1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 協力者列伝
  4. ウィルヘルム・テルの登場場面

ウィルヘルム・テルの登場場面

これは、もうずいぶん前に書いて、パソコンのどこかに落っこちていたものを拾ってきたものだ。別に、今読んでも私の気持ちに変わりはないので、そのまんま紹介する。

でも、せっかくだから、いらん無駄話をつけ加えると、私はラッセル・クロウという俳優のファンで、彼も昔はほっそりした繊細な感じの若者だったが、最近では押しも押されもせぬ堂々としたベテラン俳優になり、身体も巨大になっている。しかし、それでも、その雰囲気に、どこか軽やかさと、あえて言うなら影の薄いはかない淡白さがただようのが、やはり私が好きなだけあると思うところだ。あくが強いとか重厚とか言われることが多そうだが、それは彼をよく見てない、知らない人の発言だろう。

そんな彼に、どうしてもやってほしい役が三つあって、英語が堪能なら手紙を書いて勧めたいほどなのだが、一つは、童話のドリトル先生(すでに映画化されているが、あのイメージは原作と真逆すぎて腹も立たないぐらい、かけはなれている)、もう一つはミステリ「木曜の男」の日曜、最後はこのウィルヘルム・テルである。(2019.2.8.)


スイス独立運動の英雄。悪代官ゲスラー。帽子への敬礼。りんごの的。そんな話を今の人は、どれだけ知っているのだろう?あらためて読み直してみても、シラーのこの戯曲は劇として、とてもよくできていて、しかるべき俳優や監督を使って映画にでもすれば大ヒット間違いなしと思うのに、旧かな遣いの大昔の本しか、翻訳すらも見られない状態だ。しかたがないから、引用は昭和五年の秦豊吉氏の訳(新潮社出版、世界文学全集10「獨逸古典劇集」を基に、かな遣いを直し、少し文章も変える。お許し願いたい。

1 本当にうまい書き出し

この劇の冒頭は、きれいなスイスの湖畔での猟師と羊飼いと漁夫の会話から始まる。絵のように平和なこの風景の中に、突然一人の男が、息せき切って登場する。その第一声が「おい、後生だ。船頭さん、舟だ」であり、「おい、おい、何でそう泡食ってるんだ」と聞く漁夫に答える次の言葉が「出してくれ。俺の生命を助けてくれ。向こうに渡してくれ」だから、あんまりはまりすぎていて、私の「川っぷちの小屋」その他の文章を読んでいる人は吹き出してしまうかもしれないが、もちろん、本当は笑えるような事態ではない。

男はバウムガルテンと言って、ウンテルワルデン(当時のスイスの四つの州の一つ)の代官が、妻を凌辱しようとしたため、斧で殺してしまったのである。当然、家来たちから追われている。彼は叫ぶ。「早く、早く。あいつら、すぐあとへ追いついてくるんだ。代官の武士どもだ。つかまったら最後、命はねえ」。

いや、型通りではあるけれど、ほんとにうまい書き出しだと、今読んでもつくづく思う。どうして、改訳、出版しないのだろう!?もったいないなあ。(とか言ってたら、案外ちゃんと出版されていたりして。もしそうだったら、ごめんなさい。)

2 ますます型通りの展開

そこに、雷が鳴りはじめる。早く舟をだしてやれと言う羊飼いに、漁夫は言う。「そうは行かねえ。ひでえ嵐がやって来るんだ。待たなきゃいけねえ」。

バウムガルテンは「一刻でもおくれりゃ死ぬ」と訴え、羊飼いは「隣どうしは助け合わなきゃならねえ。俺たちみんな同じ目に遭わねえでもねえからな」と口添えする。しかし風の音と雷鳴は激しくなり、漁夫は「そうら、南のはやてだぞ。湖水のこの荒れを見ねえ。この嵐や波じゃ、俺にゃ舵さえとれねえよ」とひるむ。バウムガルテンは漁夫の膝をつかんで「俺を助けてくれれば、神様だって、お前さんを助けてくれるよ」とかきくどく。猟師は「命の瀬戸際だ、かわいそうじゃねえか、船頭さん」と言い、羊飼いも「女房子もある一家のあるじだ」と言う。

それに続く漁夫とバウムガルテンのやりとりは、もう本当に私の言おうとしている状況の型通りなので、そのまま引用しておこう。

 「何だと。じゃあ、俺の生命はいらねえのか。俺だって、家に帰りゃ、女房も子もあらあな。――見ねえ。あの波の荒れようを。渦を巻いて、湖水中が底の方から湧きかえっているじゃねえか。――この大将を助けてやりてえのは山々だが、ごらんの通り、できねえ話だ」

「(ひざまずいたまま)じゃ、俺はどうしても敵の手に落ちるのか。すぐ目の前に救いの岸が見えているのに、そら、あそこだ。目がとどくばかりか、声だって聞こえる。渡して貰える船もあるのに、俺はここにじっとして、助けもなく、途方にくれなけりゃならねえのか」

