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2019年「雨月物語」雑感

2019年後期の集中講義「国文学史」のレポート課題は、

「雨月物語の短編9つを読んで、好きな順位をつけ、その理由を述べる」でした。
原文を読まないで、現代語訳や映画やコミックを見てもいいけれど、関連する論文や原文を引用したり読んだりしていたら、それなりの評価はすることにしていました。

受講生は、それぞれにがんばってくれましたが、授業中の彼らのプレゼンを聞いている間に、私の方も、いろんなことを思い浮かべて、あらためて「雨月物語」について、確認したり興味がわいたりして、勉強になりました。
メモがわりに、書いておくことにします。

1.「吉備津の釜」「蛇性の婬」に登場する女主人公の霊につきそう侍女風の少女について誰か注目してくれないかなと思っていたが、そういう人はいなかった。論文や分析はあるのだろうか? 彼女たちは構成や表現上でも、ささやかだが効果的な役割を果たしている。
「源氏物語」の研究では、女君の女房についての考察が一ジャンルをなしている。秋成もそういう古典に影響を受けているのだろうが、この侍女たちは、どういう存在として意識されているのだろう?

2.あらためて全体を見ていると、それこそ中国文学の影響か、理路整然ときっちりした構成でまとまっている「雨月物語」の短編の多くが、ラストで若干意味不明になり、乱れている印象を受ける。「菊花の約」の左門の仇討ち、「浅茅が宿」の老人の手児奈の話、などが典型だが、問題点となり論文の材料となっているものが多い。これは作者が意識して明確な解釈や結論を避けているのか、それとも他の理由があるのか?

3.原話となった中国の作品をはじめ、民間でよく知られた道成寺伝説その他を、作者は利用し、読者が印象を重ねるように工夫している。しかし、中国古典も知っている教養深い読者でも、わりと普通の常識だけの一般人でも、「ああ、この話知ってる」「どうせきっと、こうなるんだろう」と無意識にでも意識的にでも予測して読んでいると、必ずしもその通りにならず、逆になったり、異なる展開や結末になったりする。
このように、読者に既知の作品を、いわばチラ見せしつつ、それなりの優越感を一時的に抱かせながら、その裏をかき、ちがう作品にするというのも、前期戯作の特徴であろうし、作者が読者に挑戦し、読者と戯れる楽しみを味わっているのかもしれない。

4.「雨月物語」の論文は近代文学なみに、個人的文学的な感想をまじえたものが多いが、それは前期戯作の特徴のひとつである、「不親切な、説明不足」(悪口ではない)によって、読者に解釈の幅を持たせることの結果である。登場人物の外見や内心の心理などを、ことさらのように触れないままにすることも多く、どのような読み方をしても「それは絶対にまちがいだ」とは言えない、あいまいさが常にある。左門や宗右衛門の外見は描写されず、真名子の真実の心境は告げられない。脇役めいた悪役ですら、理路整然と自分のよって立つ論理や哲学を披瀝する、馬琴の作品とは大違いだ。研究者も読者も、そこを楽しむし、そこに苦しめられる。

5.「世間妾形気」「春雨物語」など、秋成の他の作品は、「雨月物語」のような絶妙のバランスを保っていない。読者サービスの悪さ(悪口ではない)が生む解釈や鑑賞の多様さが効果的なのは、常に発展し変化しつづけた秋成の作風の通り道に一瞬生まれる、虹か水しぶきのようなものであったのか。彼自身がそのことをどの程度自覚し把握していたのだろうか。

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カツジ猫