水の王子・「沖と」4
第四章 シナツヒコ
シナツヒコはタカマガハラの戦士として一応の訓練は受けていたし、中程度の船なら指揮官をつとめたこともあった。しかしここ何年かはヨモツクニとの戦いも終わり、地上も一応平穏だったから、船に乗り組むこともなく、もっぱらタカギノカミやクニトコタチの手伝いをして、雲の管理や動物たちの世話に明け暮れ、地上に降りることもなかった。西の海底で地震が生じ、大きな津波が押し寄せるから、海岸地方の村や町の人間たちをできるだけ救うようにと、ほとんどの船がかり出され、戦闘用でない船や、最近わりと作られはじめた数人乗りの小型の船まで、すべてが地上に向かうことになったとき、自分もそこそこの大きさの船をまかされたのには、彼自身が少々めんくらっていた。
同じような年齢と経歴の若者たちも、そう命じられた者は何人かいて、彼らは「まあ、敵と戦うわけじゃなし」「海岸で見つけた人たちを、乗せるだけ乗せて、海から離れて、津波の届かない草原の奥まで運べばいいだけなんだから」と、どことなく落ち着かない顔で言い合ったりした。
「でも、そもそも、津波が届かない安全な地点って、どこまで行けばいいのかわかるのか?」そう言って気にする者もいた。
「そこは、前もって大丈夫と言える地点に、戦士たちが待機していて目印も出してくれるそうだから」
「適当に決めたんじゃないといいけどね。だってそんな地点、津波の規模によって、さまざまなんじゃないの?」
ぶつくさ言いながらも、しかし彼らはいつものようにてきぱきと、それぞれの船に乗りこみ、かじ取りや部下たちに指示を与えて、船を出した。
まだ明けきれぬ闇に近い、薄青と墨色のまじりあう空の中に、数百にものぼる大小のまっ白い船が整然と下って行くのはみごとなながめで、シナツヒコも不安や緊張と同時に、わくわくするような気分も味わっていた。
将軍のアワヒメが途中で船に乗りこんで来た。いかにも戦闘用らしい鋭いへさきと太い帆柱の巨大な船から、甲板伝いに軽々と、綱をたぐって飛び移ってきたのだ。「シナツヒコ、ご苦労さま」いつものなごやかに華やかな笑みをたたえて、彼女は声をかけて来た。「あなたの船はナカツクニの村に行くのね。あそこは入り江の奥だから、きっと根こそぎやられるわ。知らせはもう届けているから、住人たちもそれなりに対応は始めているでしょうけれど、何をしたって、とても皆は逃げきれないはず。幸い、背後の草原は広く開けていますし、しばらく先に丘が土手のように、横に長く延びている。そこまで行けば波はとまるわ。兵士たちも待機させているから、丘まで行ったら運んだ人を降ろして、すぐ引き返して。二三回往復すれば、村人の多くは助けられるでしょう」
※
「だったら、もっと大きな船で一度に運んでしまった方が効率がいいんじゃないですか?」かじ取りの中年の女戦士トヨウケがずばずば言った。「そもそも、村人の数って、どのくらいなんです?」
アワヒメは帆柱にゆったりよりかかって首をふる。指先は胸にたらした豊かな金色がかった髪のはしを編み始めている。これは最近の彼女の癖なのだが、いつも中途でやめるから、戦いともなれば編みかけの髪の房が炎のように四方へ散り、味方までつい目を奪われてしまったりする。「それがねえ、よくわからないのですよ」おっとりと彼女は答えた。「何しろあの村と来たら、旅人が勝手に住み着くし離れるし、いつも住人が入れ替わっているし」
「そ、そうなんですか?」
「おまけに、村全体の気分や雰囲気も猫の目のように変わりますからね。とにかく行ってみなければ何もわからないのですよ。このくらいの船なら一度で充分かもしれないし、ぎりぎりまで往復しても、かなり積み残しが出るかもしれないし、そこは出たとこ勝負ですね。無理をしないことですよ、シナツヒコ。あの村に関わるとつい、冷静な判断を失いがちになりますが、タカマガハラの一兵士であることを忘れないで行動して下さい。ゆめ、肩入れをしすぎないように」
「かしこまりました」
「私はこれから海岸を回って、町や村の様子を調べます。あとはすべてまかせます。いいですか、何をおいてもタカマガハラを優先して下さい」
細い紐のはきものをはいただけの白い素足をひらめかせて、来たときと同じようにひらりとアワヒメは自分の船に戻って行き、またたく間に大きな船は身をひるがえすようにして、シナツヒコの船から離れて行った。
※
トヨウケもシナツヒコも、回りで聞いていた他の誰も、アワヒメの言ったことにあらためて驚きもとまどいもしなかった。いつもタカマガハラで年寄りや親や上官から聞かされて肌身にしみこんでいることと何もちがいはなかったし、むしろそれでいいのだと安心して自信を持った。おそらくはそれがアワヒメの目指したことでもあったろう。
海のかなたを見やったが、少し明るくなってきた水平線に、まだ何も変化はなかった。本当に津波は来るのだろうか?
