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水の王子・「沖と」7

第七章 ハヤアキツ

「はかどりませんねえ」ヌナカワヒメがため息をついた。
 「こうも、どの薬もきかんとはな」スクナビコも珍しく、少しあせっているようで、声はきげんが悪かった。
 「こうなってはひたすらもう、人手を使って木と石を積み上げて行くしかないか」オオクニヌシが額の汗をぬぐって言う。
 「その人手が足りないんですよ」ヌナカワヒメが嘆く。「力のありそうな者は皆、サルタヒコの船に行ってるか、村を回って皆を家からひっぱり出して船に乗せるのに忙しい。病院の働き手は上の階の二つの入り口をふさぐのに精いっぱいだし」
 「動ける病人もけが人も、避難して来た村人たちも総動員でやってるんですが」若者の一人が巨大な洞窟の入り口を見上げて吐息をついた。「何しろ、この入り口は大きすぎる。スクナビコ、石をくずすとか土を持ち上げるとか何かできないんですか?」
 「やって見とるが難しい。下手すりゃ洞穴全体が崩れて、上の階もこの階も、皆、ぺしゃんこの、下じきじゃ」
 「いったい津波は、どの程度の高さまで来るんでしょうか?」ヌナカワヒメが必死で考えをめぐらせている。「もう、入り口の下の方三分の一ぐらいは、土と木々とで、こうやって、土手のようなものはできていますわ。この高さぐらいで津波がとまってくれれば何とかなります。いっそ、上の階の入り口をふさぐ作業も中止して、その分の人手をここに集中して、もっと入り口の土手を高くすれば、その方が望みがあるのではありません?」
 「逆かもしれんぞ」オオクニヌシが言い返す。「下の、この入り口はこのままにして、上の階の入り口をしっかりふさいでしまい、今、この下の階にいる人たちを病人もけが人も皆とりあえず上の階に運び上げて、津波が引くまで何とかしのげば…」
 「上の階の広さと強さは、それだけの人数を上げて大丈夫ですか?」娘の一人が危ぶんだ。「崩れ落ちたりしませんか?」
 「その心配はありません。もともとあった岩穴です」若者の一人が答える。「これまでの年月、階段やはしごを作って我々が上に病室を広げただけで、落ちてくる心配はない」
 「ただね、薬やいろんな器具が皆、この下の階の横穴の倉庫にあるんです」ヌナカワヒメが唇をかむ。「それが皆、水でやられてしまったら、たとえ上の階に運んだ病人やけが人の命を助けても、あとの治療ができません」
 「やっぱり最初の計画通り、上の階も下の階も入り口をふさいでしまって、全体で津波をのりきるしかないんですよ」誰かが言った。
 「ただそれには圧倒的に人手が足りないし、時間がない。津波は思ったより遅いが、もう確実に近づいて来ています」
 皆の目が、林の向こうに見える砂浜と入り江、そのかなたに、もう空の半分ほどに真っ黒く立ち上がっている巨大な波の影を見つめた。
     ※
 「何から先に考えていいのかわかりませんが」一人が言った。「首尾よく何とか入り口が全部ふさがれてしまったら、中は真っ暗闇でしょう。治療も何もあったもんじゃない。灯りの準備はできてるんですか?」
 「どこまで頼りにしていいかわかりませんけれど」ヌナカワヒメが手で示した。「今でもけっこう明るいでしょう?」
 「これは上の階の入り口から入ってくる光でしょう?」
 「ちがいます。それもありますけれど、光の中心は、あの、奥の洞窟にある古い木なんです。枯れかけているように見えますけれど、あれはずっと生きている。このごろ特に、枝が伸びたり、表皮が色づいたり、そして、強く光るんです、内部から。崩れてしまった山や、森の名残りのように、強い力を今もまだ保っているとしか思えないんですよ。少なくとも昼でも夜でも、この光で私たち、不自由はしていません」
 洞窟の床はさらさらと白い砂が広がり、岩壁は適度な湿り気を帯びながらつややかに光っている。その心地よい空気と温度を保つかのように、奥まった一角に、巨大な木の幹があって、大地に根を張り、てっぺんは頂上が見えないほど高い天井の上の黒い岩の重なり会う中に消えていた。奇妙な虹色もときどき交えて光るその太い幹は、たしかに巨大な生きもののような得体のしれない無気味さがある。
