きだった?」彼は聞いてみた。
ツマツはしばらく黙って考えていた。「そうねえ」
「どっちも、とか、どっちでもない、とかはなしだぞ」
するとツマツは「見た目はヒルコ」と言った。「中味はあんた」
「逆の方がよかったな」ハヤオは笑った。「君のこと好きだったのに」
「笑いながら言う?」ツマツは面白くもなさそうに言って、柵に後ろ手をかけたまま、ハヤオが顔を近づけて口づけするのにまかせた。
※
「君、これからどうやって生きてくんだ?」ハヤオは並んで柵によりかかりながら聞いた。「この村で、このまま年をとるつもり?」
「まだ何も決めてない」
「何も考えてないってことはないんだろ?」
「そう言われて考えてみるならだけどね」ツマツは言った。「この村をこんなにした、二人の男のことを知りたい」
「木を切らせた男と、たくさんの女と寝た男?」
「そう。この世を変える力と、女の心をもてあそぶ力について、もっと知りたい」
「知って、どうする?」
「それも今あんたに聞かれて考えたことなんだけど」ツマツは言った。「あの二人が作り出した、この村のすべてをひきいて、私は彼らと戦いたいの。育たない木とか、動く川とか、ふつうでない子どもたちとか、そんなもの全部をまとめて」
「勝てると思うの?」
ツマツはほほえんだ。
「きっと、この戦いの中には、愛することも、許すことも、受け入れることも入ってると思うんだけど、それにしたって戦う相手は途方もなく大きくて、多くて、強い。あの二人がかりにもう生きてなくて、いなくなってしまっていても、それはちっとも変わってない」
「なら、なおのこと」言いかけてハヤオは首をふった。「いや、君にはもうそんなこと、とっくにわかっているんだろうな」
「何よ」ツマツはハヤオの方を向いた。「言ってみて」
「もっとじゃんじゃん動いてみろよ。最高のもの見つけるまで待っていないで、仲間もふやして、恋もして。まちがったなら引っ返し、失敗したら捨てりゃいい。卑怯とか愚かとか憎いとか言われたってかまうもんか。それで世界がめちゃくちゃになっても、君が一番大切なもの失っても、そんなこと全部、きっと何とかなるもんだ」
「生き残っている人から言われても、いまいち信じられないよね」ツマツは薄笑いを浮かべた。「でもまあ、とにかく、ありがとう」
※
村を出て、山道を歩いて行くとき、荷馬車の音を聞いた気がした。気のせいだったかもしれない。どっちみち、遅かれ早かれ商人たちの馬車は来るだろう。山の気の早い若木には、もう小さな芽がついていた。見下ろすと谷底の村は、一面の青い花で霞のようにおおわれて、家々も川も、どこにあるのかよくわからなかった。
そして、ハヤオの心の中には、わけもなくふっとかすかに不吉な予感のようなものが走った。昔どこかで、こんなことがあった。自分がヒルコを連れて逃げ出して行く世界。そこに残して行く者たち。つかの間、心を通い合わせ、愛し合ったと思った相手。自分たちと入れ代わりに、そこに何かが訪れる。望みのない戦いが、そこではこれからも長く続く。連れ出される者たちにも、それに劣らずさまざまな不幸や危険が待っている。
ヒルコは村を見下ろさなかった。ツマツやモモソやお屋敷や、商人たちの宿のことなど、もはやすっかり忘れてしまったかのように、昔のままの、いつものヒルコに戻っていて、生き生きとナカツクニの村で暮らすための、自分たちの住まいについてしゃべっていた。
「いいこと思いついたんだよ。浜辺か、川のそばか、村のなかでもどこでもいいから、大きな灯台みたいな建物を、もう一つサクヤに頼んで作ってもらおうよ。すごく高くて、木みたいで、津波にもびくともしないようなのをさ。そうしたら、ほら、てっぺんのへやからは、海も岬も草原も思う存分見えるじゃない? 住心地とか見た目とかがよかったら、次々にいくつもそんなの建てたら森みたいで楽しいし、津波のときは皆でそこに逃げこめるし、ねえ、すごくいい考えだと思わない?」
「うん、悪くなさそうだ」
言いながらハヤオは、それでもやはり、あのときと同じように、こうして自分はヒルコとともに歩いて行くしかないのだと思っていた。村人たちも、あの川も、すべてのものを、あとに残して。
水の王子「川も」 完 2024年3月18日