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発表資料(7)

はまちさん

○源範頼という人物について

 授業を受け、源範頼に興味を持ったため今回のレポートで調べることにした。まず、範頼の基本的な情報について引用する。

 

 源義朝の子で頼朝の弟にあたる範頼は、蒲御厨で生まれた。母は、遠江国池田宿(現静岡県豊田町)の遊女である。都で後白河法皇の院別当をつとめていた高倉範孝に養育されたために「範頼」と名乗ったことが推測されており、また武蔵国吉見に住み、安楽寺で稚児をしていたともいわれるが、義経同様に、範頼の成長期の様子に関して詳しいことは分かっていない。(上杉,2007,p.135)

 

 このようにやはり範頼の幼少時代など、範頼の生涯について未だあまり詳しく分かっていないようである。しかし、範頼についてわかっている情報から、範頼の戦いの評価においては次のような意見がある。

 

 屋島での義経の華々しい活躍に比べた時、九州上陸を目指して一進一退を続ける範頼軍の様子は、いかにも「悪戦苦闘」の感をぬぐえない。そこから、苦戦する範頼に代えて頼朝が義経を戦線に投入したという理解が生まれてくるのであろう。だが、頼朝の指示通りの戦いを粘り強く続けた結果、地元の武士団の協力も得て瀬戸内海水運の拠点の一つである豊後をおさえ、知盛を彦島に釘付けして屋島との連携を断ち切り、義経の奇襲を成功に導いた範頼の戦果は十分に評価すべきである。(上杉,2007,p.220)

 

 範頼は頼朝の弟であるにも関わらず、同じ頼朝の弟である義経と異なってあまり注目されることは少ない。「悪戦苦闘」の地味さから日の目を見ることがなかったのだろう。確かに範頼は西国遠征・九州渡海の時など苦戦していた。しかし、「頼朝は一貫して範頼軍の軍事活動の進展による平氏軍の降伏を期待していたのである」(川合,2009,p.168)ともあるように、範頼の活躍に頼朝から大きな期待がかけられるだけの人物ではあったようである。また、上杉氏が述べているように範頼は頼朝に尽くした縁の下の力持ち的な存在であり、源氏勝利の影の立役者であるとも考えられ、評価に値するとても興味深い人物であることがわかった。

 

 上杉氏はさらに「範頼に対する評価の低さには、総じて範頼の動きの叙述に乏しい『平家物語』の責任もあろう」(上杉,2007,p.220)という面白い見解を述べている。確かに範頼の評価の低さには少なからず『平家物語』が関係しているのかもしれない。また、その理由の一つとして挙げられているのが、『平家物語』の以下の部分である。

 

 参河守範頼、やがて続いて攻め給はば、平家は滅ぶべかりしに、室、高砂にやすらひて、遊君、遊女共召し集め、遊び戯れてのみ月日を送られけり。東国の大名小名多しといへども、大将軍の下知に従ふ事なれば、力及ばず。ただ国の費え、民の煩ひのみあつて、今年も既に暮れにけり。(平家物語 巻第十 大嘗会之沙汰 最終閲覧11月18日)

http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/10/1501.html

 

 ここにおいて上杉氏は山陽道にて苦戦を続ける範頼の怠慢ぶりを表す『平家物語』に対して、「範頼がろくに戦いもせずに遊んでばかりいた、というのだが、かりに遊女を集めた宴が事実であったにせよ、意図的に範頼を酷評する『平家物語』の編者の意図は明らかであろう」(上杉,2007,p.220-221)と述べている。もちろん義経という存在の影響によってあまり範頼が輝かないという関係もあるだろうが、このように『平家物語』における範頼という人物の描かれ方も範頼の評価に繋がっているのであろう。

 

 ここまで範頼について調べたが、やはりまだわからないことも多く、さらに『平家物語』を読むだけでは範頼という人物について正確に知ることができない可能性があることもわかった。また、範頼という人物はわかっていないことが多く、影に隠れているからこそ知りたくなる魅力的な人物であると感じた。

 

○参考文献

・『戦争の日本史6 源平の争乱』上杉和彦著、吉川弘文館、2007年3月

・『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』川合康著、吉川弘文館、2009年11月

・平家物語 巻第十 大嘗会之沙汰 最終閲覧11月18日

http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/10/1501.html

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