水の王子・短編集「渚なら」1
第一話・雨の日
こんな雨もよいのしけた天気の日は、なぜか死んでしまったアメノワカヒコに、むしょうに会いたくてたまらなくなる。おれの気持ちがどれだけめいって落ちこんでいるかのめやすのようなものである。
今日は特に気分が悪くて体調もよくなかった。遠い雷を聞きながら、しけた気持ちで寝床でぐだぐだしていると、そのワカヒコと何ひとつ縁もゆかりもないくせに、なぜか見た目も声もうり二つで、しろうと目にはまったく見分けがつかないくらい似ているタカヒコが訪ねて来た。
少し前、おれは他の友人二人と、このタカヒコにつきあって、生前のワカヒコがよく訪れていたクラド王の町に行った。冒険というほどのことをしたわけではないが、おれの身体を心配している老人(実は若い女らしい)のスクナビコは無用心だと大変怒った。それでびびって他の友人は家によりつかないのだが、このタカヒコだけは恐がりながらもこうやって、しばしば見舞いにやってくる。
※
それにしても本当に似ている。ほっそりと背の高い身体、どことなくちぐはぐなのに、すっきり整って見える涼しげな顔立ち、しなやかで流れるような身のこなし、鋭くとおることもあるのに、時に甘くくぐもる声まで、そっくりだから困る。
スクナビコも、そろそろ文句の種がつきたと見える。今日はわりとあっさり彼をへやに通した。
雨に少ししめったせいで、いつもはわりと波打っている黒いつややかな髪が、ワカヒコそっくりのまっすぐになっている。かすかにはにかんだように笑いながら、寝台から少しはなれた椅子に座った。
※
似ていると言っても、ちがうところもある。ワカヒコの古い友人ニニギによると、故郷のタカマガハラでのワカヒコは、天才的な大将軍とあがめられていたから、さまざまな式典などのときは、もちろん、きりっとしゃんと堂々としていたというのだが、あいにくと、この村でおれはそんなワカヒコの姿は一度もお目にかかったことがない。まあタカマガハラでも、その傾向はあったらしいが、年中、だらだらくにゃくにゃぐたっとして、何かにもたれかかったり、どこかに寝そべっていた印象しかない。それでも一向じだらくにも見えず、清々しく生き生きとして見えたのが、思えばさすがなのかもしれない。どこか身体の中心に細い強いはがねのような筋が一本、すっと通っている感じがした。
いろんな村の仕事などでいっしょにいることは多かったし、気のおけない楽しい話し相手だったが、今思うと、しっかり中味のある話をした記憶がない。死んでしまった今、それがもどかしくて、やりきれない。
彼は相手によって、けっこう態度を変えると言われていた。相手の快いように自分を作りかえてしまって、誰にせよ、こいつはおれと気が合う、自分とそっくりだと思わせてしまうらしい。そうして、気がつくと、自分のいいように相手をあやつってしまうのだそうだ。むろん、相手にそんなこと何も気づかせずに。
※
その話を彼の副官タケミカヅチから聞いたとき、おれはまことに落ち着かなかった。と言っても、それはおれもあやつられていたんじゃないかと疑ったからじゃない。ふしぎなくらいに、そうは思わなかった。ただ、実はおれはそうやって、自分で気づかず人にあやつられてる、だまされる、いいように利用されるというのが、もう本当に昔から死ぬほどきらいで、そういう気配を感じたとたんに相手を殺してしまいたくなるほど、いや実際に殺してしまったことも、一度や二度や三度じゃなかった。
ワカヒコは、それに気づいていたんじゃないかと思った。気づいていたに決まっている。それだけ人をあやつれるなら、その前に、人を見抜かなくちゃならないんだから。
※
おれたちは、いっしょにいるとき、おおむね実にくだらない話しかしなかった。ここの橋の支柱はどうしたらいいかだの、あの鹿の顔はこの前来た旅人に似てないかだの、この料理はもっと塩を入れようだの、そして、そういうやりとりの何がおかしいのか、時に突然、妙に二人いっしょに吹き出して、息がとまるほど笑ったりした。
