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発表資料(4)

(もう少し見やすく編集するかもしれませんが、とりあえずアップします。)

※資料の数がやや少ない印象を受けます。

かわはぎさん

「江戸時代の人は濡れ衣が好きなのか」についての考察

1、研究の目的と意義

 私たちが「濡れ衣」という言葉を聞くと、それに対して「濡れ衣を着せられた人は可哀想だ」や「濡れ衣を着せるなんて卑怯だ」という感情を抱くものの、それ以上に興味を持ったり、それを好ましいと思って沢山調べたりする人はなかなかいないと考える。そのような「濡れ衣」というものに対して、江戸時代の人はどのように感じていたのかについて、様々な資料からそれを探し出し、どうにか言及されている箇所を見つけて、今の人と比べて「濡れ衣」に対して抱くイメージに相違があるのかを考察していく。

 

2、考察

 はじめに、現代語での「濡れ衣」という言葉の意味を確認しておく。

 

【日本国語大辞典 第二版より】

ぬれぎぬ[濡衣]

①濡れた衣服。

②無実の浮き名。根も葉もないうわさ。

③無実の罪。

 

→今も昔も「濡れ衣」という言葉は、②③の意味から変化してないようだ。また、1603-1604年に書かれたとされている日葡辞書でもこのように書かれている。

 

Nureguinu(ヌレギヌ)。すなはち、ソラゴト

〈訳〉嘘。つまり虚偽の証言。

 

→このことから、江戸時代と現代との「濡れ衣」という語義の差は無いという事がわかる。

それでは、この「濡れ衣」について記述されている文献に手当たり次第当たっていく。

 

1)研究発表 大田南畝の読本観 ―芍薬亭長銀『板東奇聞濡衣双紙』から見る―(天野聡一)

(国際日本文学研究集会会議録 32号 15-34頁 2009-03-31 国文学研究資料館)

[概要]文化六(1809)年二月に多摩川を巡視していた大田南畝が、多摩川上流域の柴崎村で芍薬亭長根の『板東奇聞濡衣双紙』(文化三年刊)を読んだときの感想から始まる論文。その感想では、『濡衣双紙』の趣向とそれに基づく狙いについて賛同が見られる。そこで、長根が目指した方向性と結果としての独自性を明らかにした上で、それを手がかりに南畝の読本感を遡っていくという内容である。

→この『濡衣双紙』では、「無実の罪や浮名」という意味で用いられているのではなく、「濡衣の香」という一つのアイテムとして用いられているだけであるため、あまり「濡れ衣」自体が重要な話ではないため、江戸時代の人が「濡れ衣」を好きかどうかについては言及されなかった。

 

2)芍薬亭長根『坂東奇聞濡衣双紙』考:「通俗金翹伝」の利用法を中心に(天野聡一)

(国文論叢 41号 1-14頁 2009-03)

[概要](1)で考察した論文と同じ方の論文であり、今回は、『濡衣双紙』の典拠とされている『通俗金𧄍伝』や山東京伝の『復讐奇談安積沼』を比較対象とし、『濡衣双紙』という作品の特色を見出していくという内容である。

→(1)に同じ。

 

3)語り継がれる「濡れ衣」説話:博多における「濡れ衣」説話・続考(森誠子)

(九州大学国語国文学会 2011-12-26 語文研究 112巻 22-35頁)

[概要]博多における「濡れ衣」説話というものが『石堂丸行状記』や博多七堂建立譚などと交響しながら、ゆるやかな変容を見せつつ、現代に至るまで伝承されているということから、在地に基づいた「濡れ衣」説話が、博多においてどのように変容し、享受されてきたのかを考察したという内容である。また、本文が書かれるにあたって、森氏の別稿や大島由紀夫氏の論文などが併せて紹介されていたが、その本文が読めなかったため、この論文の読みをより深めることができなかった。

→博多のなかで「濡衣」についての説話が多く存在しているという事はわかったが、なぜ「濡衣」なのか、また、それについての江戸時代の人の反応についての記述を見る事は出来なかった。

 

3、まとめと今後の課題

本レポートでは、「濡れ衣」が江戸時代の人は好きなのかということについて考察を行ってきたが、それに関する記述はなかった。今回の反省として、江戸時代のなかでの「濡れ衣」について書かれているものが少なく、資料を十分に集めることができなかった。

今後の課題として、より多くの江戸時代の人の「濡れ衣」に関する評価や興味などが述べられた文献に当たって、本当に「江戸時代の人は濡衣が好きなのか」という問いに対する答えを見つけていけたらと思う。

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カツジ猫