「花咲か爺さん」がいわんとしたこと
「情けあるおのこ」という、私の中のテーマは、「恵まれている(かもしれない)者が、そうでない者のために、どこまで犠牲を払えばいいか」ということでもあって、実は先日というか、たった昨日、憲法カフェという地域の勉強会で、フロアから質問が出た、「今、各国で極右政権が誕生しているのを、どう見るか。貧しい白人層などが、マイノリティよりも自分たちが疎外されているという怒りが、その根底にある」のような問題点とも関わって来る。
実際、私が生活保護とか難民とか言った弱者への攻撃に、ものすごく怒りを感じるのは、「そんなこと今さら言うならだなあ、私が今まで恵まれている者と見られて、めちゃくちゃ我慢させられて来て、文句も言わずに生きてきたのをどうしてくれる。おまえらが弱者への文句言うのは百年早いわい」という、なんか我ながらものすごく、まちがっているような気分にもとづいているようで、自分でびびる。
そういう気分で童話を読むと、ろくなことを考えない。
というのが、この「花咲か爺さん」と、次に紹介する「さかなよ、さかな」の感想である。
「花咲か爺さん」がいわんとしたこと
1 町田康氏の見解
町田康が中公文庫「おそれずにたちむかえ」の「意外なところに原因が」で、日本の外交があまりに下手なのはなぜかと「脳漿を絞るようにして」考えた結果、原因は童話の「花咲か爺さん」にあると断じている。
「正直な爺さんと不正直な爺さんが隣同士で、正直な爺さんはその正直ゆえに栄え、不正直な爺さんはその不正直ゆえに滅びる。
我々日本人は子供の頃この話を何度となく聞かされ、正直が一番、という考え方が骨の髄までしみ込んでいる。」
町田氏は更に役人も大臣も皆そうだから、他国との外交でもつい意地悪ができず正直にふるまってしまい、失敗することになる、だから早急に「花咲か爺さん」を禁書にし、焚書にしてしまうべきだ、という。もちろんジョークで、少しでも本心が入っているかどうかは、実のところわからない。
ただ私は最近まったく別の、というより正反対の方向から、「花咲か爺さん」の話が気になっていた。
町田氏にならって私も分析すると、「花咲か爺さん」の主人公が最終的に成功し隣りの爺さんが不幸になるのは正直か不正直かという問題ではない。
民話の多くがそうであるように、これもさまざまな伝承があるのだろうが、
裏の畑でポチが鳴く 正直じいさん掘ったれば
大判小判が ざっくざっくざっくざく
という童謡でも知られる(この話の内容では特に「正直」ということがポイントではないのに、町田が「正直」をテーマととらえたのは、この童謡の影響も大きいだろう)、この話のあらすじは次のようなものだ。
ある年寄りが犬を飼ってかわいがっていた。ある日、犬がしきりに庭のすみで鳴くので、そこを掘ってみると金銀財宝が出てきた。それを知った隣りの年寄りがうらやましがって、強引に犬を借りて行くが、犬が鳴いた庭の隅を掘ると、がらくたしか出て来ず、怒って犬を殺してしまう。
飼い主の年寄りは深く嘆いて、犬の死骸を引き取り、庭の隅に埋めて、その上に木を植えた。木が大きく育ったので、それを切って臼を作ってつくと、中から金銀財宝がわきだした。隣りの年寄りはそれを見て、またその臼を借りたが、やはり彼がつくと臼からはがらくたしか出ない。怒った彼は臼をたたきこわして燃やしてしまった。
犬の飼い主(臼の持ち主)の年寄りは悲しみ、その燃やした灰をもらって桜の木にまいた。すると枯れた枝に花が咲き、通りかかった殿さまからたくさんのほうびをもらう。隣りの年寄りはまた、その灰をわけてもらって同じようにまいたが花は咲かず、殿さまの一行に灰がかかって、重い処罰を受けた。
童話や民話に共通の、つっこみどころやわけのわからないところはもちろんいろいろある。だが、読めばわかるように、これはどう見ても正直者が得をした話ではない。
2 私はなぜ革命をめざしたか
