水の王子・短編集「渚なら」3
第三話・あのころのこと
「あれミズハ?」アワヒメが半信半疑の声を出した。
「そのようですな」タケミカヅチが落ち着いて言う。
ほんのまばたきするほどの直前、二人の前を、きゃーっとすさまじい叫び声を上げながら、女の子らしい何かが通りすぎて行った。そのすぐ後から黒雲のような巨大なかたまりが、これまたものすごい勢いですっとんで行き、どちらもたちまち見えなくなった。
「山羊でした?」アワヒメが眉をひそめる。
「そうですな。角があった」
二人はナカツクニの村の、岬に近い畑に来ていた。灯台が岬のはしにある方の、アメノウズメの住まいに近いあたりである。朝もまだ早いのに、畑にはすでに大勢の村人が出て、あぜ道の間を動き回っていた。「大したものですな」とタケミカヅチが感心した。「私はこちらの岬の方に来るのは初めてなのですが、いつもこんなに皆が働いているのなら、それは村も栄えるでしょう」
「私も一度しか来たことはないけれど」アワヒメは小さく首をかしげた。「そのときはウズメさましかいなかったし、いつもこうではないのではないかしら」
目ざとく二人を見つけたウズメが、あぜ道を飛び越えて、こちらに近づいて来た。「おや、アワヒメ、よく来たね。タケミカヅチも久しぶり」と言いながら、彼女はもつれるように、どやどやと走って来た子どもたちの一団を、身体をひねってよけながら、「あんたたち! 野菜を踏むんじゃないよ!」と声をかけた。「それに、さっきミズハを追っかけてったのは、あのでかい山羊だったようだが、囲いの柵を開けたのは誰なのさ!? 近づいちゃだめって、あれほど言っといただろうに!」
「ああ、ウズメさま、ちょっと山羊の乳をしぼろうとしただけよ!」空の手おけを持った女の子が、べそをかいて言い返した。「おばあさんにあげようと思って…」
※
「はーん、どこのおばあさん?」ウズメは両手を腰にあてて、ふんぞりかえった。
「川のそばの、青い屋根の、ミズハちゃんが今朝、石投げて、窓をこわしちゃったおうちの」女の子は言いかけて口に手をあてた。「だけど、あの」
「ミズハちゃんはセミを追っぱらおうとしただけなんだ」男の子の一人が、せきこんで言った。「朝からセミが窓にとまって、じいじい鳴いてうるさいからおばあさん眠れないだろうって、ミズハちゃんが石を投げたら、セミは逃げたけど、窓がこわれて、おばあさんが腰ぬかしちゃって」
「おわびに何かほしいものをって聞いたら、おばあさん、山羊のお乳がのみたいって言うから、それで皆で来たんだけど、ウズメおばさんたち忙しそうだし、それじゃあたしたちで乳ぐらいしぼれるって、ミズハちゃんが言うし」
「それで追っかけられたのかい」ウズメはミズハと山羊の姿が消えた方に目をやった。「どうでもいいけど、ありゃ一番でかいオス山羊じゃないか。乳をしぼるんならメス山羊だろうに」
「ちゃんと、お母さん山羊をさがしたよ、おれたち。子山羊が乳のんでたから、ミズハちゃんがわりこもうとしたら、オス山羊が向こうから、どっどっどっと走ってきて」
「そもそも、あたしたちが朝っぱらからこうやって村中総出で忙しいのも、ミズハやあんたらのせいなんだからね」ウズメは決めつけた。「畑に水をやろうと考えてくれたのはいいが、何で温泉から流れてきた熱いお湯をかけるかね! 川からでも海からでも、水はたっぷりあるんだろうに、よりにもよって! おかげで、あっちの方のうねの作物は一面、全滅さ」
「ミズハちゃんが、お湯をかけたら虫も死ぬから、きっと野菜も元気になるって…」
「ウズメさま」アワヒメが気がかりそうに声をかけた。「山羊に追われてたようですが、あの子は大丈夫でしょうか?」
※
ウズメが答えかけたとき、アワヒメたちの後ろの方から、大弓を背にしたアメノサグメが近づいて来た。「あの子なら、小屋をふたつと家の屋根をひとつガタガタにしたけど、今んとこまだ生きてるよ。誰かあの子に、山羊は木に登れるって教えといてやんなよ。高いところに登ったら逃げられると思ったらしくて、木から屋根伝いに逃げようとしたけど、山羊もかけ上がって来たからね。今、いっぴきと一人で、屋根の上を飛び回ってて、見物人も増えてるようだよ」
「おれたちも行こうよ、何とかしなくちゃ!」子どもたちは悲鳴のように口々に何か叫びながら、村の方へとかけ去って行った。「ミズハちゃーん、待ってろよ!」「すぐ行くわ!」と言っている声も聞こえた。
「ウズメさま」疲れた顔の村人が数人、近づいて来た。「何とか後始末は終わりました。半分以上は植え替えないとだめでしょうな。昼から皆でとりかかります」
「抜いた野菜は山羊や牛に食べさせてやって。ご苦労さんだったね。ハニヤスはどうしてる?」
村人たちは苦笑した。「いつもの通り、あの子は悪気はなかったんだ、しかたがなかったんだと言ってます。さっき、山羊に屋根の上で追いつめられてるって聞いて、心配してすっとんで行きましたよ。他にご用はございますか?」
「ああ、そうだ」ウズメは言った。「誰か山羊の乳をしぼって、青い屋根の家にこの前住みはじめたばあさんの家に持ってってやって。窓もこわれてるらしいから、修理してくれるよう、ニニギかコトシロヌシに伝えておいて。すまないね」
「まあ、今日はこれだけですめば、楽なもんですよ」村人たちは、あきらめたような声を出した。
※
