水の王子・短編集「渚なら」2
第二話・ミズハ姫
「たまーに帰って来たら、これだもん」コトシロヌシの家の奥で、寝台によりかかりながら、ヒルコがぼやいた。「いったい何なの、そのミズハって子は?」
「とにかく元気がよすぎてさ、それで皆が疲れきっちゃってるんだよ」ハヤオが枕を抱きしめて、くすくす笑った。
「ここに来て、ひと月ぐらいって言ってたっけ」ヒルコがものうげに天井を見る。「何をしたの、その子?」
「イナヒをいじくりすぎて手をかまれ、ウガヤには海に振り落とされ、ヌナカワヒメの病院の薬を川に流して魚を踊らせ、スクナビコの薬草を火鉢で燃やしてオオクニヌシ一家を窒息させかけ、コノハナサクヤのまげを切り、ホスセリに果物を食べさせて殺しかけ、タカヒコネの帽子をウサギの子どもの巣に使い、ツクヨミの店の窓枠を赤や黄色や緑に塗り、ウズメの畑の野菜をかじって気絶し、あとまだ何かあったっけ」
「うわあ」ヒルコはあおむけに倒れて笑い出した。
「しかも村の子どもたちには抜群に人気があるんだよね、これがなぜだかどうしてか」
「そりゃそうだろよ、僕だってちょっと会ってみたいもん」
ヒルコはあおのいて、ハヤオを見上げた。
「それで皆はどう言ってるの? オオクニヌシやコトシロヌシは?」
「さあね。そいつはまだよく聞いてない。タカヒコネがさ、ツクヨミの店の新商品に、イナヒ鍋のかわりにミズハ鍋を作ってほしいって、言ってたらしいのは聞いたけど」
「それも、本物の?」
「それも本物の」
二人はまた笑いだして、とまらなくなった。
※
「何がそんなに楽しいんだか」と言いながら、コトシロヌシとタカヒコネが入って来た。「家の外から笑い声が聞こえていたぞ」
「ミズハのことを話していたんだ」ハヤオが言った。「ヒルコがさ、ぜひとも会ってみたいって」
「おー、おー、そうかよ」タカヒコネがやけっぱちな声で言った。「そのへん歩いてたら、すぐ行きあうぜ。ウガヤやイナヒを追っかけて、風みたいにあっちこっち走り回ってるから」
「見た目はけっこうかわいいからね。それで油断してちゃ泣きをみる」コトシロヌシはさりげなく髪をかきあげたが、珍しくちょっと疲れているようだった。
「キノマタよりもひどいの?」ヒルコが聞く。
「今ちょっと、キノマタの方がましだって言いそうになった」タカヒコネはまじめに言った。
「冗談だよね?」
「冗談さ。おれはもう寝る」タカヒコネはハヤオのわきに横になって、ふとんをひっかぶった。「いいよ、コトシロヌシ、めしはいらない。スクナビコにも今日はこっちに泊まるって言ってきた」
「わかった」コトシロヌシはハヤオたちを見た。「君らはそうは行かないだろ。何か作るよ」
※
焼き魚と果物をかじりながら、二人の少年はコトシロヌシにいろいろ聞いた。
「その子、まだニニギの家にいるの?」
「とんでもない。まげを切られたのはともかく、ホスセリを死なせかけてから、さすがのサクヤも怒ってね、今じゃけっこうミズハには冷たい。まあ、ミズハの方じゃさっぱり気づいてないけどさ」
「じゃ今はどこに?」
「ハニヤスおばさんが母親がわりで引きとってる。なめるようにかわいがってて、そこは心配ないけどね」
「キノマタも、そんな人がいてくれればよかったんだろうけど」ヒルコがつぶやく。
「どうだろね。キノマタは私の父…オオクニヌシ以外の人じゃ満足できなかったんじゃないかな」コトシロヌシは苦笑した。「そこがいいのか悪いのか、ミズハは、あるもので満足しちゃう子だからね」
「ウズメやサグメは平気なの?」
「サグメが一番平気じゃないかな。ミズハが弓や剣の練習したいって言ったら、いいよと言って、足腰立たなくなるまで、たたきのめしたらしいから。白目をむいて、のびてたらしいよ。さすがにこりて、二度と彼女には近づかない」
「恨んで仕返しするとかはないの?」
「あの子はそんなことは考えない。そこはキノマタとちがうところさ。サグメを嫌ってるんでもないよ。溶岩や大波に近づかないように、危ない目にあいたくないから避けてるだけだ」
「オオクニヌシとスセリは?」
「あの二人ともやさしいからね。父はこの村はそういう村だからしょうがないって言ってたな。クマはますますクマらしくなるし、ウサギはとことんウサギになる、それがこの村なんだからって」
「何それ?」
「いつもの父の言い方さ。まあ、キノマタに比べれば父はそんなに苦にしてないね、ミズハのことは。それは何となくわかる」
「じゃ結局、一番いやがってるのは」ハヤオは、寝台のある隣のへやの方をちらと見た。「タカヒコネ?」
※
うすい果実酒をすすりながら、少し疲れがとれて来たのか、コトシロヌシはちょっと笑った。「文句は一番言ってるが、彼はほんとは、そんなに被害は受けていないよ。一番受けてないかもしれない。何てったって、イナヒが守ってるからね」
「あの、けものがかい?」
「ああ。前はタカヒコネの帽子ぐらいだったけど、ずいぶん大きくなったよなあ。何だか知らないが、めちゃくちゃタカヒコネになついてる。そしてミズハが大きらいなんだ。耳やしっぽをひっぱられたり、ひげを抜かれたりしたもんだからね。タカヒコネはイナヒのこと、あまりさわらないし、さわるときには、そっと扱う。イナヒは多分、そこが気に入ってるんだろう」
「とろくて狩りも下手だって、タカヒコネはイナヒのこと、いつもぼろくそに言うんだけど」
「どこまで本心なんだかね」コトシロヌシは笑った。「それはとにかく、イナヒはミズハが近づくと、毛をさかだてて、うなって、自分にもタカヒコネにも、絶対そばに寄らせないんだ」
「タカヒコネは、黙って守られてるの?」
「申し訳なさそうな顔もしないね。申し訳程度にも。何だか楽しそうに、イナヒがミズハを追い返すのを見ているよ」
「じゃあさ、何だかだって、君が一番あの子の相手をしてやってるってことにならない?」
「そうかもなあ」ゆううつそうにコトシロヌシは言った。「きっとキノマタで皆が苦労してたころ、山の上に一人でのんびりしてた報いなんだろ。そう思うことにしているよ」
(2023.7.15.)