私は「花咲か爺さん」の話が子どものころから特に好きだったわけではない。「一寸法師」や「かちかち山」や「桃太郎」、その他の童話と同じように普通に自然に読んで覚えていただけだ。
しかし、今あらためて考えると、この話はかなり幼いころから今にいたる、私の一番深い部分の恐れや怒りにふれている。
あまりにもまったく突然だが、私は学生時代日本共産党に入っていて、日本や世界の社会主義革命をめざしていた。そうなった理由はいろいろあるし、今でも理想としては貧富の差がなく誰もが平等な世界を願っている。ウォール街で格差反対のデモが起こっているのだから、私がこんなことを考えているからといって、さほど騒ぐほどのことでもあるまい。もう少し具体的に細かく言うなら、私の最高の理想は、
「私以上に不幸な人がこの世にいないと確信できること、そしてなお私自身はそこそこ幸福であること」
である。
だが、いっしょに政治活動をしていた仲間にも多分言ったことはなく、自分でもあまり意識していなかったかもしれないが、私が格差のない社会や革命をめざす根底には、どう考えても共産党や社会主義とは関わりのないどころか、そういう方面からは、かなり邪悪な精神とみなされそうな意識がある。
財産、才能、魅力、その他の何であれ、私は自分が持っているものを他人からうらやまれたくない。めざされるのもライバル視されるのも、気が重い。
なぜそうなのかの理由は長くなりそうだから省くが、とにかく、いかにささやかで、つまらないものでも、私には大切なものを「私もそれがほしい」と他人から言われたり思われたりしてはいないかと落ちつかず、自分は持ちすぎているのではないか、ほしいと言う人がいるのなら、その人が持つべきなのではないかと、いつも思う。
実際にそうであることも多く、そうやって手放したものが、誰かのもとで大切にされて役に立っているのはうれしい。
しかし時には、これだけはどうしても手放したくないと思うものがあり、それを「ほしい」と持っていない人から要求されたとき、どこまで拒絶していいのか、私はいつもわからない。
その人が私と同じかそれ以上に、そのものの価値を知り、そのものを切望し、そのものを活用してくれるなら、かまわない。
だが、そうでなくて、結局その人のもとに行ったら、そのものの魅力や能力が発揮できず、価値が理解されず、粗末に扱われ衰えて滅びる、という事態を何よりも私は恐れた。
そこには、私自身が「そのもの」である場合への恐れもあったろう。
子どものころ読んだ「ハイジ」の本で、アルプスで生き生きとしていたハイジが都会で生気を失って夢遊病になる場面に深く共感したし、よく外国の童話などにある、森で鳴いていた美しい声の鳥を愛した王様が王宮で金の駕籠に入れて飼っても、一声も鳥は鳴かず魅力を失うという展開も、奇妙なほどリアルな悲しみとして受けとめた。
そのように私が、手放したくないと思う、かけがえのないものは、特に高価なものや稀少価値のあるものではない。
これまでの人生で私は求めもしたし選びもしたが、それ以外でも何かが自分に与えられたら全力でそれを愛して育てた。そうすることで、それがかけがえのないものになるとわかっていた。
だから、もちろんある程度以上の条件下ではあるが、何かを与えられればそれが相当粗末でも貧しいものでも、私は人生も生活も自分にとって貴重で豊かなものにする自信はある。
一番恐くて不安なのは、そうやって心おきなく愛し育てたものを、「あなたは恵まれている、持ちすぎている、私にもよこせ」と誰かに言われることなのだ。
私が革命をめざし平等で格差のない世の中を願う理由は、あとにもさきにもそれだけではなかったのかと、このごろになって、つくづく思う。
たとえば、富が平等に分配され、味気ない灰色のアパートの小さな部屋と粗末な家具だけが私のものであったとしても、確実に私はその部屋と家具を大切に愛して、魅力的な生活を作るだろう。右隣とも左隣とも異なる、私にしか作れない私だけの魅力に満ちた毎日を。