けっこう長い時間黙っていたこともある。うまく行かない仕事や細工を、おれがあれこれ考えたり試したりしている間中、彼は気が知れないというように、果物なんかかじりながら、寝そべって面白そうにおれを見ていた。「無理だって」「初めからやりなおした方が早いって」とときどき言ったが、おれが相手にしないでいると、もうそれ以上は押して来なかった。「君のそういうところって、何だかタカマガハラ以上だな」と一度感心したように言ったことがある。「あそこの皆もまじめで、粘り強いけど、それだけ無駄なことをあきもせず繰り返すようなことはさすがにない。穴を掘れって言われたら、君って人はきっと、ヨモツクニの底もぬけちゃうぐらい、掘り続けるんだろうな、タカヒコネ君」
「掘れって言われたら、そうするかもな」おれは、うまくはまらなかった木切れを削り直して、木くずを吹き払いながら答えた。「この下に宝物が埋まっているとか、掘らないと殺すとか言われたら、絶対にやらないけど」
あんなやりとりからだけでも、彼はおれを見抜いていたろう。だまされるのや、あやつられるのは、がまんできない人間だと。そして多分、思ったのだ。そういう風におれを扱うことはしまいと。だから決して、おれの中には踏み込まず、距離を取り続けてくれたのだ。
※
人にあやつられまい、だまされまい、利用されまい。
そんな自分の性格が罰を受けたと、こんな雨の日には弱気になる。
そんなふうだったから、おれはワカヒコの本心に近づく機会を永遠に失った。ふみこませまいとしたあげく、こっちも彼の中にふみこめないままだった。
彼の孤独にも。本当の強さにも。
理解できず、支えてもやれないままだった。
彼は平気だろう。期待してもいないだろう。
そのことがなぜこんなに、おれを淋しくさせるのだろう。
※
言うまでもなくタカヒコには、そんなところはちっともない。ニニギもたいがい、まっすぐで芸がない男だが、あそこまで行けば、それもまた一興だ。
同じタカマガハラ出身でも、タカヒコのそれはまた一味ちがう。どこかワカヒコっぽい軽さやちゃらんぽらんさもあるくせに、あの、しどけない、なまめかしさと紙一重の、ゆるいところが、かけらもない。
クラド王の町に行くとき、彼はワカヒコに化けていた。そういう命令を受けていたのだ。クラドは今もそれに気づいてないらしいから、おめでたいっちゃあ、おめでたい。が、とにかく、タカヒコは行く前にそれを気にして、自分とワカヒコのどこがちがうかと、おれたちに聞いた。もちろん見た目に限ってだが。
※
ワカヒコはとにかく、どんなふうにでも相手に合わせて自分を変えちまえる男だから、おれたちも、そこはかなり首をひねった。その中でおれが言った、「もっと、ぐにゃぐにゃしてみ」だけは、けっこう図星だったようだ。要するに、この男タカヒコは、いつも姿勢がよくて、バカなことをしゃべってるときでも、首すじはまっすぐで、手や指の動きはいつもきっちり、無駄がない。タカマガハラの戦士と言っても医師でもあるから、そのせいもあるかもしれない。おれの言う通りに姿勢を崩して、だらしなくしようとして、だめです、そんな風に身体が動かないと音を上げた。
クラドの町から帰ったあと、おれは彼に、ワカヒコのようになろうなんて考えなくていいよ、おまえはそのままでかまわないんだと言ってやった。彼は安心したようだったが、それでもやっぱり、ワカヒコに近づこう、少なくとも、だらしない、くつろいだかっこうをしようという努力は、知らず知らずにやってしまうらしい。なるほどこれがタカマガハラで生まれ育った人間の本能なのかと妙に納得し理解する。目標があると、とりあえず、それに向かって努力せずにいられないってやつだ。
※
今日も彼は、おれのへやの椅子に、わざわざ斜めに身体をくずして、よりかかるように座って、きゅうくつそうにしている。かけてもいいが、しゃんとまっすぐ背筋を伸ばして座っている方が、彼には絶対、居心地いいし、楽なのだ。
ワカヒコそっくりの姿かたちは、目の保養にしちゃいかんと自制しているが、見ているだけで、切なくなって、なつかしい。その一方で、無理にそんなかっこうをしようとしている、けなげさといじらしさが、妙におかしくて、それはそれで、ながめていると楽しい。
変なごちそうを二つあわせて味合わされているようで、おれはまた悲しくなって目を閉じる。
雨の音にまじって、遠く雷が鳴っている。(2023.7.14.)