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「花咲かじいさん」ちょこっとメモ

この「協力者列伝」のコーナーで最初の方に書いた、以下の「花咲かじいさん」の話は、「情けあるおのこ」の本の中でも、大きな部分を占める。今回は、最近読んだ岩波の「図書」の中の論文で、ちょっと気になったことを追加メモ。

「花咲か爺さん」がいわんとしたこと

「図書」2019年1月号の三浦佑之「験す神」という論文。訪れて来て一夜の宿を乞うた旅人(実は神さま)に冷たく対応した富士山(これも神さまね)はその後雪に閉ざされ、親切にした筑波山は快適な、人の楽しめる山になった、という常陸国風土記の伝説の紹介から始まって、身をやつして訪れた人に親切にしたかどうかで、運命が分かれる昔話を考察している。

だいたいが、親切にしていい目を見る方の人をうらやんで、くやしがって、いったん邪険にした旅人に今度はむりやり親切にしようとして、こけまくる「最初は不親切だった人」の描写が強調されることが多い。

こういう善人のまねをして失敗する「隣の爺」とパターン化されて呼ばれる一群の話があって、「花咲か爺」も、その中に入っているらしい。

最初読んだとき、「花咲か爺」には、「験す神」は登場しないで、犬も臼ももともと善人の所有物だったんだから、ちょっと他の話とはちがうんじゃないか、殿様も最後に通りかかるだけだし、と思ったが、「うまく行った善人と同じことを真似して成果を得ようとする」隣人という点では、このジャンルに入るのだろう。

そして「情けあるおのこ」では、私は「追われています、助けて下さい!」と扉をたたく訪問者、というイメージを主にしていたが、一夜の宿を乞う「験す神」の場合でも、まあ雪の夜で食べ物もなかったら、泊めてもらえなければ死ぬかもしれないわけだし、切迫度は弱いにしても、同じ状況と言えなくもないということにも、気がついた。

特に気になったのは最後の結びで、三浦氏が指摘している、結局「験す神」のテストに合格して財産その他を得て幸福になった善人とは、今度はいやらしい金持ちになって、訪れた不幸な人を拒否するのではないかという予測だ。三浦氏は述べる。

それゆえに「隣の爺」譚は、じつは恐ろしい話でもあるのだ。座頭を泊めて裕福になった元貧乏な老夫婦は、金持ちになったその時からとても危険なところに置かれてしまう。言うまでもないが、かれらはもう貧乏ではないのであり、それはやさしさを捨てて意地悪でけちんぼな存在になったということに他ならない。しかし、昔話はその先の二人については語ろうとせず、そのかわりに金持ち夫婦の失敗を語ることに注力する。それを聴いていると、語られる金持ちはまるで、幸運を得た老夫婦の成れの果てかもしれないと思えてしまうのである。

「他ならない」は言いすぎじゃないかと思うが(笑)、私が考えたこともなかった、この発想というか想定は、私の「情けあるおのこ」の中の、いろんな点と重なってくる。「験す神」の評価を信じて安住するなら、たしかにこうなる可能性はある。だが、実際にそうはならない善人の元貧乏な老夫婦も私は、わりとたやすく想像できる。彼らはきっと、もらった財産を人に与えて、ずっと貧乏だろうとか、最初の金持ち夫婦とは別のタイプの金持ち夫婦になるだろうとか。

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カツジ猫