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水の王子・短編集「渚なら」10

第六話・千客万来

私は砂をしきつめた階段を上った。かつて数えきれないほど上り下りした、青い石をちりばめた、はばの広い階段だ。目の前に大きな茶色の船がある。船腹にあとからつけた白っぽい流木の扉がすぐ前にある。
 何ヶ月ぶりかな、と私は思う。以前のくせで衣のすそを持ち上げようとしかけて苦笑した。身軽な男の服になって、もうずいぶんと日がたつのに。
     ※
 私は、うっすらとほこりの積もった棚や食器に触れていた。ここには妹といっしょに何度か来たことはあるが、食台のこちらの棚の前には入ったことがない。そこにはいつもタマヨリビメがいた。青白い、なまめかしいまなざしの、豊かな髪を結い上げて、その髪にも衣にも、まばゆい宝玉をきらめかせていた、背の高い女。
 話したことがあったろうか? 店はいつもざわめいていた。タマヨリビメのものうい、けだるく低く甘い声が、どこかでいつも、それとからみあっていた。
 彼は実は男だった。ヨモツクニのツクヨミだった。
     ※
 タカマガハラとヨモツクニの長く続いた戦いは終わった。がれきの下にいったんは埋もれた村も、次第にもとの暮らしをとり戻しつつある。
 私は放っておかれた。
 イザナギとイザナミが和解した以上、ヨモツクニのイザナミの手先として、私がなしたさまざまのことも、不問に付されたかして、とがめる者はいなかった。イザナギその人が、父親として私を抱いた。「よくぞ戻った」そうつぶやいた彼の声は、くぐもって疲れていたが、暖かさのようなものがなかったわけではない。
 多分、あのままタカマガハラにとどまっても、イザナミのいないヨモツクニに帰っても、誰も私のことを気にはしなかっただろう。
 だが何となく、どちらも気が進まなかった。そもそも自分がこれから何をしたいのか、自分がいったい何者なのか、私にはよくわからなくなっていた。
 アメノウズメの鏡をあてられたせいとは思いたくないのだが。
     ※
 あの鏡の光の持つ力は、人によってさまざまだ。
 かつてタカマガハラで私の弟のスサノオは、若さを失い、狂気を失い、人間と同じに年をとるようになった。
 姉のアマテラスは、そのような弟の狂気への愛を消された。
 怪物と化す者もいれば、あとかたもなく消える者もいる。
 母イザナミが生んだ最初の子どもヒルコの力で鏡が砕け、そのときに元に戻った者もいるらしいが、よくわからない。
 私には外見にも内面にも、これといった変化はなかった。だがしかし身体の奥底で何かが失われたような気もしないではない。気のせいかもしれないが。
 そして、気がつくと、タマヨリビメとして暮らしたこの村に戻っていた。
 使わなくなった浜辺の廃船を改造して、店と住まいにしていた、この建物の前にいた。
     ※
 私は回りを見回す。
 どこかまだそこに、タマヨリビメがいるような気がする。まとわりつくように甘い、どこか冷ややかな声で、笑ったり、しゃべったりしている声が聞こえるようだ。
 他の皆と同じように、私も彼女が実は男で、ツクヨミだなどとは、想像もしなかった。
 幼いころからずっと、名前でしか知らないその存在に、わけもなく心をひかれていたというのに。
     ※
 私は醜い少女だった。
 だが、そのことと、彼を愛したことに関わりがあるだろうとは思えない・
 妹のコノハナサクヤは、目もさめるほど美しい少女だったが、私たちは仲がよかった。
 妹は、この世にもういない、会ったこともない、タケミナカタという勇士にあこがれ、深く愛し、そのことを私以外の誰にもかくしていた。
 理想的な正義の戦士としてたたえられる英雄タケミナカタに妹が熱を上げて、夢中でその話をするのをほほえましく聞く内に、いつか私は、タケミナカタを苦しめる悪の権化ツクヨミを愛するようになっていた。
 いや、もしかしたら、彼を支配し、打ち勝って、ほしいままにしたいと思っていたのかもしれない。タケミナカタのために。妹のために。
 妹のような美しさで人を喜ばせられないのなら、ツクヨミにも勝つ力を持って愛するものを守りたい。
 それが私の愛だったのだろうか。それならば私の醜さとこの愛は、まんざら関わりがないわけでもない。
     ※
 彼をひざまずかせ、従わせるところを夢に見た。実際にはその逆で、彼にしいたげられ、ほしいままにされることも思い浮かべた。用心と、覚悟のつもりでそうしていたのが、いつか楽しいものに変わった。ただれてゆがんだ限りない妄想の中で、彼とからみあい、いたぶりあった。
 そして、このことは妹にさえ話さずにいた。
     ※
 私はとびらに手をかける。
 住んでいたころから、鍵はかけたことがなかった。
 きしみながら静かに扉は動く。
