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水の王子・「沖と」6

第六章 コノハナサクヤ

多分、自分が年をとって、おばあさんになって死ぬまで、この日のことはずっと覚えているだろうと、小さいククリヒメは思った。朝まだ、ごはんも食べてない内に父と母からあわただしく起こされて、着替えさせられ、そのまま一家で岬のはしの灯台に向かった。
 何もかもが初めてだった。他の家からも人がたくさん出てきていて、いつもは絶対踏んじゃいけないと言われている畑のうねを、まあ作物はもうとり入れてほとんどなかったとは言え、大人も子どもも土が崩れるのもかまわずに、どんどん踏んで歩いていた。動物たちが入っていた囲いは全部大きく開かれ、馬も牛も山羊も出て来て、そのへんの草をもそもそ食べたり、何かにおびえたように草原の方に向かって人間たちと反対の村の方へと走って行ったりしていた。牛がそんなに早く走れるなんてククリヒメは思ってもいなくて、つい見とれていたら、大きな山羊にぶつかられそうになり、父があわてて引き寄せてくれた。
 畑でふだん会う家の人たちは、皆来ていた。まだ暗い中を黙ってどんどん灯台に向かって歩いていた。「津波が来るってね」「もうすぐだそうで」何人かがそう言っているのが聞こえた。
     ※
 眠気がだんだんさめて行く中で、反対にすべてが夢の中のことのようだった。ククリヒメは津波が何かを知らなかったし、父と母に手をひかれていたから、恐いというより、ただ何かふしぎな気持ちで、ちょっとわくわくしていたりさえした。
 灯台に着くと入り口に、いつも畑で皆のまとめ役をしているアメノウズメが、このごろはあまりしなかった、派手な服装にじゃらじゃら装身具もつけて、腕組みをして立っていた。小柄だが、いつものように陽気で元気そうで、何だかお祭りでもはじまりそうだとククリヒメは思った。ウズメは笑って、よく来たねと言い、皆も笑い返して、どんどん灯台の中に入った。
 父や母に連れられてククリヒメは何度か灯台に遊びに来たことがある。高い窓からいっぱいに太陽の光がさしこんで明るく、下の方の小さい丸い窓からのぞける青い海が輝いていた。壁沿いにくるくる曲がる階段も、上り下りするのが楽しくて、いつまでいてもあきなかった。
 だが今は、夜明けだというだけでなく、灯台の中はまっ暗で、あちこちに置かれた土器に赤い炎が燃えているだけだ。そして、天井が高い建物全体に、こだまを返してやかましく、がんがんごんごん板を打ちつけている音がひびいている。大人たちがかわす声も大きくてやかましい。
 「窓をふさいでいるんだよ」ククリヒメを抱き上げながら、父が教えてくれた。「外から水が入らないようにね」
     ※
 ククリヒメは父のことばの意味がよくわからなかった。すごい雨でも降るっていうの? 父の腕の中であたりを見回す。誰かが持ちこんで抱えている大きな白いニワトリと目があって、ぎろりとにらまれて、ぎょっとした。
 灯台は三階まであって、上に行くほど部屋は狭くなる。どこの部屋ももう人でいっぱいで、もっと詰めるように頼む声もあれば、床に座りこんでしまって動きそうにない人もいる。あたたかく、むうっとした中で、父と母は何とか階段の下のくぼみに一家が座れる場所を見つけて身体を押し込んだ。
 父が抱いてくれたので、あたりに人がいっぱいなのもあって、ククリヒメは居心地がよく、安心していた。めったに見られないものを見ている、もの珍しさもあって、きょろきょろあたりを見回していた。薄暗くてあまり何も見えなかったが、やがて大きな音を立てて入り口の扉も閉ざされると、さらにあたりは闇に沈んだ。その中で、「えーと、ちょっと皆、聞いてくれる?」と畑の仕事の合間によく聞くような、ウズメの大きな声が、どこか上の方でした。
 首をねじって見上げたら、ウズメは手すりをつかんで階段の途中に立っていて、壁にかかった土器の灯りがおぼろにその姿を照らしていた。思いがけなくその横に、コノハナサクヤが赤ん坊を抱いて立っていたから、ククリヒメはどきどきした。この村で一番きれいと皆が認めている人だ。顔や姿だけではなくて、声もしぐさも優しくてすてきだし、髪や衣やはき物まで何もかもが本当にしゃれていて、見ていてうっとりするのだった。母もときどき髪型を少しまねたり、ククリヒメの帯の結び方を似たようにしてくれたりして、そんなときは一日とてもうれしかった。
 その彼女を、こんなに近くで見られるなんて! コノハナサクヤは活発で、家を建てたりするのも上手で、いつもひらひら蝶のように動き回っているから、長いことじっとそばから見られることなんか、まずはない。それがこんなにすぐ上にいて、ふわりとやわらかな薄緑の下袴のすそが、いっぱいに手をのばせば届きそうなほど、すぐ目の前の階段のはしにのっかっているなんて!