     ※
 「気のせいかもしれませんが」男の一人がつぶやいた。「あのタカマガハラから持ってきた木が育つにつれて、この木も生気を帯びてきたような気がすることがありまして」
 「ああ、そう言えばそうだわね」ヌナカワヒメがうなずいた。「何らかの刺激をうけているのかもしれません。とにかく、明かりという点では、当面はこの木にかけるしかないわ」
 この階には以前からいる病人やけが人がほとんどまだそのままに残っていて、寝台はその木に近い奥の方に集められて、いつものように治療する人々たちがその回りにつきそったり行き来したりしていた。病人たちもけが人たちも津波のことは知っているのだろうが、ただひっそりと大人しい。入り口近くで木々や石を積み上げて、やかましい音を立てたり叫び交わしたりしている人々の方を黙ってながめている者もいる。自分にはかまわないでいいから皆を手伝って来てくれと、かすれた声でたのんでいる者もいた。
 入り口のあたりは人がひしめいている。さっきの若者が言った通り、動ける病人やけが人、避難して来た人々が必死に動いて行き来している。よぼよぼの老人も小さい子どもたちもいて、外の河原や林や、中の洞窟のすみから、木々や石を運んでは積み上げて、ふみ固めている。
 だがまだまだ天井までは、かなりの空間があった。
 「父上! 父上!」コトシロヌシが林を抜けて走りこんで来た。「集まっていた村人はあらかた船で飛び立ちました。母上も丘の向こうにもう着いて皆の世話をしています。残っているのは我々と、サグメとその部下たちだけ。予定通りに次の船が来たら、皆で乗って飛び立ちましょう…って、これは」コトシロヌシは息をのんで、洞穴の入り口を見上げた。
 「見てのとおりだ」オオクニヌシは首をふった。「船が戻って来るまでに、どこまでふさいでしまえるか」
 「タカマガハラの兵士たちの手を借りられれば、もしかしたら」ヌナカワヒメが二人を見る。
 「彼らがそこまで、この村のために危険を犯すとは思えない」オオクニヌシが落ち着いて言う。
 「同感です」コトシロヌシは言いながら、運ばれて来た石を持ち上げた。「我々で何とかするしかありません」
 洞穴の奥の方から、人々を押しわけるようにして、ツドヘがはい出して来た。オオクニヌシがかけよって支える。
 「兄上、中に入っていて下さい!」
 「オオクニヌシ」ツドヘは力をこめてささやいた。「クエビコを使えないのか。フカブチは、おまえとこの村の危機を知っていて、何もしようとしないのか?」悲鳴のように声がうわずる。「津波は鎮まる!とクエビコが一言言えば、すべてが無事にすむのだぞ! それがわかっていて、知っていながら、フカブチは…」
 「知らないのかもしれないし、知っていたとしても」ツドヘの腕をしっかり握って、オオクニヌシはほほえんだ。「そんなことをクエビコに、彼は言わせはしませんよ」
 「おまえのためでも?」
 「私のためでも、どんなに愛する者のためでも」オオクニヌシは静かに言った。「彼はクエビコをそんな風には使わない。彼は、そういう男です」
 ツドヘが何か言いかけたとき、紫がかった細い光がひとすじぴかりと洞窟の中を横切って走ったと思うと、すさまじい音がとどろいて、巨大な木の根がもくもくと大地ごと持ち上がり、岩がゆがんで崩れ落ち、なだれるように洞穴の入り口を上から下までぴったりと閉ざした。
     ※
 人々は入り口の内と外とにころがり落ちた。石や大木の下じきになって即死した者や、手足をはさまれて絶叫している者もいた。ヌナカワヒメとスクナビコは内側に、ツドヘとオオクニヌシ父子は洞穴の外にころげ落ち、他にも数しれない人々が外の草地に投げ出された。
 閉ざされた入り口の内と外とで絶叫が起こった。「入れろ! 入れろ!」という叫び、苦痛を訴えるうめき声。しかし、どちらもたがいの耳にはまったく聞こえないほど完璧に、洞窟の入り口は岩と土と木の根でふさがれ、音さえまるで通さなかった。
 「何をしたの?!ちょっとあんた、いったい何をしたの!?」女の一人が食ってかかり、「何をしたんじゃ! 何をしたんじゃ!」と男たちの声がそれに重なる。