「見えて来たらもう一気だよ」と年かさの誰かが回りに教えていた。
「だいぶ船が下った分、遠くまでは見られなくなっていますしね」と言う者もあった。
その時、雲の切れ間から、入り江と村が見えた。
左右に、村を抱くように、長い岬が濃い緑色に延びている。と思ったらまた雲が流れて、村は見え隠れになった。
「昔はそこそこ高い山があって、それが目印になったんだけどなあ」誰かの声がしている。「あれがなくなっちゃったから、何だかいきなり現れるなあ」
「湖と川がある」別の声が言った。「ふしぎな色の湖だなあ。濃い青だけど、紫や銀もまじって、よそではちょっと見ない色だ」
「川は前には二本あった。今は一つになってるようだ」
「金色の木がいっぱいある。青いのも多い。何だかタカマガハラの木にそっくりだ。葉の色はちがうけど」
「タカマガハラの木は、あんなにいろんな色にキラキラ光ったりしないもんな。だけどやっぱり同じ木なんじゃないか。山が崩れて森がなくなってしまった後で、タカマガハラからだいぶ持って行って植えたって聞いたから」
戦士たちは船べりに集まって、指さしたりのり出したりして、言い交わしている。シナツヒコは村人を引き上げるためのはしごや綱を下ろし、船室に病人や老人を収容する準備をするよう命じた。たちまち部下たちは勝手知ったる調子で生き生きと動き出す。
もともと、この船に乗っていた者がどのくらいいるのかシナツヒコは知らない。だがタカマガハラの船のしくみも指揮系統も、すべてどの船でも同じだから、それは大した問題ではない。シナツヒコと同年代の若者で、副官をつとめるタカオカミがやって来て、受け入れ準備は整ったことを落ち着いた口調で告げる。タカマガハラでも時々いっしょに仕事をして、気心はほぼ知れている。二人は心を引き締めながらもほっとして、肩を並べて船のへさきから下を見下ろした。
雲は今完全に散って、ナカツクニの村が一同の眼下にその全体を現した。
※
タカマガハラの兵士たちが見つめたものはさまざまだった。自分たちは知らなかったが、彼らはそのときほぼ全員が、めいめい別のものに気をとられた。ある者は岬の端にそびえ立つつたのからみついた太いまっすぐな樹木のような灰色がかった灯台と、そこに吸いこまれて行くたくさんの人々を見た。ある者はその手前の岬の根もとに広がった、みごとな畝の並ぶ畑にそよいでいる背の高い野菜たち、囲いがはなたれて外に出た羊や山羊や馬や牛の何頭かはそれを食んでいるものの、群れの大半は何かにおびえたように一散にかけ出して草原に向かって走って行くのに目を奪われた。
またある者は反対側のもう一つの岬の中ほどに建つ、というより置かれている大きな古い船を見た。それは廃船らしかったが、妙に生き生き新しそうで、奇妙にどぎつい紫や赤で枠を塗られた逆三角形の窓が、笑っているか牙をむいているかに見える。ただし今はそのどれもが黒みがかったよろい戸でぴったりと閉ざされている。周囲には短い草の上にいくつもの簡素な食卓や椅子が並んでいて、そのいくつかは、ひっくりかえって、ここにも人影はない。
あべこべに、その手前の岬の根もとの手前には、見たところのんびりと、いくつもの人影が行き来していた。墓場なのか、色もかたちもさまざまの石がいくつも不規則に散らばり、中には人や動物の像のようなものもある。崖の端には人間とみまがうような小さい少女の石像があって、静かに海を見つめていた。ここにもタカマガハラに似た例のほっそりと高い木が何本もあって、金色と紫の葉を光るようにそよがせている。あたりは花が咲き乱れ、石や石像に供えられている花と区別がつかない。おごそかというより、居心地がよさそうで、人々は石に腰を下ろして何か食べたりしゃべったりしているようだ。
そこから見下ろせる崖の下の浜辺には、ずらりと大小さまざまの船が並ぶ。帆はたたんでいるか、わずかに開いている。へさきはすべて沖を向いている。どの船の上にも回りにも人影があって、せわしなく動き回っている。
※
