ゲスラーの帽子
ちなみに、もひとつ、テルの話につけくわえとくと、最近「古典は必要か、役に立つか」などという議論もあるようだが、んなこと言ってるからさ、橋下知事にしたい放題されたりするんだよ。
私の母は最初は彼のこと嫌いじゃなかったみたいだし、私も別にどうとも思ってなかったけどね、彼が卒業式だか入学式だかで、日の丸に起立しないとか君が代を歌わないとかいう先生たちを、口を開けてるか声を出してるかという段階までチェックして処罰しようというようなことをし始めてから、即座にろくなもんじゃないと見限ったし、それ以前に、そんな彼の行動や姿勢を、即刻非難も批判もしない、世間や識者やマスメディアに、あきれはてて、ついでにそっちも見限りたくなった。
しかし、何でまたそんなに私と皆さんの間の温度差があるんだろと不思議に思っていて気づいたのが、そもそも何かを掲げて、敬礼するかしないかで人を評価し断罪するなんて、絶対に正義の味方はしないことで、そんなことするやつは、問答無用で悪人じゃんという価値観だか常識だかを、私は子どものころから身に染みついて、たたきこまれてた。「ウィルヘルム・テル」の悪役、代官ゲスラーが、広場で自分の帽子を竿の先に立てておじぎをしない者を逮捕するというお触れを出したという話で。
「ウィルヘルム・テル」の作者シラーなんて、たしかヒトラーが好きだった作家で、別に左翼でもリベラルでもない。でも、そういうこと関係なく、古典の世界ではこうやって、神や民衆に愛される英雄や聖人、人がこの世で理想とし、目標として少しでも近づこうとするような人物が、絶対にしないこととすることが、自然に示され、それはひとりでに人類の常識になっていた。
橋下知事は子どもの時に「ウィルヘルム・テル」を読んだのだろうか。読んでいて、日の丸君が代チェックをしたのなら、むしろ私はその心境を知りたく思う。
人の上に立つ者はどうあるべきか。人間はどうあるべきか。
古典を読むということは、そういう趣味や感覚、確信や信念を古代から現代までの最大多数の人間と共有することだ。クラスや地域や職場や国の、狭く短い薄っぺらなはやりすたりに振り回されるのではなく。