水の王子・短編集「渚なら」7
第五話・朝露
海から静かに吹く風が、淡い色の花々をゆらしていた。あちこちに小さい虹が、からかうようにかかっていた。早い朝食の後で小道をそぞろ歩いていたクラド王は、花の茂みの向こうから聞こえてくる、優しい声にふと足をとめた。
「とてもきれいだったわよ」ささやくように、いたわるように、声は話しかけていた。「最高だったわ。忘れないわ」
耳をかたむけていると、声は少し移動し、また前と同じ、ねぎらうような、心のこもった声がした。
「ああ、あなたもよ。素敵だったわ。もう最高でした。あなたも、本当にきれいだった。見事だった」
クラド王は首だけをそっと動かして、茂みの向こうをすかして見た。薄紫の衣を着て赤みがかった金色の髪を肩にたらし、前かがみになって花の茂みをのぞきこむようにしているのは、たしかイワスヒメという名の若い女官である。彼女の回りの草や葉の上で朝露がきらきらと輝き、手元では小さなはさみが銀色に輝いた。
彼女以外には、あたりに誰もいない。
彼女の手のはさみが動いて、咲き終わって茶色に枯れた花の残りを茎の先端から切り落とした。わずかにとどまっていた花びらが数枚ひらひらと散り、ぽたりと枯れた花の頭が草の中に落ちる。「きれいだったわ」とイワスヒメはささやいた。「最高だったわ」
※
クラド王が首をかしげたとき、人の気配を感じたのか、イワスヒメが顔を上げ、王と目が合うときまり悪そうに白いほおをうす赤く染めた。朝日の光が包んでいたので、それほどはっきりとはわからなかったが。「気づかずに、失礼いたしました」彼女はそわそわしながらほほえんだ。
「こちらこそ」王は答えた。「花と話していたのかな?」
「もう聞こえてはいないかもしれませんが」イワスヒメはあたりをそっと見回した。「枯れた花をこうやって切ってやらないと、木が元気をなくすものですから、でもどの花も、とても長いこと、それはきれいに咲いていてくれましたので、ついお礼を言わずにはいられなくて」
「じゃまをして悪かったな。どうか仕事を続けてくれ」
「もう、あらかたは終わりました」イワスヒメは、ぬれたはさみを布でぬぐった。「あとは、宮殿に飾る花を選ぶだけです。私が運べる小さいものだけですけれど」
「私もいっしょに選ぼうか?」
「そんな、恐れ多いこと」イワスヒメはそう言いながら楽しそうに袖で口をかくして笑った。
「どうして? せっかくなら自分の好きな花を飾りたい」
「お言葉ですが、ここで見るのと建物の中とでは、色も感じもちがいますから、ご自分でお好きなものを作られても、きっとがっかりなさいますわ」
「難しいんだな。なおのこと面白そうだ」
王がかまわず、草むらをわけて近づこうとすると、イワスヒメは「あれ、だめです」とあわててとめた。「あちらの石段から回って下りていらして下さい。お召しものが露でぬれてしまいます」
「もうぬれているんだけど」と言いながら、言われた通り、王は回り道をして花園の中に下りた。
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紫と白の花房がたれた枝を、手をのばして引き寄せながら、王は思い出して言った。「君はこの前、宮殿の玄関の階段を作り直してくれた人? とても使いやすくなって、見た目の感じもよくなったから、お礼を言いたいと思っていたんだ」
「恐れ入ります」王が曲げた枝を切り取りながら、イワスヒメは誇らしげに恥ずかしそうに、またほおを染めた。「ナカツクニの村で、コノハナサクヤさまに、いろいろ教えていただいたことを思い出しながら、やってみましたの。朝日があたるときにできる影のかたちなども考えるように言われていたので、それも考えて」
「そうだろうな。手すりの影が、朝日や月光に、床の上に模様を広げるようで、いくらながめていても飽きない」
「あれはでも、何と言っても作業にあたった者たちの腕がよかったせいもありますわ」
「そして、そうだよ、あれもよかった。奥庭の、妃とタクナワ姫の墓をおおうようにして作ってくれた建物。まるで小さな宮殿みたいに、かわいらしく、面白くしてくれた。二人がきっと大喜びしているだろう」
「首飾りの使い方は、あれでよかったのかしらと、少し心配だったのですけど」
「あれが一番すばらしかった。難しい注文だったのに。私も頼みながら、自分が何を望んでいるのか、よくわからなかったのだものね。それを君は、私が自分でもうまく言えなかった通りのかたちを作ってくれた。妃がいつもつけていた首飾りの勾玉をばらばらにして、壁に散らしてはめこんで、淡い光の中でもまぶしくいろんな色に輝くのが、まるで妃が歌ったりしゃべったりしているようだ。眠たくなるような午後に、ひとりであそこの椅子に座って、その輝きを見ていると、妃たちの声が聞こえてくるようなんだよ」
「そんなに喜んでいただけて」イワスヒメは、しみじみとつぶやいた。「私もどんなにうれしいか」
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「それで、ナカツクニの村はどうだった?」イワスヒメが花束をまとめているのを見ながら、王は石の上に腰をおろした。
「ああ、どう言ったらいいのでしょうか」イワスヒメはうっとりとした。「とても楽しい、とてもふしぎな。目まぐるしくてにぎやかで、いつも何かが起こっていました。私はここの方が好きですけれど、でも、あの村も何だかとても面白くて」
