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水の王子・「沖と」5

第五章 ツクヨミ

木々の枝を押しわけながら、タカマガハラの船が地上に着き、かぐわしい花や草や水の香りが一気に濃く甲板を包んだ。下ろされたはしごを伝って最初に乗りこんできた村人は、もともとタカマガハラの戦士だったアメノサグメとニニギだった。ともにすぐれた戦士としてタカマガハラの指導者として取りざたされたこともある伝説の人物だけに、兵士たちにはさえぎることなど思いもよらなかったし、甲板にいた者全体の中にも抑えたどよめきが、さざ波のように走った。二人の方もまた、それなりの距離は保ちながらも楽々と自然に皆に笑いかけ、サグメは現将軍のアワヒメよりもしかしたら上から目線で「ご苦労さんだね、シナツヒコ」と声をかけて来た。「村人たちをこっちに上げていいかい? どうせ素直にいうことを聞かないかもしれないから、あんたの部下も貸してくれたらありがたいんだが」
 特に見せつけているのではない迫力が、その傷だらけの顔と、ゆがんで曲がった身体からほとばしるように伝わってきて、シナツヒコは早々に抵抗を放棄した。「了解です。下にいるのは何人ぐらい?」
 「今は三十人ほどだが、すぐもっと増える。仲間に村を回らせて家から皆を引きずり出させているからね。あんたの部下たちを当面ニニギの指示に従わせてくれるか? はしごの下での誘導に」
 「承知しました。こちらからも副官のタカオカミを下ろしますから、何かあったら相談してことにあたって下さい」
 「よろしく頼む」ニニギがタカオカミの方に身をのり出して、腕をたたいた。「行こう!」
 二人が早口に打ち合わせしながら、はしごをすべり降りる。後に続くサグメにシナツヒコは声をかけた。「村の主だった方々は? あなた方は?」
 「私たちは皆、最後まで残る」そんなことはわかっているだろうがと言いたげに、サグメはうるさそうに手をふった。「皆の後で、運んでおくれ」
     ※
 シナツヒコもタカオカミも、救いを求めた村人たちがわれがちに先を争って船に乗ろうと押し寄せるかと思っていたら、まったくちがった。集まっている老若男女は、皆あいまいで不機嫌な顔をして、むしろ好奇心をそそられたように船を見上げたり、あたりや沖の方をながめたりしていた。コトシロヌシと名のった、大人しそうな若者が、ニニギとともに声を枯らして「早く乗って、乗って下さい!」とうながしても、何やらのろのろ動いていた。
 「今から灯台に行っちゃいかんかなあ?」一人の男がうじうじぼんやり言っていた。「あそこなら安全じゃと思うんじゃがね」
 「もう間に合いません!」コトシロヌシがぴしゃりと言った。「こちらの船に乗るのがいやなら、せめて洞窟に行って下さい。ヌナカワヒメの病院に。あそこなら、まだ充分に人が入れます」
 「間にあわんって、海はまだ全然いつもと変わらんじゃないか。津波なんて本当に来るのか?」
 「来ます。見えたときはもう遅いんです!」
 木々の向こうから、サグメの仲間たちらしい、狩りの服装をした若い男女が、赤ん坊を抱いた夫婦をひっぱるようにして連れて来た。「行くのなんていや、ここからはなれたくないの」若い妻の方が言い張っていた。「長いことさまよったのよ私たち。ここでやっと落ち着けて家も持てて、赤ちゃんもできたのよ。皆元気だし、何の問題もないんです!」
 「だから、ちょっと船に乗って、草原の向こうに行くだけよ!」連れてきた娘の一人が必死で言い聞かせている。「夕方には戻って来れるの!」
 「でも、その時にはもうこの村はないんでしょ? あたしたちの家だってなくなってるんでしょ? いやよ、そんなの! 行かないわ!」
 「言ってることが自分でも支離滅裂って、あなた自分でわかってなくない?!」娘も怒って金切り声になった。「あなたがここに残っていたら、家がなくならないとでも言うの!?」
 「いやでも」夫がおずおず口をはさんだ。「海はあんなに凪いで静かじゃないですか。ひょっと津波が来なかったら、ほら、誰かに盗みに入られて、食物や服とかも取られちゃったらどうするんです? 今晩帰っても無事に過ごせませんよ」
 「いいから船にお乗り!」通りしなにサグメがものすごい声でどなりつけた。「ぐずぐずしてたら赤ん坊ごと、たたっ斬るよ!」