「何だか私、とんでもないやっかいごとを、村に押しつけてしまったようで」村人たちが去った後、アワヒメが両手をにぎりしめた。「本当に申し訳ありません。あの子、毎日こんな風なのですか?」
「今日なんか、おだやかな方だよ」ウズメはにべもなく言った。「夜までにはまだ時間があるからね。何が起こるかわからない」
「あの、あまりご迷惑になるようでしたら」アワヒメが決意したように言いかけた。
「だめだめ、今さら」ウズメは手をふった。「ハニヤスが手放すもんか。なめるように、かわいがってるんだから。あの子が何をしたって、絶対に悪気はないとか、何かのまちがいだとか言い張ってかばうしね。皆もあきれて、もう何も言わないよ」
「たしかに聞いてりゃ、いちいちいつも、それなりの理由はあるしね」サグメが苦笑いした。「もしかしたら、キノマタだって、最初のころは、こんな風に事情があったんじゃないかって、つい思っちまうぐらいさ」
「どっちみち、この程度のことじゃ、昔タカマガハラにいた者は驚きゃしないさ。皮をはいだ馬の死骸を女たちの仕事場に放りこむのに比べりゃ、かわいいもんだ、ミズハの起こす騒動ぐらい」
「馬の皮をはいだ死骸ですって?」アワヒメが眉をひそめる。「そんなことがありましたの?」
「そうでしたなあ」タケミカヅチが、のんびり言った。
※
「スサノオだよ、アマテラスの弟の」あぜ道に足を投げ出して座りながら、サグメがアワヒメに説明した。「イザナギさまとイザナミさまが敵味方になって、まもなくのころだ。ツクヨミはもう、イザナミのとこに行ってた。スサノオも行きたがってたみたいで、皆に引き止められたのが気に食わなかったのか、ひたすらグレて、タカマガハラで好き勝手して暴れてた。また、アマテラスがそれを徹底的にかばったんだよ。今のハニヤスがミズハをかわいがるどころじゃなかった」
「スサノオさまも、あのころは、図体は大きかったが、まだほんの子どもであらせられましたからなあ」タケミカヅチが思い出すように言った。「何とも愛らしくて、見た目はちょっとハヤオに似てましたかな。ただ、もっと、どこか病的で、狂っていて、普通じゃなかった。それがまた何とも妖しい魅力で、人をひきつけた。アマテラスさまも、魅入られたように、弟のすることは、すべて大目に見て許しておられた」
「それでスサノオは、ますますつけあがったというか、やけみたいに、あたりを破壊し、人や動物を傷つけていた。アマテラスも、とうとう疲れ果てて、もうそのころは、イザナギさまの後をついで、タカマガハラの支配をまかされていたのに、とうとうすべてを放り出して、岩穴の中に閉じこもってしまった」
「まあ、あの時はアマテラスさまも病んでおられたと言っていいですからな」タケミカヅチは言った。「あのころのスサノオさまには、何かそういう、人を狂わせる毒のようなものがおありでしたよ。じっと目を見交わしていると、私なぞも、妙にぞくぞくしたものです」
※
「まあ、アマテラスさまのしたことは、あれはあれで、よかったのでしょうな」タケミカヅチは続けた。「あのころ、スサノオさまにつきまとう者たちも出て来ておったし、あのままでは、スサノオさまが、タカマガハラの支配者になっておったかもしれません。大胆なやり方でしたが、ご自分をああやって、隠してしまわれることで、あの方は皆に、自分とスサノオのどちらを選ぶか、せまったのだと思います。危険な賭けかもしれなかったが」
「さすがに、タカマガハラも、まだそこまでは狂っていなかったからね」ウズメが唇をゆがめた。「あたしたちは、アマテラスをあらためて指導者として迎え、スサノオは地上に追放した。その時に彼の狂気や異常さも奪った。彼はどうにかそれで、まっとうな人間になったようだが、同時に若さを失って、そのまま年をとって行った。アマテラスが愛した、危険で不穏な狂気を抱いて、それなりに輝いていた弟は、永遠にこの世から消えた」
「代わりにあんたが、岩穴の前で裸踊りをしてみせたじゃないか」サグメが笑った。「いや、あれはすごかったね。スサノオから奪った熱気や狂気を、そっくり受け継いでいるようだったよ」
「しかたがないさ」ウズメは鼻を鳴らした。「アマテラスのスサノオへの入れあげ方は普通じゃなかったが、自分の持つ落ち着きや賢さとともに、弟にしかない、いかがわしさや荒々しさをなくさないで大事にしたいと思っていたのだろうよ。だが無理だった。タカマガハラを守ろうと思ったら、あの弟はおいとけない。せめてあたしは、アマテラスが守ろうとして守りきれなかったそういうものを、少しは残しておけるってことを、見せておきたかったからね」
「あの時、岩穴にアマテラスさまをお迎えに行ったのは、私とタヂカラオでしたなあ」タケミカヅチは言った。「ウズメさまの踊りと、それを見て浮かれる人たちを見て、アマテラスさまは、どことなく救われたようなお顔をしておられた。もう二度と岩穴にこもられないように、入り口にシリクメナワを張りながら、タヂカラオと二人で、ほっとしたものでしたよ」
※
「こうも長く生きてるとさ」ウズメは手の土を払った。「似たような同じことを、何度も前に見たような気がする。今だってそうさ。だから、あわてないんだけどね」
「そうは言っても、同じようでいろいろちがってるとこもある」サグメが言った。「そこが油断のできないところさ」(2023.7.23.)