     ※
 「子どもも多いようだから、わかりやすく話すよ」ウズメは皆を見渡して、はっきり大きな声で言った。「この村にもうすぐ、津波が来る。津波っていうのは、海から大きな波が押し寄せて、人も家も何もかも、さらって海に持って行く。長い時間じゃないけどね、村はしばらく水の底に沈む。あとには何も残らない」
 ウズメはひときわ声を高めた。
 「津波は、恐いもんでもないし、悪いもんでもない。ただ困ったもんなのさ。何もかもこわして、持って行っちまう。けど、それはまた全部、作り直せる。あたしたちが生きていればね。だから、一人でも多く、生き残らなくちゃならない。津波が行ってしまうまで、何とかどっかに身をかくしてね。この灯台は、ここにいるコノハナサクヤと、そこにいるホオリとホデリ、それにあたしが、しっかり力を入れて作った。どんな波にも、まず崩れない。ここで、津波をやりすごすんだ。さてと、ここまで、何か聞きたいことがあるかい?」
 「あたしは、津波を見たことがあるけど」かん高い女の声がした。「本当にこんな高くまで波が来ますかね? 岬を越すほど高いですかね?」
 「わからないんだよ。今度のやつは大きいらしい。用心に越したことはないって話さ」
 「大丈夫だっていうけど、万一、ひょっとここが崩れたら?」不安そうな声が続いた。
 「建物が少しでも残っていたら、とにかくどこかにつかまりな。流されてしまったら、何かにつかまって浮いときな。津波のあとでタカマガハラの船が海岸を飛んで、見つけたら拾ってくれるはずだから」
 ウズメは皆を見回した。「それに、大丈夫とは思うけど、ひょっと波がこの建物の上まで来たら、どこかから水がしみこんだり、壁のすきまや穴ぼこから流れ込むかもしれないんだよ。だから、大人も子どもも、回りの壁をよく見ておいて、どこかがゆがんだり、割れたり、おかしな様子が見えたりしたら、すぐに皆に知らせな。全力で、皆でそこの修理をする。そんな場所があるかどうか、実際に水が来ないとわからないんだからね」
 人々がざわめきながらも真剣にうなずく。年かさの子どもに「聞いた? わかった?」と念を押している親もいた。そうやって自分が落ち着こうとしているようだ。「畑仕事と同じだよ」ウズメが言った。「雑草や害虫に目を光らせて、見つけたらつぶすか、引っこ抜くかすればいいのさ」
     ※
 ニワトリが一羽どこかでけたたましくときを作り、それにつられたように小さい子どもの声がした。「ニワトリは、食べるんですか?」
 ああ、ミズハもミロナミも来てないんだ、とククリヒメはとっさに思う。村の子どもたちの中では一番やんちゃで元気な二人がもしいたら、ここで質問とかしないはずがない。
 ちょっと、ほっとした。ミヅハは別に問題じゃない。そこそこ仲よしだし、ミヅハはけんかは強いけど、誰もいじめたりなんかしない。でもわんぱく坊主のミロナミは、乱暴で弱いものいじめをするし、ククリヒメの持っているおもちゃや木の実も力づくで取り上げたりするから大嫌いだった。いなくて助かったと思った。
 「食べないよ」と、ウズメがまじめに答えていた。「他の動物とちがって、あれらは空を飛べないし、足も短くて遅いから、津波に追いつかれると思って連れてきてやっただけだ。ちょうどよかった、言い忘れていたが、この灯台にはふだんから、食料はたっぷり置いてある。干魚も干し肉も餅も芋も小麦も木の実も、どっさり倉庫にたくわえてある。この人数でも何日かはもつ。だからニワトリは食べない」
 「卵も生むし!」調子にのった子どもがはしゃいだ。
 「生むけどね、皆にはきっと行き渡らない。病気の人や赤ちゃんのいる人やお年寄りにしかあげません」
 「あの…」細い声が、やっと聞き取れるほど低く問いかけた。「子どもがいっしょに来てないんです。先に来てると聞いたんで、さがしてみたけど、いないんです。どうしているか、わかりませんか?」
 「うちの親も」「「うちの子たちも」「妻と母が来てなくて」そんな声があちこちで起こって騒然となるのを、手を上げてウズメは制した。
