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水の王子・「沖と」9

第八章 タカヒコ(続き)

頭の中が完全に空白になった。シナツヒコはまるで少年のようにあえいだ。
 「そんな、そんなことって、聞いたことないぞ!」
 「ごくたまにあるんでさ」古参兵士の一人が青ざめて告げた。「じいさまから聞いたことがある。めったにないことじゃあるが、ほんの一人か二人のちがいで、上がる力が足りなくなるんだそうで」
 タカオカミが帆柱にかけよった。
 「帆を張れば、あるいは…」
 「だめだ。風がまったくない」
 「このままだと、じゃ我々も…」
 「津波にのまれる。そういうことだ」
 村人たちも乗組員も黙り込み、一瞬の沈黙が広がったとき、更にまた思いがけないことが起こった。
 十数人の村人たちが、もつれるようによろめきながら、林を抜けて村の方から走って来たのだ。おそらく最後の最後まで家の中にかくれていようとした人たちが、せまりくる波におびえて、とうとう逃げ出したのにちがいなかった。彼らは船を目にすると喜びのあまり狂気のような叫びを上げ、必死で船底のあたりにしがみついて、はしごを降ろせ、乗せてくれと全身のしぐさで訴えている。
 甲板の上の人々は皆、こわばった顔で動けなかった。これ以上乗せられないのはわかっている。そもそも乗せたところで助からないのは同じなのである。しかもそのことを知らぬ人たちは必死でその救いのない船に乗ろうと望み、おそらくは船上の人々を炎のように激しくうらやんでいるのである。
 ひきつるように、誰かが笑った。
 つられるように苦しげな、荒々しい笑い声がいくつもはじけた。船の下の人々は、それを目にした。その表情が凍りつき、絶望と悲しみと憎しみがあふれる。数人は草の上に崩れ落ち、何人かはこぶしを振り上げ、振り回した。
 たちまち船上でも笑い声とともに、ののしり、あざける声がまじった。「遅いんだよ、バカ!」と誰かが叫び、「ぐずぐずしてるから、間に合わないのよ!」という声も飛んだ。つばを吐き捨てる者もいた。
 「何て地獄だ」目を閉じて一人がつぶやく。「何という最後だ」
 人々をかきわけてオオクニヌシが進み出た。巻き上げられていた綱のひとつをくるくるほどいて腕にからめながら、かたわらのコトシロヌシに向かって彼は言った。「降りよう、コトシロヌシ」
 「そうですね」何でもないことのように息子はうなずいた。
     ※
 船の上はまたしんとなる。息づまる、空気が固まるような沈黙の中、そばにいたツドヘが「だめだ!」と叫んだ。「一人二人が下りても船が飛ぶかもしれないのなら、君らでなくても他の誰かで充分だ! 君たちはこれからのこの村のために絶対にいなくちゃならない二人じゃないか!」
 「ツドヘおじさん、私はこの村にそんな借りは作りたくない」コトシロヌシは言い放ち、オオクニヌシは苦笑して、「さすがは私の息子だな」とひとりごちた。「あとは頼むぞ、シナツヒコ」
 「よせ!」ツドヘが手さぐりでオオクニヌシをつかんだ。「私が降りる。私こそ、いなくなってもどうでもいい人間だ。だから…」
 「わかってないな、兄上」オオクニヌシの声が凍りつくように冷たくなった。「そんな人間が降りたって何の役にも立たないよ。見捨てられ、落ちこぼれ、切り捨てられる人間が、はきだめのごみのように集められてほろびるのが、どんな思いかわかっているのか? この村の誰にも私はそんな思いをさせはしない。最もすぐれた、村の中心になる最高の者がいっしょに最後までいてくれるからこそ、彼らは救われるんじゃないか」
 ツドヘの手がこわばって力なくだらりと下がる。誰もが指一本動かせない中、オオクニヌシとコトシロヌシは綱をつかんでひらりと船べりに飛び上がった。
 「待って下さい!」また声がした。ひしめく人々をかきわけて、タカマガハラの戦士の白い服を着た、ほっそりとした若者が二人の前に飛び出して来た。
 「タカヒコ!」コトシロヌシが目を見張る。「乗っていたのか?」
 「さっきまで、丘の向こうでスセリたちと皆の世話をしていたんですけど」かつての大将軍アメノワカヒコとうり二つのタカマガハラの若い医師は、ワカヒコがとっくに死んだ後でさえあまりに似すぎているせいで、あちこちでよく見まちがえられる、いつもながらの軽やかな、いたずらっぽい笑顔を見せた。「オオクニヌシ、あなたがツドヘに言ったことばを、そっくりそのままお返しします。残されて捨てられる人々の心を救うのが、最高の存在がともに残ることだとすれば、それは村の長として目立つまいとしつづけて来たあなたや、まだ長として充分に認められてないコトシロヌシじゃ不十分でしょう。タカマガハラの戦士がともに残ってこそ、誰も文句はないはずだ。よって、私が残ります」
 「待って下さい、タカヒコ!」シナツヒコがあわてた。「そんなわけには!」
 「ここにいる皆が証人だ。君は私を引き止めた。私が勝手にすることだ。アワヒメさまにはそう報告しろ」彼はそれ以上否やを言わせず、船べりに飛び上がりながら、「それと、船中の綱を投げ下ろしておいてくれ!」と命じた。「ついでに荷物も皆すてろ! 少しは船が軽くなる!」
 そしてたちまち、その姿は船べりの向こうへ消えた。
     ※
 船の下の人々の中から驚きの声が上がった。それにはかまわずタカヒコは「船から離れろ!」と叫んだ。「荷物が落ちて来る!」