ねっ、ねっ、わかるでしょう、いいでしょう!?念のために言っておくが「型通り」というのは悪口ではない。よくできた「型通り」は、ぞくぞく人を興奮させる。

3 しかも、ここで型通りではなくなるのだよなあ

更にうまいと思うのは、「見ろ、誰か来たぞ」「ビュルグレンの猟師のテルだ」と言う猟師と羊飼いの台詞とともに、ここで主役のテルが登場するのだ。彼のシンボルである弓を手にして。

一同に事情を聞いた彼は、「なあ、船頭さん。せっぱつまれば何だって出来るもんだよ」「えれえ人間は、我が身のことは後回しだ。神様におすがりして、この男を救ってやれよ」「湖は情けを知っているかもしれねえが、代官の方はそうは行かねえ。船頭さん、一つやって見てくれよ」と漁夫を説得する。猟師と羊飼いも「助けてやれよ」と繰り返す。が、漁夫は「危なくねえ港から文句を言うのは何でもねえが、舟もある、湖もある、まあためしに、自分でやって見ねえ」「これがたとえ兄弟や可愛い餓鬼でも、できねえ相談だよ」と拒絶する。ついにテルは「時が迫っているんだ。この男は助けてやらなくちゃならねえ。船頭さん、どうだ、渡す気か」と強くせまり、漁夫は「駄目だ。俺はいやだ」と抵抗する。

おそらく、漁夫のこの声は悲鳴に近いに違いない。まったく、私たちの誰が、この漁夫を責められるだろう。彼の言うのはいちいちもっともなのである。こんなに四人がかりで迫られる理由なんて本当は彼にはない。ただ、舟がこげるというだけで、英雄になれと言われたのではたまらない。結局彼は舟を出さず、代わりにテルが決意する。

 「じゃしかたがねえ。舟をよこせ。細腕ながら、この俺がやって見る」

「細腕」はむろん、言葉のあやだ。「おまえも船頭の方じゃ親方だ。テルにやれることをおまえが出来ねえのか」と羊飼いに言われた漁夫が、さほどプライドを傷つけられた様子もなく、「俺より腕のいい船頭でも、テルの真似は出来めえよ」とあっさり、その実力を認めるテルの、身体はたくましく、腕は太く強かったはずだ。「命の親だ、神様だ」と感謝するバウムガルテンにテルは言う。

 「代官の手からは救ってやるが、嵐の手からは、神様次第だ。だが、おぬしも人間の手よりは神様のお手にかかった方がましだろう」。

そして、羊飼いに頼む。

 「俺にもしものことでもあったらな、女房に言って、よく慰めてやってくれ。のっぴきならねえ事をしたんだと、な」。

いやはや、これまた絵に描いたような「男」の姿だ。しかし、それも案外、歯が浮かないのは、一つにはこの場面のテルの位置が脇役めいているからではあるまいか。「正義の味方を助ける脇役」として、彼は登場するのであり、本来、その役だった漁夫は、ついに 舟を出さない。型通りで進めて来て、ここでそれが巧みにはずされる――テルをもっとも引き立てるかたちで。

しかも、この後、やって来た代官の家来たちに、漁夫ら三人は「人殺しを出せ。貴様達がかくしたんだろう」「たしかにこの道に逃げて来たんだ。隠しても無駄だぞ」と責められ、湖水の上の小舟を見つけられて「逃がしたのは貴様達だな。目にもの見せてくれるぞ。――― (部下に)こいつ等の家畜を襲撃せい。小屋を叩きつぶせ。焼き払え」と、財産を破壊されてしまうのだ。再び型通りの展開で、「舟を出す人」の運命が、あますところなく表現されているのである。

4 脇役的主役

テルのこのような登場の仕方は、偶然ではない。この劇全体を通じて、彼は、主人公としてはとても地味だし寡黙である。数えたわけではないが、台詞も登場人物の中では、かなり少ない方だろう。たとえば富裕な地主でありながら独立運動に参加するウェルナー(彼も「舟を出す人」的悩みを持っているが)の方が、はるかに長くしゃべっているし、華やかな役となると、青年貴族のルーデンツ、悲運の若者メルヒタアルなどの方がずっときらびやかに目立っている。

それなのに、テルはこの劇の中で、終始、圧倒的な存在感を持つ。それは、あるいは、本来は脇役の持つ魅力なのかも知れない。決して主役になどなりたくなかったし、「本当に頼りになるのは自分だけですよ」と、反乱計画の仲間にも加わらなかったのに、「正義の味方」バウムガルテンを、見るに見かねて救い、息子の頭の上の林檎を射よという無理難題をクリアし、否応なしに代官の最大の敵となって行く彼の魅力は、「主役にひっぱり出されてしまった脇役」のそれなのではあるまいか。

Twitter Facebook
カツジ猫