 「村の近くに行ってた者は、ヌナカワヒメの病院のある洞穴に逃げ込んだか、サルタヒコの船に乗ったかもしれない」彼女は大きな声で教えた。「タカマガハラの船も下りて来て、草原の向こうに皆を運んで行ってるはずだ。その中のどこかにいれば助かるかもしれないが、ここからじゃそれ以上のことはわからないね」
 「あたしの娘もいないんです」いつもは元気なハニヤスという中年女が、げっそりやつれた顔で言った。ミヅハの母親代わりの女だ。ああ、やっぱりとククリヒメは思う。ハニヤスおばさん、ミヅハのことかわいがってたもんなあ。目の中に入れても痛くないんだよと、母さんたちがよく笑ってたっけ。
 「いっしょにいてやりたいです」ハニヤスはうめいた。「死ぬにしても生きるにしても。でも、あたしに何かあっても、あの子だけが助かってくれるなら、それでもいいかと思ってますよ。今はそう考えるしかないですよ」
 しぼり出すような声に皆が静まりかえったとき、どうん、と腹の底にひびくような大きな音がどこか近くでとどろいた。波が地底でうずまいて、岬の根もとにぶつかるような。人々の悲鳴が重なってあがる。「まだ大丈夫」と壁の間にわざと作ってあるらしいわれ目からウズメが外をのぞいて言った。「波は入り江にまだ入ってない。かなり近づいて来ちゃいるけどね。皆、動き回るときは、灯の器によくよく気をつけるんだよ。子どもも大人も、注意して」
     ※
 じっとしていると身体が痛くなったので、ククリヒメは父の腕からぬけ出して、階段の手すりの間からウズメたちの足もとによじ上った。コノハナサクヤもウズメも顔をよせあうようにして、板のわれ目から外を見ている。浜辺にずらりと並んだ船が、ククリヒメのいるところからもちらと見えた。「あの人は大丈夫さ」とウズメが落ち着いた声で言っている。「船をあやつる腕はともかく、あのしぶとさは天下一品だ。どうとしてでも生き延びてあたしのところへ戻ってくる」
 「ニニギもそうだといいんですけど」コノハナサクヤがちょっと情けなさそうにささやく。優しげな細い眉ときれいな目尻が少し下がって、甘やかになった表情が、ああすてきだなあとククリヒメはうっとりした。
 「あんたの一番好きなのは、ちがう男じゃなかったっけか?」アメノウズメがからかった。
 「そうなんですけど、もうあたし、自分で自分がよくわからない」コノハナサクヤはほうっと細いため息をついた。「ニニギってときどきものすごく腹立つんですけどね。本当にひどいんだから。この子が生まれる時なんか、何と言ったと思います? 本当におれの子? タケミナカタの子じゃなくて?って、疑ってるとか言うよりも何だか変に遠慮がちに。もうむちゃくちゃに腹が立って、いっそ家に火をつけて、この子といっしょに焼け死んでやろうかしらと思っちゃったわ」
 ウズメが声を殺して笑った。「まったく、言っちゃいけない時に、言っちゃいけないことを言う才能にかけちゃ、あの男にまさる者はないね」
 「でしょう?」サクヤはばら色の小さい唇を思いっきりとがらせた。「あたしはそれはタケミナカタが好きだわ。小さいときから、あこがれてた。だけど、とっくに死んだ人よ。あたしが会ったこともない人なのよ。あたしを毎晩抱いて寝てながら、どうしてそんなことが考えつけますの?」
 「あんたがあんまりタケミナカタの話ばっかりするもんだから、ひょっとして、そういうこともあるんじゃないかと思ったんじゃないのかい、あの男は?」
 「それって全然、タカマガハラらしくありませんよね?」
 「まあ、そう言えばそうだがね。変にまじめで理屈っぽいやつほど、得体のしれないことに案外弱いもんなんだよ」
 「そう、あのころは、いっしょに暮らす予定だった姉のイワナガヒメもツクヨミのところに行っちゃってて、あたしもいろいろおかしくなっていたのかもしれない。姉が話を聞いてくれてた分、ニニギにタケミナカタの話をしまくってたから、あの人もあの人で、ちょっと普通じゃなくなってたのかも」サクヤはそばにおいてあった木切れと小づちをとり上げた。「そろそろこの穴、ふさぎましょうか?」