 「アメノワカヒコさま!」熱に浮かされたように一人が叫び、タカヒコはそのまちがいをあえて訂正しなかった。「船にはもうこれ以上乗れない。飛べるかどうかも怪しいんだ。私たちはここに残る。最後まで私がいっしょにいる。タカマガハラの名にかけて!」
 「もう死んでもいい!」「最後までごいっしょに!」と、喜びの叫びがうずまく中タカヒコは「いや、死なない!」と強く首をふり、甲板から次々に投げ落とされて草の上を転がって行く箱や、綱の束を指さした。「綱を集めろ、できるだけ長くつないで、それをその木々のなるべく高いところに縛って、自分たちの身体とつなげ! 波の高さ次第では、流されないで浮かんでいられるかもしれない。急げ、波はもう岬を越えた!」
 人々は荷物に飛びつき、綱を探して引きのばす。「でも、この木はまだ若くて弱い」一人が綱を結びながら目を上げて気にした。「波で根こぎにされちまうかも」
 「そうなってもあきらめるな。木といっしょに漂って、タカマガハラの助けを待て! 木の実をかじって命をつなげ! 何としてでも生きのびろ!」
 船から荷物といっしょに更に数人が飛び下りてくるのが見えた。タカマガハラの白い服を着た戦士も数人まじっている。「ごいっしょします、アメノワカヒコ!」と一人が叫んで、片目をつぶって、にやりと笑った。
     ※
 「もっと荷物を捨てまくれ!」タカオカミが甲板をかけ回って命じている。「かなり飛び下りた者もいる」シナツヒコはトヨウケに向かって言った。「まだ動かないか?」
 「少しゆらぐ気配はあるのです。もう少しとは思うのです。せめて風でも吹いてくれれば!」トヨウケは沖の方をふりむいて、その目の光を鋭くした。「しかし万一、飛べないままでも、いざとなったら村人たちと同様に、私も波に乗ってみせます」
 「この船でか? 大きすぎるし、向きも悪いぞ」
 「それはそうですが、この村の船乗りたちがやれることなら」
 トヨウケが言い切ったとき、一羽の鳥がまっしぐらに急降下してきて、かじにとまった。驚いたトヨウケが片手で鳥を払おうとしたとき、甲板の上でも叫び声が重なっておこった。
 数しれぬ鳥が舞い降りてきていた。
 色も大きさもさまざまだ。本来ひとつに群れることなどないはずの、ありとあらゆるさまざまな鳥が、いっせいに船を囲んで人々の間を飛んでいる。
 仕事のじゃまをされてあわてた戦士たちが追い払おうとしたが、あまりの数の多さに、むしろ身体をかがめて、さけるしかなかった。
 あたりが暗くなり、空がかげった。津波の壁のせいではない。入り江の上の空は、むしろ青く晴れわたっている。
 船の上の空をおおっているのは、鳥の群れだった。信じられないほどの大群が、いくつもいくつも重なりあって空にうずまき合っている。それがあっという間に近づいて来て、船をすっぽり包みこんだ。ぎゃあぎゃあちいちい鳴きかわす声、すさまじく鳴りひびく羽音の重なり。その中を横切って飛ぶ、ひときわ大きい極彩色の鳥の姿に村人たちの数人が「ウガヤ!」「ウガヤ!」と叫ぶ声をかき消すように、聞き慣れた、しゃがれた鳴き声がひびきわたった。
 「コトシロヌシ! コトシロヌシ! コトシロヌシ!」
 皆といっしょに呆然と鳥の大集団を見ていたコトシロヌシは、ふっと何かの気配を感じてふり向いた。
 少し離れた船べりに、すらりと脚の長い、気高いほどの静けさをたたえた白い鳥がとまっている。
 恐ろしいほど年老いているようだった。白かった羽は黄ばんでところどころまばらになり、目もあまり見えてないかのように灰色がかってかすんでいる。
 それでも威厳にあふれていた。女王のように堂々としていた。それでいて、どこかにかすかな恥じらいのようなものをにじませて、こんな姿をさらすことに苦笑しているようにも見えた。
 「…おまえか」コトシロヌシはささやいた。「元気でいたのか」
 昔、山の上で何度となく毎年見せた美しい純白の羽の、うってかわった貧しげな残りを、こころもち鳥は広げて見せた。
 「年取った姿を見せるのがいやで、来るのをやめたのか」コトシロヌシはほほえんだ。「会えてどんなにうれしいか。おまえはやっぱり、きれいだよ」
 近づこうとすると、鳥はあとずさった。首を高くのばしてそらし、昔と少しも変わらない、鋭く澄んだ、よくとおる声を高々と、ほとばしらせた。
 ウガヤの声さえ圧倒するその声は、鳥の群れに、ある整然とした動きを与えたかに見えた。同じ種類の白い鳥の一群が抜け出すように集まって来て、雲のように船腹から船底へ沈んで行って雲のように押しつつむと同時に、大型の鳥たちが甲板のわきに並んでいっせいに羽ばたき、すさまじい風を巻き起こした。「帆を!」とシナツヒコは叫んだ。「帆を上げろ!」
 するすると上がった白い帆が、鳥たちの起こす風を一気にはらんだ。船をとりまき、押し上げる群れの力と相まって、ぐらりと船が動いて、持ち上がった。
 わずかな高さだ。ようやく人の背ほどしかない。それでもそれは草地から浮き、トヨウケの巧みなかじさばきで、どうにか木々の間を抜けて、草原にすべり出した。
 歓声が上がった。船上からも、地上からも。わけのわからぬ叫びをかわして、手をふりあう人々を隔てて、船は少しずつ上昇し、鳥たちの巨大な雲にとり囲まれたまま、ゆらぎながら、かたむきながら、それでもまっすぐ草原の奥へ、丘に向かって飛び去って行った。

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