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水の王子・「沖と」8

第八章 タカヒコ

洞窟の入り口がふさがったとき、他の大勢といっしょに外側の草地にころがり落ちたオオクニヌシは起き直るが早いか、兄のツドヘにかけよった。「兄上、大丈夫か?」
 「何が起こったんだ?」ツドヘは見えない目を見張ってオオクニヌシの手をつかんだ。「岩が崩れたのか?」
 「おかげでうまく入り口はふさがったのですが、我々は外に閉め出されてしまいまして」
 ツドヘは耳をすませた。「大勢だな」
 「ええまあ」オオクニヌシは頭をかいた。
 回りでは叫び声や泣くような声が入り乱れていた。「入れて! 入れて!」「子どもが中に!」「こんなことってないわよう!」「助けて! 助けて!」
 「それで津波は?」ツドヘが聞いた。
 オオクニヌシはちらとふり向く。「近づいてます。もう入り江の入り口だ」
 「皆、下りて来い!」岩山の上の方の入り口に必死ではい上がろうと崖をよじ登りはじめた人たちに、コトシロヌシが呼びかけた。「そんなことしても無駄だ! 見えないか、上がったって上の入り口はもうほとんどふさがれている! こっちだ、広場に戻れ! タカマガハラの最後の船がもうすぐ来る! 間に合うように乗れる! 助け合って走れ!」
 人々はまだ何か泣きわめきながら、よろよろとそちらに向かって走り出す。オオクニヌシは残された者がいないか確かめるように見回したあと、ツドヘを支えて後に続いた。
 「皆乗れるのか?」ツドへが低い声で聞く。「何十人もいそうだが」
 「ぎりぎり何とかいけるでしょう」オオクニヌシは答えた。「あとはサグメたちと我々だけだし」
 「波が岬を越えてきた!」誰かが悲鳴をあげた。「急げ!」
     ※
 「何ということ!」イザナミは歯噛みした。「アマテラス、舟を下ろして! もっとマガツミを集めるのよ! あの波のぎりぎりの手前!」
 無言のままアマテラスは、まき上がってそびえ立つ巨大な波のすぐ根もとまで舟を急降下させた。しぶきと風が小舟を打って、大きく左右にゆらがせる。イザナミがせいいっぱいにさしのべた先の、アメノヌボコが生まれ変わった剣は、すきとおるマガツミのひとかたまりを引き寄せたが、すぐにすべって海に落とした。
 「あなたの腕って、その程度!?」イザナミがののしる。
 アマテラスはさっきよりずっとすれすれに舟を寄せ、へさきを波の側面にこすらせてしぶきを飛び散らせながら海面ぎりぎりに飛ばせた。
 「おまえたち二人の意地のはりあいで、舟はおっつけ奈落の底だぞ」反対側の船べりに身をのり出していたイザナギが首をふる。「やめろ、アマテラス、母上の挑発に乗るな。船底をこれ以上ぬらしたら、失速して落水するぞ。そうなったら、おしまいだ」
 「あなたは黙っていらしてよ!」
 「もう充分にマガツミは集めた」イザナギは息を切らせていた。「おかげで津波の進行は遅くなっている。見えないか? かき集めたマガツミが漂っているせいで、津波の動きが相当にくいとめられているんだぞ。普通これだけ陸に近づけば、もっと一気に寄せて行く」
 「でも、このままでは食い止められない!」
 「そうですね」アマテラスが歯をくいしばった。「私たちが予想したより、この津波、ずっと大きかったわ、お母さま。入り江の口をふさいでもだめ、そもそも岬をこの波の高さは乗り越えて、灯台の上までのみこんでしまう。できるのはせいぜい、津波の動きを遅らせるだけです。少しでも皆が逃げられるように。村が完全に波にのまれてしまう前に」
 「よくも平気でそんなことを!」イザナミは長い髪をふり乱し、身体をよじった。「くやしい! くやしい! 許せない!」
 「あきらめるんだ、イザナミ」イザナギは片手で妻を抱き寄せ、強く抱きしめた。「うまく行かなかったことや、思い通りにならなかったことなど、これまでいくつもあったじゃないか」
 「ありません! なかったわ! 私があなたといたころにはね!」
 「そうやって、私はおまえを失ったのだ。もういい。もういい。もう行くな。力の及ばぬところまで、私を残して行ってしまうな」
 「意気地なし! 腰抜け! そろいもそろって、あなたたち男というものは!」イザナミは夫にしがみつき、ゆさぶりながら身もだえた。「そろいもそろって、もう何です!? あきらめるのはまだ早い! おまえは何をしているの? 私の中のどこにいるの? 何を白けて、気どって、知らんふりを決めこんでいるの? 何でもいいから何かしなさい、臆病者! 卑怯者! 失敗してもいいから何かしてごらん! そこにいるなら、見せてごらん!」