「ヨモツクニの者や、マガツミだった者もいるんだって?」王は恐いもの見たさの子どものように、少し身を乗りだした。
「そうなんです」イワスヒメはうなずいた。「この町じゃ、そんな人たちの気配さえなかったし、耳にしたり口にしたりするだけでも身の毛がよだつ思いで皆暮らしていましたのに、あそこの人たちは平気なんです。皆がいつも行く酒場の主は、もとヨモツクニのイザナミの片腕だった、ツクヨミという若者らしいし」
「ふうん」クラド王は恐れをなした顔をした。「そこに皆、ふつうに行くの?」
「飲んだり食べたり。タカマガハラの人までが、出入りしているようですわ」
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「君は彼に会ったの? その、ツクヨミという若者に」
「いえ、さすがに恐くって」イワスヒメは恥ずかしそうに笑った。「アメノワカヒコさまからも何度か誘われましたのですけど。ここに来ていらしたお友だちからも。とても料理がおいしいし、主の話も面白いんだよ、なんて。あ、そう言えば」イワスヒメはちょっとためらう。「あのお友だちのお一人も、もともとはマガツミだったらしいです。スサノオの都で三人の女の人が、マガツミから作り出した人間なのだそうで」
「ええっ!?」クラド王は目を丸くした。
「言わなくって悪かったかなあ、と、ご本人もワカヒコさまも気にしておられましたわ。あんまり自分たちには普通のことだったから、この町やあなたさまがヨモツクニやマガツミを忌み嫌っていることなんか、すっかり忘れておいでだったんですって」
「しかし、あの三人だよね? コトシロヌシとニニギとタカヒコネって言ったっけ?」
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「そうですわ」イワスヒメの目がふといたずらっぽくなった。「誰がそうだか、おわかりになりまして?」
「ええ?」クラド王はまだ動揺したまま、考えこんでいた。「だって三人とも全然そんな風には…いや、言わないでくれ。あてて見せるから」
つみとった香草を唇にあてながら、王は首をかしげていた。
「ニニギかな?」彼はやがて言って、イワスヒメを見た。
「なぜですの?」
「何だか、まじめで、冗談にときどきついて来れないみたいだし、こう、ちょっと、きちんと作られたみたいな、型にはまった感じがして」
イワスヒメはくすくす笑った。「あの方は代々続く家柄のタカマガハラの生粋の戦士です」
「そんな!」王は声をあげた。「じゃ、残り二人のどっちかが?」
「はい。もとマガツミでいらっしゃいます」
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「じゃあ…」王はまた長いことためらった。「コトシロヌシ?」
イワスヒメは首をかしげた。「そのわけは?」
「あの変な鳥とすっかり心が通じていたし、総じてどこか、普通の人間とちがって見えた。ちがう世界を知っていて、どこにでも行き来できるような自由さがあって」
イワスヒメは少女のようにはしゃいで手を打った。「あの方は村の長のオオクニヌシさまのご子息です。お母さまはスセリさま。タカマガハラから地上にいらした、スサノオさまのご息女の」
「じゃ、タカヒコネが? 何だか一番、人間っぽく見えたのに! 外見もしぐさも、言うことすること何もかも。嘘だろう、本当に彼?」
イワスヒメはうなずいた。「まあ、マガツミと言っても、もともとは皆ふつうの人間だったらしいから、とワカヒコさまはおっしゃっておいででした」
「彼が一番どういうか、私に近く思えたんだよ。ワカヒコとも似てる気がした。それも、昔の彼じゃなく、最近の彼に」
王は、ふっとため息をついた。
「こういう友だちとつきあって、ワカヒコは少し変わったのかなあと、何となく思ってた」
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「いつかまた、会いたいな」王はつぶやいた。「あの三人とも、ワカヒコとも」
「いっそ、村においでになります?」イワナガヒメがそっと尋ねる。「アワヒメさまは、いつでも船で連れて行って下さると思いますわ」
「もう少し待ってからね」王は言った。「今の私には、まだ刺激が強すぎる。もう少し…君が作ってくれた、あの小さいあずまやの中で、妃たちのことを思い出しながら過ごしてから」
イワスヒメはほほえんだ。「それがよろしゅうございます」
日が高く昇りはじめて、花の香りが強くなった。「私はもう行きませんと」とイワスヒメが言った。「花が元気がなくなってはいけませんから」
「そうだね」王も立ち上がった。「妃もよくここに来ていたの?」
「ええ。おわかりになりまして?」
「朝早く、まだ私が寝ている暗い内から、彼女は寝床をぬけだして、散歩に行くことがあったんだよ。寝床に戻って、手にした草で私の顔をくすぐって、目をさまさせようとした。そのくせ自分はまた寝てしまって。その草の香りを覚えている。この香りだよ」
あたり一面にただよう、さわやかな甘い草の香りの中で、しばらく二人は黙っていた。
「今度、奥庭のあの、あずまやのあたりにも、お植えしましょうか?」イワスヒメが言った。
「そうしてくれたらうれしいな」はずんだ声で王が答える。
花を抱えたまま一礼して、イワスヒメは静かに去った。
海の方からやわらかな風が吹いてきて、あたりの朝露をぱらぱらと散らせた。(2023.8.9.)