     ※
 「まだもうちょっとはいいだろう」ウズメは外をのぞいて言った。「思ったよりも波の動きが遅い。イワナガヒメがツクヨミに熱を上げてたってこと、あんたは前から知ってたのかい?」
 「いいえ、全然。姉って自分の話はあんまりほとんど、まるっきり、しないんですよね。あたしの話を心から楽しそうに聞いてくれてるばっかりで。そこは本当に強い人なんだと思う」サクヤはウズメを見て笑った。「それでも、あなたの鏡の前じゃ、ひとたまりもなかったけど」
 「そうでもないさ」ウズメはまじめに首をふった。「鏡は一度に割れたんじゃない。ヒルコの力のせいだけじゃない。その前のハヤオや、あんたの姉さんの力が積もり積もってああなったのさ。イザナギの力さえ、あの時どこかであたしは感じた。イワナガヒメの力は強いよ。鏡に対抗できるほどには」
 サクヤは黙って木切れを板のすき間にあて、今度はウズメもそれを支えて、二人は穴をふさぎにかかった。
 「けれど、あの鏡はまたいつか」小づちをそっとあてながらサクヤが聞く。「いずれ、よみがえりますのでしょう? そうでなければならないのでしょう?」
 「だろうね。新しい世の中の、新しいかたちでね」ウズメは答えた。「でも、その仕事にたずさわるのは、もうあたしの役割じゃないよ」
 意味はさっぱりわからないまま、二人の話し声をただ、ぼんやりうっとり聞いていただけのククリヒメは、板壁のわれ目が閉ざされて、あたりが更に暗くなる前、階段の上の方にごちゃごちゃとひざを抱えて固まるように座っている子どもたちの中に、見覚えのあるとんがった鼻と、大きな口と、もしゃもしゃ頭を見つけて、息をのんだ。
 ミロナミ、やっぱりいたんじゃない!?
     ※
 彼は何だかしょんぼりしている。いつも皆をいじめまくっていたからか、そばの子どもたちの固まりからも少し離れているようだ。暗くなる前に彼もたしかにククリヒメを見返して気づいたようだが、その目はどんより曇っていて、いつもの生気はまるでなかった。
 そばの女の子たちが彼を押しのけたようだ。じゃけんにされてる、いい気味だわとククリヒメは溜飲を下げた。彼は押されるままに階段を数段ずるずる下がって、ククリヒメの近くまで来た。
 どうしようかと思っていたら、彼の方から聞いて来た。
 「おまえ、一人か?」
 「下に父さんと母さんがいる」
 「ふうん」
 「あんたは?」
 ミロナミの顔がべしょべしょにゆがんだ。「母さんも兄ちゃんもばあちゃんとこに泊まりに行ってて、今朝は家にいなかったんだ。おれは山羊の世話で残ってた」
 「じゃ、今一人?」
 「ばあちゃんは家から出たがらないから」彼は言った。「皆、病院にも船にも、多分行けてない」
 「そんなことわからないでしょ。誰かが連れて行ってくれるよ」
 「おれんち、近所と仲よくないんだ」
 「あんたのせいで?」ククリヒメは思わず言った。
 「うん」拍子抜けするほどあっさり、ミロナミはうなずいた。
 ククリヒメは何と言っていいかわからず、いつものいじめっ子のミロナミの方がずっとましだという気がした。
 「ハニヤスおばさんも言ってたじゃない」とっさに思いついて言った。「あんただけでも助かったらいいって、きっと皆思ってるよ」
 「家族皆でいられるおまえに何がわかるもんか」ミロナミはとげとげしく言い返した。
 「そんなの、よしあしだよ」ククリヒメは負けてなかった。「ひとまとめに死んだら、うちの一家全滅だよ。ばらばらでいたら、何があっても、誰かは生き残れるじゃない。思い出してももらえるし、皆で消えるよりずっといいよ」
 ミロナミはあきれたようにククリヒメを見て「変なやつ」とだけ言った。

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