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水の王子・「沖と」1

(「水の王子」全十二巻のおまけというかエピローグ「沖へ」の開始です。なお、ファンタジー世界で奇想天外な設定とは言え、津波のことを題材にしています。ご承知の上、閲覧にはご注意下さい。

第一章 クシマト

大地の奥底で何かがゆらいだ。
 気づいた者はいなかった。
 空のかなたのタカマガハラはもちろんのこと、草原でも都でも、ここ浜辺の小さな村ナカツクニでも、人々は夜明け前の安らかな眠りの中にいた。
     ※
 ゆらいだ地底の一角は、やがておだやかに、ずれて動いた。
 かすかな移動が次第にあたりに広がって、土と岩とが波うった。
 たたまれて、重なってゆく部分に海水が静かに流れこみ、わずかなゆがみが、あちこちで生まれた。
 細かい震えが地表を走る。海の底では熱い泥があぶくとなって、澄んだ潮ととけあった。
 どこかで、ひとかたまりの陸地ほどの岩が落ちこんだ。
 その空間に巨大な水が押しよせる。
 それでも地上の人々は、誰もまだ目をさまさなかった。
     ※
 クシマトは何かを感じた。
 ナカツクニの村の、小さな家の窓べに彼らは、すきとおった板となって、はりついていた。
 彼らは男でも女でもなく、そもそも生きものと言えるかどうかも怪しい、生命体の集合だった。
 もとは人間だったと言われる。
 それぞれの事情から、とかされ、形を変えられて、時には薄められ、あるいは一つにまとめられて、マガツミと呼ばれる生きものになった。
 タカマガハラと戦って長いこと地上を荒らした悪の世界ヨモツクニに使われて、人々にさげすまれ、恐れられる存在となった。
 しかし彼らに意志はない。おぼろな記憶がきれぎれに残るだけで、強く命令されたり回りにまきこまれたりすると、大半がそのままに動いて、生きものを傷つけ、滅ぼした。
 クシマトもそうやって、この村に来た。
 ある町の王の命令をうけた兵士たちとして。
 そして、村人たちの抵抗にあい、力を奪われ、とかされて、今は多くの目と口を持った、すきとおる巨大な布のような姿になっている。
 自分たちが何者で、どんなはずみで、どんな力を持つようになるのか、それはマガツミたちにもわからない。
 ただ、そのような力の何かが、人間や生きものたちの誰もが気づかなかった、何かの動きを、かすかに、クシマトに伝えた。
 落ちつかぬ身じろぎをして、夜明けの淡い光の中で、クシマトと呼ばれる彼らは、自分たちが窓をおおって寒さを防いでいる部屋の中の寝台の上で、すやすや寝ている若者をながめた。
     ※
 若者の名はタカヒコネという。
 この家には他に数人の人間が住んでいる。女主人らしい一人が、彼らにクシマトという名をつけた。人々はいつの間にか、その名で彼らを呼ぶようになり、クシマトもその名を覚えた。
 だから女主人にはわずかに関心があるが、他の者たちの区別はよくついていない。
 寝台の上の若者だけは別だった。
 彼の名前も姿も、クシマトはよく覚えていたし、その行動にも関心があった。
     ※
 殺されて、とかされて、一つの大きな布のようになって、村の畑一面に広がったとき、彼らはこれからの自分たちの運命を予感していた。
 人間の姿だったときのことなど、ほとんどの者が覚えていない。
 ただ、何度も切り刻まれた。
 ふみにじられて、焼かれて、とかされ、何をしているか自分たちでも気づかないまま、何かをしては、憎まれた。
 もうこれでおしまいで、この世から消えられると思っても、また気がつくとよみがえらされ、その苦しみにははてしがなかった。
 それが今度で終わりになるかは、彼らの誰にもわからなかった。
 からからに乾く大地の上で、飲まず食わずで枯れ果てるまで長い時間を過ごすのか。
 雨にうたれて、凍えて腐って、やがてどろどろに溶けてゆくのか。
 誰かが、火で焼け、と言っていた。
 彼らの中には、その熱さと痛みとをよく知っている者もいた。
 知らないままに、ひたすら恐れている者も。
 それらの苦しみのどれかが、あるいはすべてが、これから、自分たちにおそいかかる。
 ほとんど動く力もないまま、からまりあって、とけあって、声にならない恐怖と悲しみの叫びを彼らはあげた。
 その時に、声がした。
 人のことばのおおかたを理解できない彼らなのに、その声だけはよく聞きとれた。
 どうしてか、意味もわかった。
 それは、彼らのために語っていることばだったから。彼らの気持ちを口にしていることばだったから。
 これまで一度も耳にしたことのない、ことばの数々だったから。
     ※
 彼らにも命がある、とその声は言っていた。痛みだってわかる、とその声は言っていた。
 助けてやれ、何とかしろ、と回りに向かって訴えていた。
 気がつくと、思いがけない力が生まれて、声の方へと動いていた。
 波うって、たたまって、丸まって、その足もとに集まったのだ。
 声の主は飛びすさった。気味悪がって、恐がって、そんなつもりで言ったんじゃない、近寄るな、と叫んだ。
 そんな反応には慣れていたから、彼らはちっとも傷つかなかった。回りの者も面白がっているようで、そのままにしたから、それ以後もなるべく小さくまとまって、彼のあとをついて歩いた。草の中をすべったり、時にはちょっと空を飛んだりして。
 彼はしんから、いやそうだったが、無視することにしたようだった。湖のそばの小さな家に、家族らしい数人と彼は住んでいて、寝台と棚と食台だけの大きな窓のあるへやで寝起きしていた。窓からは湖と、遠い向こう岸の木々と、かなたの山が見えた。