 ふるえ上がって口を閉じ、連れて行かれた夫婦を見もせず、サグメはコトシロヌシに聞いた。「病院の洞窟はどうだ? 入り口を塞げそうかい?」
 「父とスクナビコが皆といろいろ工夫してがんばってるけど、はかどっていないようです」
 「タカヒコネは?」
 「それが朝から姿が見えない。見たかい、ニニギ?」
 「いや、私も全然会ってないんだ」
 「ま、どっかにはいるんだろ」サグメは舌打ちした。「スセリは?」
 「あなたの仲間と村を回って皆を家から連れ出してる」コトシロヌシは答えた。「ここだけの話、村人は皆、父のオオクニヌシよりは母のスセリの言うことをよく聞きますからね。彼女が話せばどんな家族もすぐ納得して、出て来てくれます」
 「だろうね」
 「父の考えじゃ、最初に船に乗って行く村人たちに彼女も同行してもらって、着いた先で皆の世話をしてもらおうかと。タカマガハラの人たちだけが待っていたんじゃ、皆も心細いだろうし。サルタヒコと船乗りたちはどうします?」
 「あれはもう、したいようにさせるっきゃない。アメノウズメもそう言ってる。彼女は知らせが届くとすぐに、畑で働いていた村人たちの家族も皆連れて、灯台の中に入った。コノハナサクヤとホスセリもいっしょだ」
 「サクヤもウズメも言ってました。自分たちの作った灯台は何があっても崩れないって」ニニギが笑う。
 「どうだかね。まあ、それは見るしかないね。とにかくできるだけ、ここで皆を船に放りこみ、津波が見えたら、あたしらもすぐ船に乗りこんで村を離れる。その時点で来てない者は置いて行く」
 コトシロヌシがうなずいたとき、おろおろと取り乱した声がかかった。「サグメ!ニニギ!」
 「どうした?」ニニギがふり向く。
 苦悩と当惑に顔をゆがめた男が、手をもみしぼっていた。「おふくろが近所のばあさんたちと朝からおやじの墓参りに行ったきり帰って来とらんのです」彼は三人を見回しながら訴えた。「あのメンツで出かけたら、いつも昼ごろまでのんびりのほほんと、おやじたちの墓の前で弁当食べて遊んでるんです。津波のこともきっとまだ知らんのでしょう。おれが迎えに行くといいが、行ってもここまでどうやって間に合うように連れて来たらいいか。妻や子どもたちのめんどうもみなくちゃいかんし、どうしていいのやらもう」
 三人は顔を見合わせる。「サグメ、コトシロヌシ、君たち二人はここに」ニニギが言って、男の背中をたたいた。「あなたは奥さんたちとすぐ船に乗って下さい。墓場には私が行きます。誓って何とかしますから安心していて下さい。さあ!」
 そして、ようやく次々とはしごや綱を伝って船に上がりはじめている村人たちの列の、心配そうにこちらを見ている妻子らしい数人の方に男を押しやると、一目散にニニギは墓地の方へと走った。
     ※
 入り江の面が次第に妖しくゆらぎはじめていた。海水の色もどことなく白っぽく、あちこちで泡が浮いているようにも見える。だが墓地でくつろいでいる老女たちはそれに気づいてないようで、のどかに笑い合っていた。「あらニニギ、どうしたの、息を切らして」と白髪交じりのふっくら太った婦人が、かけこんで来たニニギを目ざとく見つけて笑いかけた。 「お弁当を作りすぎてしまって、残りそうなのだけど、召し上がらない?」
 「私といっしょにすぐ来て下さい」ニニギは皆を見渡した。「津波が押し寄せそうなんです。一刻を争います!」
 さすがに顔色を変えて数人が立ち上がったが、何人かはまだ石に腰を下ろしたままだった。「津波って? ここに?」一人が隣りの老女に話しかけた。「あなた知ってる? 津波って?」
 「聞いたことはあるけれど。海の水かさが増すんでしょ? ここは高いから安心なのじゃない?」
 「でもまあ、帰った方がいいわね」一人がそそくさ帰り支度にかかった。「娘たち、きっと心配しているわ」
 「それで思い出したけど、あなたの上の娘さん、例の船乗りの彼と、あれからずっと、つきあってるの?」
 「それがねえ、何だかちっとも埒があかないのよ」
 「あの年ごろって、そんなものよね」
 たまりかねたニニギが一歩踏み出したとき、一人が突然「あれは何?」と言った。
 額に手をかざして彼女は海の、沖の方を見ていた。今その沖のかなたには、さっきまでなかった雲とも島影ともつかない薄墨がかった灰色のすじが、うっすらひと刷毛、横たわっていた。
     ※