 「父上」アマテラスが声をかけた。「入り江の上に、あの朝方見かけたマガツミが、うろうろしてます。誰かが中にいるようです。行って、草原か沖の方に誘導しましょうか? このままでは村ごと波にのまれるかもしれない」
 「行ってくれ」イザナギはまだ何かわめき続けているイザナミを抱きしめたまま、うなずいた。
 「母上はさっきから、誰に向かって話してるんです?」入り江の方へと舞い上がりながらアマテラスが聞く。「父上ではありませんよね?」
 「私たちのどちらの中にも住みついている若者だ」イザナギはため息をついた。「人間嫌いで、気まぐれで、妻をなだめてくれることも多いのだが、時々、ひどく傷つける」
     ※
 人々を草原に下ろして、乗組員だけで軽くなった船を全力で飛ばして、もう岬のはしが津波にのまれて消えかけているナカツクニの村に戻ったとき、シナツヒコもタカオカミもトヨウケも、その他の兵士全員も、甲板の上で凍りついた。
 思いがけない光景がそこにあった。
 広場は人でぎっしりだった。
 これまでに往復して乗せたどの回の人数より多い。三倍か五倍はいるだろう。子どもも年寄りも男も女も入り混じって、ひたすらに近づく船を見上げている。
 「どうしたことだ!?」シナツヒコは思わず叫んだ。「皆を助けて世話していた、村の主だった者だけ、せいぜい二十人たらずをのせるはずではなかったのか!?」
 「あれですよ」兵士の一人が指さした。岬のなかばをすでにひたして、海一面をまっ黒くおおって近づいて来る波の壁を。「あれを目のあたりに見たから、きっと何とかなると甘くみて、村のあちこちにかくれてやりすごそうと思っていた連中が、おじけづいて逃げ出して来たんです」
 「それがもし本当なら、一人残らず置いてってやる!」トヨウケが怒って叫んだ。
 「それはできない、このまま船は戻せない」タカオカミが途方にくれる。「見えますか? オオクニヌシもコトシロヌシもアメノサグメも混じっています」
 「とにかく全員乗せるしかない」シナツヒコはとっさに決心した。「やれるだけ、やってみよう」
 どこまでも、タカマガハラを優先しなさい。アワヒメの声が耳にひびく。
 シナツヒコは唇をきつく結んだ。
 そんな方針、今のこの場では、まったく何の意味もない。
     ※
 「かくれていて、逃げ出して来た者ばかりじゃない」甲板の上でオオクニヌシはさすがに苦々しげな顔でシナツヒコに説明した。「まあそういう者もいるが、それより、病院の洞窟の入り口が崩れてふさがれ、すでにそこに入っていた者が大勢、外に閉め出されてしまったんだ」
 「乗せられるだけは乗せます」シナツヒコは答えた。「私の考えでは、多分ぎりぎり大丈夫です。とにかく急いで下さい。波がもうそこまで来ています」
 「承知した」
 コトシロヌシとサグメたちはすでにもう慣れた手つきで人々を甲板に上らせている。タカマガハラの兵士たちも片っぱしからそれを船底や船室につめこんで行く。朝からの作業で要領がわかっている上、前とちがって村人たちが必死で船に入ろうとしているから、思いがけないほど早く広場は空になって行った。
 はしごと綱が巻き上げられる。船底から甲板までぎっしりの人、人、人。だが一応何とかすべてが船に乗りこんだ。
 今や村の中に人の気配はまったくない。川だけがさらさらと音をたてて流れ、金色の木々が風にそよぎ、浜辺にずらりと並んだ船の上にだけ、わずかに動く人影が見えかくれする。入り江の入り口をこえた高い黒々とした波の壁が次第に村にせまってくる。
 村の姿を目にやきつけようとするかのように、甲板の手すりにつかまって、くいいるようにその風景に見入っている人々から目をそらして、シナツヒコは「出発!」と告げた。「上昇!」
 船は静かに身じろぎしたが、まるで名残りを惜しむかのように、そのまま動かなかった。
 少し待ってからシナツヒコは再び同じ命令を下した。
 船はやっぱり動かない。
 「シナツヒコ」かじとりのトヨウケが、ふるえる声で告げた。「だめです」
 「だめです? 何が?」
 「船が飛ばない」
 「何だって?」
 「多分…人が多すぎるんです。重すぎるんです」(つづく)

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カツジ猫