 負傷者たちのうめき声の中で、入り口の木々や石を押しのけようととびついたスクナビコとヌナカワヒメは、あわててふり向き、目をつり上げて怒りにわななく人々の前に立っている、小さいミヅハの姿を見た。その手には紫色に淡く輝く鏡のかけらが、にぎられたまま、震えている。
 「あた、あた、あたし、その、ちょっと…」ミヅハはどもった。「あの、大きな木を元気づけてやろうと思って、ちょっと鏡をあててみただけ、なんだけど…」
     ※
 数人が血相変えてミヅハに飛びかかろうとしたのを、ヌナカワヒメが押しとめた。
 「子どものしたことですよ!」仁王立ちになってミヅハをかばって彼女は叫んだ。「それぞれの持ち場に戻って下さい! けが人がいるんです、治療に専念させて下さい!」
 「その子は前から、ろくなことをしない!」女の一人がわめいた。「村をめちゃくちゃにしつづけて、まだ足りないの!?」
 「外に放り出せ! それか、地中に埋めちまえ!」
 「あなた方がそうやって騒げば騒ぐほど、けが人の手当てが遅れて、死人がふえます!」ヌナカワヒメはどなり返した。「頭を冷やしなさい! この子をどうするか決めるのはあとです! 治療を手伝えない者は今すぐ上の階に上がって、二つの入り口を全部ふさいでしまいなさい!そうしたらこれ以上、ここでは死者はもう出ません!」
 「夫が、夫が、外に出されてしまったわ!」 
 「私の娘も!」
 「おやじと兄も!」
 「オオクニヌシとコトシロヌシがおる」スクナビコが言った。「彼らが絶対何とかする。いいから早く、上に行け。ここはわしらにまかせてな!」
 「その子を渡せ!」
 「このままにしておけるもんかね!」
 どっちつかずの人たちも混じえて、皆がにらみあった時、洞穴の奥の寝台から、かすれて、しわがれた声がひびいた。
 「うるさいのう。静かに死なせてくれんかのう」
     ※
 しんと、あたりが静まった。かまわず何か叫ぼうとした者は、そばの誰かにしたたかにけとばされて、うっとうめいてしゃがみこむ。皆が、その細い、おぼつかない声の方に目をやった。
 「誰じゃ?」スクナビコがヌナカワヒメの耳もとに口をつけて、ささやくような小声で聞く。
 「ハヤアキツじいさん。この村一番の年寄り」ヌナカワヒメがささやき返す。「古くからの船乗りで、サルタヒコなど鼻垂れ小僧呼ばわりする大長老よ。家族もとっくに皆亡くなった。長いこと、ここに一人で静かに寝ていたから、誰も気にしてなかったの。ここ数日、穏やかに、ひっそり弱って行っていたから、そろそろ寿命が尽きるのじゃないかと思っていたところだったけど」
 深い沈黙の中に、乾いたせきばらいが何度かひびいた。影のように、骨と皮にやせこけた老人が回りに支えられながら、寝台に身を起こすのを人々は見た。
 「嬢ちゃんや」せきの合間に声がした。「こっちにおいで」
     ※
 ミヅハは悪びれず、まっすぐに老人のいる寝台に向かった。枕もとに立ち、老人を見下ろす。
 「いたずらをしたかったのか?」老人は聞いた。
 「いたずらじゃないわ」ミヅハはきっぱり言い返した。「いいことをしたかったの」
 せきこみながら老人は、きしんだような笑い声をたてた。「そうじゃろう。そんな目をしておる」
 ゆっくりと首をねじって、彼は皆の方を見た。「何をしておる? 言われた通りのことをせんかい。けが人を助けて、皆、せめて、わしが死ぬまで黙っとかんかい。ああ?」
 人々は皆、羊のように従順に従った。ヌナカワヒメとスクナビコに指示されるまま、下じきになった人々を掘り出して手当てし、死んだ者は砂の上に横たえて並べた。
 「あたしも手伝う」
 行きかけたミヅハを老人はとめた。「ここにおって、わしに話を聞かせるがいい。わしの話も聞くがいい。昔話や、噂話や、先の話を、たっぷりと。この世で最後の時間つぶしを楽しむ相手になってくれんか」
 その時、二人の頭上で巨木はひときわ光を増したようだった。洞窟のすみずみまでが、ふしぎな色を入り混じらせて、まぶしいほどに輝いた。

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