だがおそらく、最も多くの者の目が引き寄せられたのは、村の中心をうねって流れる、どこかそっけなく、よそよそしい感じの中程度の幅の川だ。そんな感じに見えるのは、流れが強く激しいのか銀色がかったしぶきをあちこちで上げ、いたるところで、わがままな青年か気位の高い女のような活力と威厳と荒々しさを見せていて、あまり親しみを感じさせないからだろうか。その回りには例のタカマガハラの木が高く低く雑然と立ち、森になりかけの林のようだが、川に圧倒されるのか、どこやらいじけておずおずして枝ぶりも何となく自信がないし、葉も金色が少なく青みがかっている。
草原の方からずっと海辺を進んできた街道は、この村ではもう一つの川のように、流れに沿って村を横切る。暖かい茶色の土の色は、むしろこちらが穏やかに優しげで、短い草をはさんだり、ふちどられたりしながら、川によりそって進む姿は、どこか川をなだめているようにも見えるのだった。
その川と道をはさんで、木々の間にいくつもの、これまたみごとに色もかたちもさまざまの、たくさんの家が点在している。
どっしりと地にはいつくばっているような、丸っこい茶色の家。すっくと伸びて木々の間からとがった屋根が突き出している、背の高い針のように細い家。古めかしい神殿のように横にのびて、途中で川や他の家にぶつかると平気でぐねりと横に曲がってまた延びていく大きな家。木々にわざとはさまれたり、ぐるりと木にまきつくように建てられた、ひしゃげた変な小さな家。
くすんだ金色の壁、澄んだ青の屋根、しまもようの壁、まっ黒い中に白い水玉がいくつも描かれた屋根、窓のない家、窓しかないほど壁が少ない家。まったくひとつとして同じものも似たものもなく、中には似ても似つかないものが、とんでもない色と形の回廊で一つにつながったりしている。
向きも並びも何ひとつ、規則正しいものはない。それでいて、ながめていると、そこには確かに何か心地よい流れか、たゆたいのようなまとまりがあって、結果としてすべてが調和がとれていた。なぜそこに立つのか、なぜそのかたちか、誰が見ても理由がすぐに納得が行くタカマガハラの家とはちがい、すべての家がなぜそんな色か形か向きかなど、どう考えても誰も理由を思いつけないほど、無駄で突飛な建て方のようでいて、ながめていると、少しも不自然でも異様でもない。
人が出入りしたり歩いていたりしたら、もしかしたら、もっとしっくり見事に見えるのではないだろうか。そう思った者もいた。ただし、ところどころに人影はあるが、人の姿はあまりなく、岬の囲いから放たれた動物たちが、道を横切り川をはねこえて、必死に草原めざして走って行く姿の方が今でははるかに目についた。
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湖に注目した者もいた。村のはずれの畑の手前に、さえざえと深い色をたたえて、ひっそりと静まっている。川とちがって、これはこれで得体がしれない。村の一部でありながら、ちがう世界のようだった。村のすべてが消えようと変わろうと、自分には関係ないと宣言しているかのように、朝の光をおだやかに吸いこんで、白い雲と、おぼろに残る淡い月とを映している。
そこから少し村に寄ったあたりに、かつての山が崩れた名残りか、こんもり高い岩のかたまりが、ちょっとした小山のようにそびえている。てっぺんのわれ目から。やはり山や森だったものの残りか、なかば枯れた巨木が突き出して、ところどころにしぶとく青い葉をつけている。
岩の前には広場のようにかなり開けた場所があり、川には橋がかかっていて、ここにはかなりの村人が集まっていた。タカマガハラの木とはちがう、多分昔からあった森や林の木々がここでは黒ずんだ濃い緑の木かげを一角に作っているが、その他は日当たりもいいらしく、果樹園や薬草園でも作っているのか、整然とした畑や棚があちこちに見えた。
岩のかたまりは上から見下ろすとわかりにくいが、実際にはかなり大きく、灯台と同じぐらいの高さはあるかもしれなかった。地上近くに開いた洞窟の入口からは出入りする人の数も多く、中はかなりの広さがあるのかもしれない。