 皆がそちらに目を向けた。「何ってあなた、雲でしょう?」一人があいまいな調子で言った。「朝に時々現れる。その内きっと雨になるのよ」
 「あれはそんなんじゃない」別の一人が、ふるえる声でささやいた。
 さあっと一同の背後の空を白い光のような何かが横切った。皆がいっせいに身体をねじって向きを変え、木々の上を舞い上がって草原の方へ飛び去って行く、タカマガハラの大きな白い船を見た。
 「皆、あれに乗って逃げたんだわ!」一人が叫ぶ。
 「私たち、おいてかれた!」
 「見捨てられたの?!」
 「すぐにまた戻って来ます」ニニギはみるみる濃くなって行く沖の黒いすじから目をはなさずに言った。「村人がいる限り、次々に乗せて無事なところまで運んで行きます。病院の前の広場に皆集まっていますから」
 うなずいてかけよって来た老女たちの中に、絶望的な目でニニギを見つめた数人がいて、ニニギもその目を見つめ返した。津波にあったことのある人たちなのだと、すぐにわかった。沖にあの波の影が見えてから押し寄せるまでの時間の短さ、ここから広場までの道の長さと自分たちの老いた足の遅さとを、よく知っている人たちだ。
 「急がないと! 行かないと!」何人かが悲鳴のような声を上げた。
 「待って」ニニギは両手を広げて押しとめた。
 「何を待つの? 急がないと間に合わなくなる!」
 「どっちみち、私たちの足ではもう間に合わないのよ」うつろな声で一人が答える。「そうなんでしょう、ニニギ?」
 「なぜよ、どうして? 波はまだあんなに遠いじゃないの?!」
 指さしかけた老女ののどから、うっという声がもれて、のばしかけた手もそのままに彼女はそこに立ちつくす。沖の黒いすじは、あっという間に今はもう、それとはっきり見てとれるうずまく高い波の壁となって、空に立ち上がろうとしていた。
 かつて、タカマガハラの船上から何度となく見下ろした光景がニニギの目には否応なしによみがえっている。なすすべもなく見守るはるか下で海岸に押し寄せる巨大な波。町や畑や草原を必死で陸の奥に向かって逃げて行く人々の、小さな虫のような数しれない黒い点の数々。散らばりつづけ広がりつづけて、少しずつ懸命に動いて進んで行くそれに、みるみる情け容赦なく追い続けては追いついて、次々のみこみ、さらって行く灰色がかったどす黒い途方もないまでの水の広がり。
 身の毛もよだつ思いで見つめたあの光景の中に、今は自分がいる。虫のようにうごめく無力な黒い点の一つになって。
 「心配ありません」と自分が言っているのを彼は聞く。
 見つめる入り江のかなたには岬が見える。その先端に高くそびえる灯台がある。コノハナサクヤとホスセリが、妻と息子がその中にいる。大丈夫よ、と明るい声で今朝、妻は言った。大丈夫、きっとまたすぐ会える。花のような笑顔で彼女はそう言った。
 「大丈夫です」彼は灯台のある方から、もう一方の目の前の岬へと目を移した。「一人も離れないようにして、私について来て下さい」
     ※
 「こんな天気の日だけあって」とびらを開けたツクヨミは笑った。「珍しい客が来るものだ」
 「入れてくれるか?」ニニギは聞いた。
 「大歓迎だよ」ツクヨミは愛想よく笑って、大きくとびらを押し開けた。「ちょっと混雑していて申し訳ないが、まあ気にせずに入ってくれ」
 ニニギはわきによけて、ついて来ていた十人近い老女たちを、ツクヨミと妻のイワナガヒメがいつもは酒場をいとなんでいる、大きな廃船の中に入れた。墓地に居合わせていっしょについて来た数人の男女も、おそるおそる足を踏みこんだ。
 「急いでくれ」ツクヨミがせかした。「もう波が入り江のすぐそばまで来ている」
 二人がとびらにしっかりとかんぬきを下ろして締め切ると、どうんと腹の底まで響くような大きな音がどこか近くでとどろいた。ひきつづき同じ音がこだまのようにくり返され、ぐらりぐらりとあたりがゆれた。
 何が起こっているのか、まったくわからない。窓もとびらも、上の甲板へ行く通路も、すべてぴったりふさがれて、店の中にはあちこちで、とろとろ小さく赤い火が奇妙なかたちの貝がらの上で炎を上げているだけだ。
 それがおぼろに浮かび上がらせる店内の様子は、この世のものとも思えなかった。
