水の王子・短編集「渚なら」11
第七話・夏の雲
今日も父は母をつれて、山登りに出かけた。
この住まいがすでに山の上だと言うのに。
弁当の包みと水を入れた竹筒を持って、嬉々として母とともに山を登って行く父の姿はほほえましい。
夕方まで帰らないだろうと思いながら、私は料理の用意をする。
台所仕事は得意ではなく興味もなかったが、やってみるとなかなか面白い。
だが父母も私も煮たり焼いたり、手をかけたものは好みではない。
木の実も野菜も、肉や魚でさえも、新しいものをそのまま食べるのが一番好きだ。
まじりけのない、はじけるような一つ一つの味が、心と身体のすみずみまでを幸せにする。
※
小さな家の前の、自然石を組み合わせた石段に座って、ちぎって来たばかりの果物をかじりながら、私は下界を見下ろす。
そこにも、重なる山々がある。緑の野原ははるかに下だ。人の姿は小さすぎて見えない。
かなたには海が広がる。夏の海の色は心なしか濃く、小さな船がいくつか見える。ここから見えるということは、かなり大きな船なのだろう。
私の舟も、目の前の崖につながれている。大きな白い鳥のように、ゆっくり風にゆれている。タカマガハラの、空を飛ぶ船。このごろ流行りの一人から三人乗りのごく小さいものよりはかなり大きいが、戦いに使われる巨大な大船とは比べものにならない。
かつて、それらの船と兵士を私は指揮した。
もう少し小型の船をあやつって、数人の仲間とともに草原で冒険もした。
あれからかなり時間がたつが、それほどの遠い昔にも思えない。
※
家の後は切り立った崖で、小さな洞穴がいくつかある。嵐のときなど、風や雨があまりにひどいと、私たちはその中に入って難をさける。
入り口は小さいが、洞穴の中は広い。いくつもの洞窟がつながって、迷路のようにどこまでも続く。夏はひんやりと涼しく、冬はほんのり暖かい。母はしょっちゅう中に入って歩き回り、ときには父や私も誘う。私たちもついて行き、天井からたれ下がる宝石のように光る虫の鎖や、せせらいで流れる水の流れを楽しむが、母がいなくなれば、きっと迷ってしまうだろうとわかっているから、はぐれないよう気をつけている。
※
夏の雲はもくもくと、生きもののように空に広がる。
雨がふるのかもしれない。
父は雨具を持って行ったろうか。母といっしょに、したたかぬれて、雨の中で若者か子どものように、とびはねて、はしゃぐのかもしれない。
かつてのタカマガハラの指導者と、それと対立したヨモツクニの支配者。もともとは夫婦だった二人は今またこうして愛し合い、娘の私と三人で、この山上でひっそりと暮らす。
しばしばタカマガハラから船が来る。食べ物や酒や身の回りのものを運んで来る。そして父や母や、時には私も交えて、下界のことや未来のことを相談し、新しい情報も持ってくる。
だから父も母も、さまざまなことをよく知っている。それなりに関心も興味もあるようだ。だがあまり夢中になっている風はない。たくさんの戦いや生や死を見て来た今では、何もかも大したことには思えないのだろう。
私自身もそうだから。
※
そうやって、訪問者がある時に、思えば一番私たち三人はことばを交わす。それ以外の、三人だけのときは、めったにたがいに口もきかない。
それでも父とはタカマガハラで長いこといっしょに仕事をして来たから、考えていることはだいたいわかるが、母とはそもそも、敵対する国の支配者として戦ってきたのだから、話をするようになってから、それほど時がたっていないし、何を考え、感じているのか、わからないことも多い。
たとえば少し前、父母が最初と最後に生んだ子、ヒルコとハヤオの話をしたとき、母は、「あの二人だけだもの、私が生んだ子と言えば」と口にした。
「私たちだっているじゃないの」私は反論した。「ツクヨミと、スサノオと、私」
「だってあなたたちは」母はちょっと少女のように、すねた、淋しそうな顔をした。「お父さまと私がヨモツクニで、おたがいに戦うことを宣言して別れたあとで、地上に戻ったお父さまが一人で生んだ子じゃありませんか」
※