もっとも、この自信は、他人から見るとやはりいやらしいし許しがたいかもしれない。
先日から家を新築するにあたって、それこそ隣りの方と境界線のことなど打ち合わせるとき、もちろん花咲か爺さんの隣人とは正反対の立派な方だが、私はとにかく相手の希望を最大限活かし、譲りに譲ろうとする。
しかし、自分で次第に気づいたのだが、そう言っている私の中には「そちらの要求はそれだけですね。もうそれ以上は本当にないですね。では、ここまでを守ればあとはもう、私のしたいようにしていいんですね」という意識が明らかにある。
これは時と場合によっては、相手の神経をいやがうえにも逆なでするだろう。
私は自分が強者とも、正義の味方とも思わない。
しかし、物語的には私のこういうやり方は、強者や正義の味方のとる行動だ。
相手にしたいことをさせる。
相手の好きな武器を選ばせ、相手の好む土俵に上がる。
相手の注文通りにしたがっておいて、その結果、ものすごい物量や能力やアイディアやセンスで圧倒的に勝利する。
それはもしかしたら、生まれながらの身分差別や社会構造ゆえの格差より、相手にとって不愉快かもしれない。
言っておくが、私にそんな物量や能力やセンスやアイディアはない。
しかし、相手にしたいようにさせておいて、なおかつ「じゃあそれで文句はないんですね。私に何も要求したり、うらやましがったりすることはしませんね」と念を押したあげくに、灰色の画一的なアパートでも、樽の中でも牢獄でも、自分の幸福をゆるぎなく築くという、私がめざすやり方は、もし実現できたにしても「幸福を感じる能力」という点では他者との格差を認めないわけにはいかないし、羨望や嫉妬をなくすことはできないだろう。
3 ささやかな妄想
「花咲か爺さん」に話を戻そう。学生たちにしばしば言うのだが、私が上のような超個人的な話をぶっちゃけるのは、あくまで作品の解釈をわかりやすくするためなのである(ほんとかよ)。
あらためてこの話を読むと、これは私が最も恐れかつ憎む隣人、他者、社会との関係である。犬や臼は、その飼い主や持ち主のもとでのみ、魅力を発揮し幸福を生む。その結果だけを見て、自分も同じものを持ちさえすれば同じ幸福を得られると思って隣人は犬や臼を借りる。
結果はみじめなものに終わる。それで怒って犬を殺し臼を壊す隣人は私の最も忌み嫌う存在だが、しかし彼の心境と苛立ちを思えば、それもあるいは無理からぬことかもしれない。
平等になったつもりだったのに、同じ結果を生めなかった彼の怒りと絶望の深さは思いやるにあまりある。
とか言っている私は人がよすぎて、この隣人にとっては犬も臼も、いくらでもとりかえのきく、どうでもいいものであったのかもしれないが。
「平家物語」のような軍記物でもそうだが、こうやって長く語り伝えられた単純で一見奇妙な話を読んでいると、それが生まれた過程、語り伝えられてきた過程に、多くの人たちの怨念とまでは行かなくても、積もり積もったむしゃくしゃやいらいらが凝縮されているような気がして、それが自分と一致する部分が多いと、思わず苦笑してしまう。
犬を殺され、臼を壊され、それでも怒りもしない主人公は、犬から臼、臼から灰へと悲しみの中に新しい方向を見出し、別のかたちでの幸福をさずかる。
それに追いすがり続ける隣人は、最後に自滅する。
これは現実の反映か、それとも陰画か。
私にどこか似た人間たちが、ある種の存在への腹立たしさを、こっそりと、こんな話のなかにまぎれこませて腹いせをしたのだったらと考えると思わず「ひでぇ」と吹き出しながら逆に冷静になって、いらいらが収まったりすることもある。(2011/11/29)
写真は、田舎の家から帰る途中の道の駅で、数年前に買った桜の苗木。二本買って一本は枯れてしまい、一本は一応伸びて葉っぱは毎年つけるけど、花は咲かない。これは最初の年に咲いた花の、今となっては貴重な映像です。