 夜になって、何枚もある板戸を下ろすと、へやの中は暗くなる。彼は灯皿に火をつけて、ゆらぐ炎の中で、やっぱり彼につきまとって、そばをはなれない、犬ともオオカミともつかないけものの毛を、くしですいてやったりしていた。そんなとき、じゃまにならないように彼らはへやのすみで、たたまったり、丸まったりして、目立たないようにして過ごした。
     ※
 疲れているのか、外を見るのが好きなのか、若者はときどき、日暮れになって寒いのに、板戸を下ろさず、ちょっと震えながら窓辺に立って、長いこと外をながめていることがあった。それで思いついて、あるとき窓に一面にはりついてみると、若者はびっくりしながらもうれしそうに声を上げて笑った。夜は床に座って、あのけものをなでながら、湖の上に輝く一面の星を夢中になって見ていたりした。
 彼を喜ばせているらしいのに、マガツミたちは満足した。それからは彼のあとをついて歩かず、昼間でも窓にはりついているようにした。ぶつかって来た虫のつぶれたのや、雨や雪で汚れると、湖に行って水浴し、いつもぴかぴかすきとおって、外の景色がよく見えるように心がけた。
 他の者たちも面白がって、やがて女主人が名前をつけてくれた。時にはへやに風を通さないといけないと思ってクシマトは晴れた日には窓から離れて家の回りをうろつき、家族の台所仕事や畑仕事の手伝いをした。
 そんなこんなでクシマトは、おおむね今の暮らしに満足だった。充実していたと言ってもいい。
 彼らは過去を忘れていると同じように、先のこともあまり考えなかった。今がよければさしあたり、それでいいと思っている。
 しかし、今感じた、どこかから伝わって来た細かいゆらぎは彼らを妙に考えこませた。
 このタカヒコネという若者にとって、この村にとって、あまりよくないことが起こりはじめているような気が何となくしたのである。
     ※
 イナヒとか呼ばれている、あのけものも何か感じたのかもしれない。
 それとも、クシマトの不安がどこからか伝わって行ったのだろうか。
 寝台のはしから身体を起こし、しばらくあたりを見回したり、鼻をひくつかせたりしていてから、いつものようにタカヒコネをつっついたりせず、やおら起き上がると用ありげに、そっと戸を脚で押しあけて廊下に出て行ってしまった。
 クシマトはまだ迷っていた。どうしていいのかわからなかった。
 何しろもう長い間、彼らは自分たちで何かを考えたり決めたりしたことはなかったのだから。
 考えるのは、骨が折れた。非常に疲れた。
 このままにしていても、自分たちにはそんなに困ったことは何も起こらない気がしていた。
 海があふれたら、どこかに漂っていけばいい。
 山が崩れたら、別の場所に移動するだけだ。
 だが、この若者タカヒコネにとっては、放っておいてはまずいことになりそうな気がだんだんに高まって、彼らの中でまとまって来た。
 窓にはりついているのは、クシマトのごく一部で、他は窓の下の床や壁のすみに、寄せてたくしこんである。
 それらのすそを少し広げて、そっとタカヒコネにさわってみた。
 イナヒとまちがえたのだろうか、彼は口の中で何かつぶやき、目を閉じたまま、クシマトをおざなりになでて、そのまままた眠りこんでしまった。
 彼の手は暖かくて、やわらかだった。
 ひとたまりもなく、つぶされたり、ひきさかれたりするだろうとわかった。
 クシマトのだだっ広い身体のすみのあちこちで、誰かにふれたり、抱きしめられたりした時の記憶が、かすかによみがえってうごめいた。
 何かを奪われ、失ったときの、寒さや切なさも。
     ※
 少なくとも彼を、このままにしておくのはまずい。このまま、ここにおいていたら、どう考えても、いいことにならない。
 どこか、別のところに連れて行かなければ。
 そう思ったら、それ以外のことは考えられなくなったから、クシマトは身体のはしをのばして、若者の身体を巻いて、つつみこんだ。
 タカヒコネはまだ目をさまさない。だが半ば無意識に枕もとの短剣に片手がのびた。
 それがクシマトを、びくつかせた。
 刃と指がつながったら、切りさかれると、よく知っていた。
 彼らは一気にタカヒコネをくるみこみ、短刀からも寝台からもひきはがして、いっしょに窓からすべり出し、夜明けの空へと舞い上がった。
 さすがにタカヒコネも目をさましたが、とっさに何がどうなっているのか、さっぱりわからなかったらしい。
 彼をおおってくるんでいるのは、クシマトのごく端っこの一部分だった。
 他は大きく広がって、ゆらゆら空を飛んでいた。
     ※
 周囲はすべて、すきとおっている。やわらかく、少ししめっぽい布を通してタカヒコネは頭上の空に消えのこる星も、眼下に小さくなって行く、さっきまで寝ていた家も、そのそばの湖も、畑も、岬も、家々も、砂浜の舟も、要するに村全体がよく見えた。
 何が何だかまったく理解できなかったから、かえって恐怖は感じなかった。声をあげても無駄すぎるとわかっていたから、彼は黙って、動かなかった。
 そうしていられた最大の原因は、多分、自分を押しつつんでいる、このすきとおったかたまりのすべてから、何の敵意も悪意もまったく伝わって来なかったことだ。
 そこにはただ、あふれるような善意と好意だけがあった。無知であっても、けんめいに何かを考えようとしている気配と努力も、ひしひしと感じた。 

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