「何言ってるの」私は言った。「お父さまはヨモツクニの汚れを落とすために、川で水浴びして、左の目を洗ったら私、右の目を洗ったらツクヨミ、鼻を洗ったらスサノオが生まれたのよ」
「そんなこと知ってるわよ。何回聞いたか知れやしない」母は私をにらんだ。「汚れを落として、私のことを切り捨てるために、あの人はそうしたのよ。そのときの記念が、あなたたち三人なんでしょ」
「汚れというのは、タカマガハラとお父さまの言ってることだわ」私もひっこまなかった。「それはお母さまのいた世界のもので、お母さまの一部でしょ。それがなくっちゃ、私たち三人とも生まれやしなかったんでしょ。私たちは皆、お母さまの一部だわ。お父さまがかたちにして、地上に送り出して下さっただけで。お母さまがいなくて、ヨモツクニがなかったら、私たち三人とも、そもそも、生まれていなかった」
すると母は、まじまじとしばらく私を見たあとで、はじけるように笑い出して、私を抱きしめ、へきえきしたほど、髪に、ほおに、唇に、接吻の雨をふらせた。
「アマテラス、やさしい子。そして、かしこい子。あなたがいてくれてよかった。死なないでくれてよかった」
「私の言うこと、わかったの? 信じるのよね?」母の肩をつかんで私は念を押した。
「ええ、わかったわ」母は素直にうなずいた。「そして、二度と忘れない」
「お父さまが今度私たち三人を、自分一人で生んだなんておっしゃったら、ふざけるなって私が言ってたと言ってやって」
「そうするわ」母は子どものように笑った。「楽しみよ」
そして、身をくねらせて私の腕から逃れながら、「そんなに私をゆさぶらないで」と文句を言った。「あなたは力が強すぎるのよ」
※
ヒルコとハヤオには姿をかくして、あの村ナカツクニで母はしばしば会っていたらしい。旅の女に化けて、ときどき話もしたと言っていた。
「ツクヨミとはいつもいっしょだったし」と母は話した。「でもスサノオには会ったことないの。どんな子だったの? 小さいときは」
「私も覚えていないのよ」私はことばを濁すしかなかった。「私たちは生まれた時、もう皆、赤ん坊じゃなく、少年少女の姿をしていた。ツクヨミはそのまますぐに、一人でどこかに行ってしまったし、スサノオは逆に私につきまとっていた。二人とも、美しい少年だったわ。とても美しい。でもツクヨミには、なまめかしさや妖しさはあっても、いつもどこか氷のような冷たさがあったけど、スサノオにはそれがなくて、その代わりに激しさと、狂気があった。多分、自分ではどうしようもない狂気が」
「あなたは、それにひかれたのね?」
「そうだったかもしれないわ。あまり覚えていないのよ。あの子はタカマガハラを荒らしつくし、私はそれをかばいつづけ、とうとう彼は天上を追われ、下界に落とされた。人間たちと同様に、年をとるようにされて、狂気をあとかたもなく奪われて」私は首をふった。「そして私は、彼の思い出を消されたわ。今もあの子の荒々しい、狂った美しさと魅力とは、ぼんやり覚えているだけよ」
※
まっ白い雲は重なりあって、高くつみ重なって空にそびえて行く。
タカヒメやアワヒメあたりの船が来ないだろうかと、ふと考えている自分に気づく。
アメノウズメはまだ一度もここに来たことがない。
村で、あの鏡が割れてから、彼女とゆっくり話したことは一度もない。
誰よりも、頼りになる仲間だった。
誰よりも、私を愛してくれていた。
だからこそ、彼女は私を狂気へ落ちる淵から救った。
スサノオに鏡をあて、彼を追放し、私に鏡をあてて、彼との思い出と愛を消した。
彼女のすることはすべて正しい。
だからこそ、そんなことをして、私に永遠にうとまれ、恨まれ、憎まれ、心から愛されることは決してないことを充分に知った上で、覚悟して、彼女はそうしたのだ。
それを私が知っていることも、彼女はきっと知っている。
※
純白の上にも純白の、盛り上がりつづける雲を私は見上げる。
何と自分は幸福なのだろう。そして、何と不幸なのだろう。
熱く乾いた、さわやかな風の中に、その実感だけがある。(2023.8.7.)