いざとなったら、その中に逃げ込んで入り口をふさごうとでも思っているのか、そのあたりに集まっている人たちは動物たちとちがって、あまりあわてている様子はない。村全体のふだんの朝がどんなものかはわからないが、この広場や墓場にいる人たちと、灯台や浜辺の船にいる人たちの動きが明らかにちがうように、村全体で異なる世界が混じり合っているようだった。人が見えない家の中でも、いつものままの生活を始めた家族がいるのかもしれない。よく見ると、いくつかの家からは料理でもしているような細い煙が上がっているし、家々をのぞいて回って、中にいる者をつれだして、広場の方へ引っ張って行く者たちもいた。
※
何もかもがあまりにもちぐはぐで、さまざまで、とらえどころがなかった。初めて村を見た戦士たちは目が回って混乱し、何度か前に見ていた者は、そうこれだったと忘れていた感覚に引き戻された。
世にも強烈なようでいて、村の印象はどこか淡くて、目をはなしてしまうと、それほどいつまでも記憶に残らないのだ。
それぞれの思いに身をまかせながら、次第に近づいて来る村を、タカマガハラの戦士たちは皆黙って見つめていた。
今日の日暮れか昼過ぎには、きっと、あとかたもなく消えてしまうこの村。
そのことに激しく心が騒いだ者もいれば、どこかでほっとした者もいた。
どうしようもなくひきつけられ、もっと知りたいと思う一方、そのことがまた、恐ろしくもあったのだ。
※
タカオカミがせきばらいした。「それなりに避難は進んでいるようだな」
「ああ」シナツヒコはうなずいた。「灯台に入った者は、そのままにしておくしかないだろう。あの洞窟に入った者たちも、入り口をうまくふさげれば、あるいは助かるかもしれない」
「我々にそれをやるひまはありませんよね?」
「あるものか。あの広場に船を下ろして、集まった人々をできるだけ乗せて往復するしかない。水平線に津波はまだ見えないが、見えたとたんに一気に来るぞ」
「あの浜辺の船も放っておくしかないですか。かなりの人が乗ってるようだが」
「広場の方が優先だ。そもそもあの船、何をする気だ?」
「へさきを沖に向けています」かじ取りのトヨウケが、はりつめた声で答えた。「彼ら、波に乗る気でしょう」
「津波に?」タカオカミが思わずふり向いた。「冗談じゃないぞ」
回りの戦士たちもざわめいた。「そんなことできるものか!」「狂気の沙汰だ!」「あり得ない!」次々に声があがった。
「津波に向かって乗り上げて、向こうに越すか、ともに流れて浮かんだままで何とか乗り切るということか?」シナツヒコが聞きただした。「そんなことが可能なのか?」
「腕に覚えのある船乗りなら」トヨウケが答えた。「まったく不可能というわけではありません」
「だが、あそこにある船全部が成功するとはあり得ないだろう」誰かが言った。「万一、いくつかは残っても」
「ひとつも残らないかもしれませんが」
そう答えたトヨウケの目が、どこか酔ったように輝いているのをシナツヒコは見る。自分もやってみたいという心の高ぶりがあるような気がした。
これか、とシナツヒコは唐突に思った。アワヒメの注意したのは。
さまざまなかたちで部下たちは、この村にとらわれはじめている。自分を失い、村の一部になりかけている。
「聞け!」彼は思いきり声を張った。
「もうすぐ船は着地する。するべきことはわかっているな!? 絶対に、タカマガハラの兵士であることを忘れるな! すべてにおいてタカマガハラが優先だ! いいな、それだけを基準に動け!」
はじかれたように部下たちが顔を上げ、すべての目がシナツヒコを見守った。数人がうなずき、目がさめたようにまばたきし、首をぶるりとふった者もいた。それを確かめてシナツヒコは「散れ!」と命じた。「仕事だ!」
タカオカミが大声で矢継ぎ早に指示を下し、トヨウケは息を殺してかじをにぎった。叫び交わして部下たちはみるみる四方に散ってゆく。
船の上にタカマガハラが戻った。
シナツヒコはこっそり、静かに息を吐いた。
一応は。今のところは。