 その時、人の気配を感じた。
     ※
 かすかにとびらがきしんだようだ。
 私はふり向き、そちらを見つめる。
 うすぐらいその一隅に、細く光のすじが輝く。
 手にしていた器の一つをそのままに、私はそちらに目をこらす。
 ゆっくりととびらが開き、背の高い男の影が黒く浮かび上がる。
     ※
 「イワナガヒメか」その影が言う。「何をしている?」
 それでは私を覚えていたのか。醜すぎるというのもいいものだ。
 そう言えば私はいったい何をしに、ここに来たのだろう?
 「誰も来ている様子がないし」私はありのままを言う。「どうなっているか、何となく、気になって」
 彼はタマヨリビメでいたときとはまるでちがう、けもののようなしなやかな足どりで、あっという間に私に近づく。
 「それでどうだった? 何かなくなっていたか?」
 「別に荒らされた気配はない」私は彼を見返して言う。氷のような、しかも燃える目。ひたと私を見すえながら、ゆらぎもしない、はがねの輝き。
 「前がどうだったか知るまいに、おまえにそれがわかるのか?」
 私は首をすくめる。「それじゃ自分でたしかめて」
 彼は興味なさそうに、そばの椅子をひいて、どっかと腰をすえる。「かまわん。別になくなって困るものもない」
     ※
 「ここに住む気か?」突然彼が聞く。
 「あなたが戻って来なければ」
 そう言ったとき初めて、なぜここに来たかを自分で気づく。ここに住んでもいいかと知らず知らずに考えていたことを。
 村の崩壊と再生の中で、妹のコノハナサクヤは、タカマガハラから来て村に住み着いていた青年ニニギに、タケミナカタへの愛を打ち明けた。
 「二人でがれきの下敷きになって、もう死ぬと思ったのですもの」彼女は花のようにはにかみながら、私に言った。「ニニギでなくても誰でもよかったのかもしれない」
 そんなこともあるまい。
 無器用でいちずな男だったが、タカマガハラの戦士そのものを煮つめたような美貌と、清々しい生真面目さは、妹が空想の中で作り上げ、みがきあげていたタケミナカタに、少し似ていないわけでもなかった。
 そのことをずっと前から感じていた。
 彼は妹をあまり理解はしていなかったかもしれないが、その外見の美しさに最初からめろめろで、妹にも他人にも、それをかくしもしなかった。
 自分とまるで反対のその生き方のさわやかさと図々しさが、妹サクヤにはきっと珍しくたのもしかったにちがいない。どこかもう一人のタケミナカタが彼女の中では生まれていたのかもしれない。
     ※
 とまれ、村の暮らしが元に戻って行く中で、妹はニニギと暮らすことを決めた。
 「姉さまもいっしょに来て」真剣な目で彼女は頼んだ。「ちゃんと姉さまの住む場所もある家を作るから」
 「それではニニギが喜ぶまいよ」
 「喜ぶわよ。そのことはいっしょに住む条件にしてあるし、あの人、私の好きなものは皆好きよ。タケミナカタも、姉さまも」
 「本当に、それでいいの?」と私はその後でニニギをつかまえて聞いてみた。
 「あなたがそれでよろしいなら」彼は生真面目に私を見て、きっぱりと言った。「私に否やはありません」
 たしかにこの男は平気だろうと思った。妹といっしょに暮らせるなら、家の中に何がいようと、そんなことを苦にしはしまい。そういう無神経さはこの男の武器の一つだ。似ていないようでどこか妹に似ているかもしれない。
 そんな二人と暮らすのも面白そうだと思った。正直、悪くもない気がした。
     ※
 けれど、その一方で、私は砂丘の上に放置されて、誰もよりつく者がない、かつてタマヨリビメの酒場だった、あの廃船にもひかれていた。
 ツクヨミだったタマヨリヒメ。タマヨリヒメだったツクヨミ。
 その思い出を抱えたまま、そこで一人で暮らすのも何やら楽しそうだった。
 気づけば、ふらふら、ここに来ていた。
 妹が、タケミナカタの生まれ育った、この村に夢中になっていたように、あらためて、椅子や食器の一つ一つを、ながめて、ふれた。
     ※
 そうしたら、彼が現れた。
 今、私の目の前に座っている。
 ツクヨミとしての彼を見るのは初めてだ。横顔なのをいいことに、気がつくと熱心に彼を見ていた。
 力強い、とぎすまされたような顔。しかし、疲れて無気力そうだ。ものうさとけだるさが、その全身にただよっている。白髪まじりの灰色の髪は、ゆたかでふさふさと肩の上まで広がっていて、複雑に結い上げて宝玉をちりばめていないだけで、タマヨリヒメでいたころと同じだった。
 疲れて、どこか悩ましげでも、それがそのまま、荒々しいほどの力強さにも見えるのが、多分、他の誰ともちがう、この人のふしぎさだった。
     ※
 「ここで暮らしたければ、そうすればいい」私は目を上に向けた。「甲板を見たか? 上の部屋も?」
 「まだ。さっき入ったばかり」
