吉野弘について、ちょこっとメモ
授業テキスト「情けあるおのこ」の冒頭に、吉野弘「夕焼け」の詩を引いている。
この詩や、ネットでよく引用される「祝婚歌」などの有名な作品を見ていると、作者は健全で明るくてほどよくて、まさに教科書や公式行事で安心して使えそうな作風である。
それだけに、ひとつまちがったら、鼻について平凡で俗っぽくさえ見えるかもしれない。
そこのあたりを確認したくて、この金のない時に、青土社「吉野弘全詩集」を買った。あと文庫本で作者のエッセイを二冊読んだ。
それだけの、うわっつらで荒削りな印象にすぎないが、ないよりましかもしれないという感じで、学生たちに伝えておきたい。
作者の詩も人柄も生き方も、全体を通して、とてもまっとうで誠実で力強い。社会正義や人類愛といった骨組みも、しっかりとその根底を支えている。
だが、当然だが、それだけの人ではない。部分的な引用をすると、
男が言いました。
空の奥に
小さな椅子が一列にあらわれ
遠くのほうへ消えていったと。(「幻・方法」より 「幻・方法」)
とか、
赤い水瓜の内側のような
夕焼け。
こんなに良く熟れる夏の一日もある。(「感傷旅行」より「熟れる一日」)
とか、
薄い透明なビニールの
大きな管が
道幅いっぱいにふくらみ
それ自身、新しい街道のように
畑の中をうねりつつ
遥か遠くまで延び
仄かに光り(「自然渋滞」より 「夢街道」)
とか、
病院の診察室で
あなたの好きな蟹を一匹買ったの
甲羅を持ち上げたら十本の足がゾロっと抜け落ちたの
医者と看護婦が卑しい顔して笑ったわ
あたし、泣きながら帰ってきた(「叙景」より「蟹の話」)
のような、不思議なイメージも生み出せるし、
かけらでおしまいになれないなんて。
それでおやすみできないなんて。
こわれるとすぐに
未来がふりあてられ
すぐに未来に引き渡されて
またすることがあるなんて。(「幻・方法」より 「冬の陽ざしの」)
とか、
海
唯一のこころみは
自分自身とまじり合うことだけか撹拌に倦んで
走るのか狂うのか
海(「叙景」より「海に」)
とか、
他人を励ますのは、気楽です
自分を励ますのが、大変なんです私は誰か、私は何か
知ってしまったあとだもの(「夢焼け」より 「ぬけぬけと自分を励ますまじめ歌」)
とか、独自の鋭い着眼点も多い。
また、作者の特徴の一つでもある、漢字や文字への興味に基づく言葉遊びの数々も、とても魅力的だ。
母は
舟の一族だろうか。
こころもち傾いているのは
どんな荷物を
積みすぎているせいか。(「北入曽」より「漢字喜遊曲」)
とか、
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたはどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようでー(「北入曽」より「過」)
とか。
更に、全体を引用して、いくつか紹介すると、よく知られている作品には見られない、暗さや鋭さもうかがえる。
日々を慰安が
吹き荒れる。慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が作る。
明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。慰安が笑い
ささやき
うたうとき
さみしい心の人が枯れる。枯れる。
なやみが枯れる。
ねがいが枯れる。
言葉が枯れる。
(「消息」より 「日々を慰安が」)
とか、
ふるさとの頬をこする
竹箒のような吹雪(「陽を浴びて」より 「スキンシップ」)
とか、
鼠が天井裏を走る
ーうるさいな、追い出せるといいが
ー殺鼠剤がありますわ
天井板を押し上げ、妻がピンクの錠剤をばらまく
数日たって天井が静になる
ーあいつら、どこで死ぬんだろう?
ー明るい所に出てきて死ぬそうよ
あの錠剤食べた鼠は、視野が狭くなって
そのあと、目が見えなくなるって……
ー視野が狭く?
ー暗がりで死んで腐ったりしないように
鼠を明るみに連れ出す錠剤なんですって最後の目にちらつく小さな薄明、そこへ
力をふり絞って、にじり寄ってゆくのは
鼠ではない
私だ
ピンクの錠剤と似たようなものを知らずに食べたあとの
私だ
誰かが私をうるさがっていたーきっと(自然渋滞」より 「明るい方へ」)
とか。
それから、「夕焼け」の詩に関して言うなら、エッセイの中でも電車内でのエチケットや出来事にふれているものが、かなりあって、作者には身近で刺激を受ける題材だったこともよくわかる。ネットなどでよく引用されている家族にふれたもの以上に、記事としては多いんじゃないだろうか。
最後に無駄話。この「全詩集」すごくいい本で助かって、よく作ってくれたと感謝する。でも、本当に全詩集なら、この一冊にすべてがまとまるほどに詩作が少ないのも逆にすごい。(私の買ったのは旧版で、その後いくつか補充されてるかもしれないが。)江戸時代の歌人みたく毎日数百首の歌を詠んだりされてた日には、検証するのもお手上げだもんな。ちなみに私の家族たちが残しまくった手紙や日記の膨大な量も似たようなもので、『才女の運命』に描かれた女性たちの記録や資料がほとんど残っていないのは、超残念な一方で、どこか救いのような気さえ、ちょっとする。