水の王子・短編集「渚なら」9
第五話・飛べない舟(下)
オオクニヌシとスセリが、にぎりめしと果物を入れたかごを持ってやって来たとき、イナヒはつまらなそうに砂浜の上にねそべって、重ねた前足の上にあごをのせており、タカヒコネとミズハは夢中で砂の上に木の枝で図を描いて、あれこれ議論しあっていた。
「だめだよ、この窓はさっき開けたんだろ。風が入るからすぐに見抜かれちまう。頭悪いなあ、ミズハ。この階段を使うしかないんだって」
「足音で気づかれちゃったらどうすんの。ここ、行きどまりで逃げ場なんかないのよ。なあんにもわかってないんだから!」
「いったい、何の計画たててる?」オオクニヌシが、あきれ顔で聞いた。
「ツクヨミの店にしのびこんで宝物を奪う計画です」熱中しすぎていて、ごまかすのも忘れたらしいタカヒコネが、あわててつけ加えた。「あの、計画たててみてるだけです」
「ぜったいむりだって、そろそろわかってきちゃったから。多分もうあきらめる」ミズハがくやしそうに言った。
「待て待て、本当に不可能か?」オオクニヌシがいっしょにしゃがみこみそうにしたので、スセリが「あなた、何してるんですか」と、あわてて帯を後ろからつかんで制した。
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夕方、疲れて戻ってきたタカヒメたちは、舟が乾いて何とか飛べそうになっていたのにほっとしつつ、そんなことはそっちのけで、うきうき話しこんでいるタカヒコネとミズハを見て、あきれてものが言えないという顔になった。
「何をそう必死で話しこんでるんだい?」ウズメが聞く。
「え、何かあれやこれやと」タカヒコネが答えた。「そうだ、ウズメ、ミズハがあんたの鏡のかけらをほしがってるよ」
「小さいのでいいならあげるよ。みがいてごらん」ウズメがあっさり承知して、ミズハは大喜びでウズメにしがみつき、ちょうど迎えに来たハニヤスに連れられて、飛びはねながら帰って行った。
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まだ少し危なっかしくふらつきながら、タカヒメが小舟を空に舞い上がらせて去った後、夕もやに包まれた砂浜で再び三人だけになった若者たちは、それぞれ疲れた顔をしていた。特にタカヒコネは、さっきまでの少年のような明るさはどこへやら、すっかり沈んだ顔になっている。「どうした?」とニニギに聞かれて、「別に」と答えたタカヒコネは、すぐに思い直したように小声で言った。「何だかなあ。キノマタがかわいそうになって」
「暑さでおかしくなったのか?」ニニギが言った。「何でそう思う?」
「はちゃめちゃなようで、ミズハがどっかちゃんとしてるのは」タカヒコネはため息をついて砂をけった。「家族とか、おつきとかがいつも回りにちゃんといて、していいことやいけないことを、きちんと教えていたからだよ。タカマガハラで育ったニニギはもちろん、コトシロヌシはオオクニヌシとスセリがいたし、おれはスサノオや三人の女に、そういうことを習って育った。でもキノマタには誰もいなかった。トヨタマヒメは話はできなかったし、できる限りはやってくれたんだろうけど、限りがあった」
タカヒコネは肩を落として、首をふった。
「あの子は、キノマタは、結局、村のあちこちを歩き回って、聞きかじった他愛ない、人の会話のはしばしから、そういうものを見つけて、作り上げるしかなかったんだ。盗み聞きされてるような会話じゃあ、人はきれいごとは話さない。えげつない本音だけを口にするのがほとんどだ。そういうものばっかり聞いて育ったのじゃ、あいつが力と欲望で人を支配するしか思いつけなかったのも当然だ。何だかとてもかわいそうでさ…おれたちは本当に、彼にひどいことをしたんだなあって」
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二人はしばらく黙っていた。波の寄せる音が高くなったようだった。
「そうだな」と、コトシロヌシがやがて言った。「言いたいことはわかる気がする」
「だが、タカマガハラで親や教師に習ったことなんて、私はそんなに覚えてないんだけどな」ニニギが、まだよくのみこめない顔で言った。「そもそも、大してまじめに聞いてもなかったが」
「そういうもんだが、それでも、ないとあるとじゃちがうかもしれない」コトシロヌシも、あやふやな口調で言った。「私だって、父や母がそういう、あたりまえのきれいごとを口にするのがうるさくて、家を離れたような気がする。まあ、あの二人はそういうことはめったに言わない方だったけど、それでもときどき、うっとうしかった。兄や妹が、素直に従っていたのも、ちょっとつまらなかったのかもな。だが、考えてみると、逆らったり無視したりするにしても、そういうめやすがあってこそできることなんで、初めからそれがないのじゃ、やっぱりどこかちがうというか」
「だろ? キノマタには、それが全然なかったんだ。一人でそれを探してうろついてたかと思うと…ありあわせのものを拾って食べるしかないように、いろんな人のことばに耳をすませていたんだと思うと…」タカヒコネは低く言った。「あれは、おれたちが育てた子なんだ。何かしたのじゃなく、何もしなかったことで、おれたちが作り出した子なんだよ。今、とてもよく、そのことがわかる」
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「でも、どうかなあ」ニニギはまだこだわっていた。「それもどこか、ちがうような気もするなあ。たとえばさ、タカヒコネがキノマタのような育ち方をして、回りにきちんとしたことを誰も教えてくれる人がいなかったとして、それで君がキノマタのようになるとは思えない。どうしてか、どうしても、そうは思えない」
タカヒコネは苦笑した。「そいつはどうも」
「コトシロヌシはどう思う?」ニニギはふり向いて聞いた。
「難しいな、どうなんだろう。いや別にタカヒコネでなくっても私でも君でも同じことだが」コトシロヌシは眉をひそめた。「だって、タカヒコネがキノマタのような育ち方をしたら、って、それはもうタカヒコネじゃないんじゃないか。スサノオたちに育てられたタカヒコネにしても、タカマガハラで作られた君にしても、私にしても、そうやって回りに作られたのも、私たちの一部分だろ。どこまでが、どこからが、育ち方には関係ない、キノマタとちがう私たち自身って言えるんだ?」
「何てややこしい考え方をするんだ、君は」ニニギはため息をついた。「まあいいや。私はやっぱり、どんな育ち方をしても、キノマタとタカヒコネはちがうと思う。とにかく、舟が飛んでよかった」
「たしかにな。どうなることかと思ったよ」
「あ、そうそう、コトシロヌシ」タカヒコネが言った。「ミズハがしゃべった村のことで、いくつか気になることがある。目と足の悪い男のことと、仲の悪い夫婦のことと、あと何だっけ、ちょっと気をつけておいた方がいいことが…」(2023.8.11.)