 「案内しよう」私は立った。
 先に立って、階段を上がる。上の階は昔の船室で、いくつかの部屋が並ぶ。一つを開けて中に入り、窓からの眺めを見せた。
 「夜は月が美しいぞ」私は教えた。「部屋いっぱいに月光があふれる」
 「他の部屋にも?」
 「入らないことはないが、この部屋が一番だな。夜にまた来てみるか?」
 「そうね」
 今日は浜辺はもやが漂い、波はおだやかに引いては寄せて、白いひだを渚に描きつづけていた。
 彼女の髪がすぐ目の前にある。思ったよりも背が高い。結い上げても、くしけずってもいない乱れた真っ黒い髪は驚くほど豊かで、まるで生き物のようだ。朽葉のような太陽のような香りが、何かの酒に似ているような気がして、ふと顔をよせると、彼女が動いたので、髪に顔を埋めることになった。
 腕を回すと、女にしてはたくましい肩と腕が衣の上からも熱かった。彼女が身体をよじってふり向き、どこか挑むように私を見上げる。太い眉、細めた鋭い目、低く大きな鼻と、白い歯ののぞく厚い唇。すべてにまぶしい命があふれ、荒々しさがほとばしる。
     ※
 彼は目をそらしも、ひるみもしなかった。その目はますます強く私に注がれて、まるで私をさしつらぬくようだった。腕を上げて抱き返すと、恐ろしいほどの、したたかに強い力がはね返って来るようで、思わず声を上げそうになる。
 唇が合わされ、引きちぎるようにたがいの衣が引き下ろされた。寝台がすぐ横にあるのに私たちはそのまま床にひざをつき、抱き合ったまま横に倒れた。むさぼるように吸いあった口の、息が続かなくなって、やっと唇を離したとき、のどの奥でくっくっと彼が笑っているのが聞こえた。気づくと私の笑い声も、それに重なり、まじりあっていた。
     ※
 あれからもう、何年になるだろう。
 ほとんどこれという相談も具体的にしないまま、あの半日近くの激しい交合のあとで、私たちはあたりまえのようにいっしょに住みはじめ、昔のままの店を開いた。私は男の姿のまま、イワナガヒメもそのままの姿で。やがて旅人たちが立ちよりはじめ、村人たちも訪れはじめた。
 店が夜遅くまで繁昌するから、せっかくの月の光があふれる部屋で抱き合う時間もなかなかとれない。何しろ朝も早いのだ。暗い内から浜辺に出かけて、漁から戻ったサルタヒコたち漁師の船から、魚を仕入れて来なくてはならない。
 寝る時間も少なく、仕事は忙しい。それなのにふしぎなことに私は前より元気で、むしろ若返ってきたようだ。灰色だった髪もいつの間にか漆黒に戻った。たまに立ち寄る旅人たちが目を見張って、「ご主人、また若くなったねえ」と声を上げる。「何か怪しい薬でも飲んでいるんじゃあるまいね」
 私は指を上げて、働いているイワナガヒメを指さす。「あれのせいです」
 そして大笑いで店はどよめく。だがそれは、あながち冗談なのではない。
 私のこの若さは、彼女の力だ。彼女と交わるたびに、身体のどこか底の底から、何かがよみがえり、生まれ変わり、新しい自分が生まれる。頭の中も身体のすべても、古びたものが次々消えて、みずみずしい何かと入れ替わって行く。
 この感覚はきっと誰にもわからない。生まれてくる新しさは、どこかよそから与えられるのではない。すべて、私自身のものだ。泉のように次々と、自分でも気づかなかった未知の自分が引き出されるのだ。
 「君のこの力は、私以外の相手にも効くのかな」けだるい目覚めの中で私は彼女に身をよせてつぶやく。
 「ためしてみてほしいのかしら?」彼女はしゃがれた低い声で答えて、私の耳をかむ。
 私にもわからない。
 だがおそらく、誰に対しても同じだろう。彼女は人を限りなく若返らせ、よみがえらせ、永遠に続く生きる喜びを与えつづけるのだ。
 そしておそらく、そのような力をめったに人に与えられないように、彼女は醜く作られているのだ。
 千客万来のこの店の忙しさも、もしかしたら私があまりにも彼女のその力をむさぼらないように、彼女にこの力を与えた何者かが、配慮してくれているのかもしれない。(2023.8.7.)

 

【作者の解説】

(これ、イワナガヒメとツクヨミのなれそめ?の話なんですけど、覚えてらっしゃいますかねえ。「村に」の電子書籍の挿絵集の中に、たしか入れてたと思いますが、あのころにもう、私こんな、しょうもない挿絵を描いてたんですよね。つまり、この短編の構想は「村に」を書いてるときから決まってたってわけで。ようやく、このたび文章になりました。ちなみに最初の一節だけは、去年の秋に書いていました。そのあと、忙しくてそのままにし、一週間ほど前に、二節から続けて完成させました。ツクヨミが階段を登るまで、ほぼ一年弱、かかっていることになります。ま、よくあることですが。笑)

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