 あたりは人でぎっしりだ。男も女も入り乱れて、肌もあらわに抱き合って、酒をあおって笑い転げている。窓の外で音がしようが、船がぐらぐらゆれようが、気にする者など誰もいない。人々の歓声や嬌声、床を踏み鳴らす音だけではなく、目をこらすと部屋のあちこちには馬たちも何頭かいて、その目が薄闇の中で赤く光っているし、低いいななきや、ひずめを鳴らす音もひびいている。
 けものの匂い、皮の匂い、糞尿の匂いもただよって、なまぐさい魚料理や高級な酒の香りととけあっていた。人々が衣を脱いでいるのは、暑さのためもあるのだろうが、汗の香りや髪の香り、香料の香りもきつくたちこめて、ひとりでに身体がしびれて行くようだ。
 おそらくは生まれて初めて見る風景に、びっくりして目を見張り、ちぢこまっている老女たちを、片すみの長椅子に座らせてニニギは必死でかばっていた。だが、やけっぱちのように陽気に上がりつづける笑い声や叫び声に、老女たちも恐怖が薄らいで来たのか、とろりと呆けたような目になって、うつらうつら居眠りをはじめたり、若い男が持ってきた酒の杯を受けとっていっしょに飲んでうっとりしたり、中には皆と声を合わせて聞くに堪えない卑猥な歌を口ずさんでいたりする者もだんだん出て来て、これはこれでもいいのかとぼんやり思っている内に、気がつくと肩をよせて来たツクヨミに口づけされて、押しのけようとする前に口移しに甘ったるい酒を飲まされて、盛大にむせるしかなかった。
 「まさかおまえは、こんなことがしたいがために、津波を起こしたんじゃあるまいな?」むせかえりながらとっさに思いついたことを聞くと、ツクヨミは大笑いして、「だったらどうだって言うんだ?」と熱い息を耳元に吐きかけてきた。「人間は多すぎる。時には減らした方がいい」
     ※
 思わず剣に手がのびたが、とっくにツクヨミに腕をからめとられていて、それ以上動けなかった。「怒るな」ささやき声が続いた。「たまには楽しめよ。ばあさんたちもけっこう喜んでるのが見えないか? 何がいいって、じいさんたちの墓参りをした帰りにこうやって、はめをはずしているってのが最高だ」
 ニニギは老女たちの中でも一番まじめなしっかり者ですら、この乱痴気騒ぎに参加はしないまでも、夢中でもの珍しそうに目の前の光景に見とれているのを目にすると、悲しくて、くやしくて、腹立たしかった。切りそろえた白髪と、きりりとした挙措が見ていていつも快く、ひそかに敬愛していた老女だっただけに、大切なものが汚されて行くようでやりきれなかった。こんなことになったのは自分の責任かもしれない。あの墓場から老女たちの足で歩いて行ける場所で津波を避けられるのはここしかないと判断したのだが、果たして彼女たちの夫は喜ぶだろうか? あのまま清らかな心のままで自分の墓の前で津波にのまれてしまった方がよかったと思っているのではないだろうか? これで万一、この船が砕けて、皆が死んでしまったら、夫たちにどうやって申し開きをすればいい?
 「まあ、そう落ちこむなって」ツクヨミはニニギの腕をからめとったまま、酒をすすってなぐさめるように言った。「おまえはいい判断をしたんだよ。たとえ村人のすべてが死んでも、ここにいる者だけは絶対生き残る。そうは皆、思ってないかもしれんがな。おれにはわかっているんだよ」
 「こんなぼろぼろの、がたがたの、古ぼけた船が津波に最後まで耐えられるなんて、何を根拠のその自信だ?」
 ツクヨミは薄笑いをうかべて、赤い火のちらつく向こうで皆に酒を配っている妻のイワナガヒメを目でさした。陽気に笑っている彼女は、つぶれた鼻も細い目も、ぼってり厚い唇も乱れた歯並みももしゃもしゃ髪も、がっしりたくましい肩も腕も、荒々しい生命力にあふれ、この闇と混乱の中では特に、奇妙に人の心をそそる。
 「あれがいる限り、ほろびる者も死ぬ者もここにはいない」ツクヨミの声はどことなくうんざりしているようでもあり、誇らしげでもあるようであり、不思議におごそかな神々しさに満ちていた。「どんなに危うげで弱々しくても、古ぼけてようが狂ってようが、あれがそばにいる限り、傷ついたり消えたりはしないんだ。それが、あれの持つ力さ」
 「マジですか?」ニニギは思わず、村の若者たちの使うことばで口走った。
 「マジっすよ」ツクヨミはとろりと目をなかば閉じたまま、タカマガハラの気どった口調で、そのままに砕けたことばを返して来た。

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