2020年前期集中講義発表資料⑩
(発表資料が届いています。受講者は読んでおいて下さい。なお、明日中に届かない場合は発表ができない可能性がありますので、気をつけて下さい。)
私はぬれぎぬについて、「手品師」という読み物を取り上げて考える。
〇概要
「手品師」は小学校高学年の道徳教材として使用される読み物である。このテキストで子供たちに指導するにあたって多くの教材研究がなされ、これまで様々な議論が起こっている。
〇内容
あるところに腕はいいがあまり売れていない手品師がいて、いつか大劇場のステージに立つのを夢見て腕を磨いていた。ある日、手品師は町で父親が死に母親が働きに出て帰ってこないという寂しそうな顔の小さな男の子に出会う。手品師は男の子に手品を見て喜ばせ、明日も男の子に手品を見せることを約束する。その夜、手品師は友人から「明日大劇場で行われるステージに出演予定だったが急病で倒れた手品師の代役として出演しないか」という連絡を受ける。手品師は二度とないかもしれないチャンスを目の前にして迷うが、結局夢だった大劇場の出演を断り、自分を待っている少年に手品を見せに行くことに決める。翌日、手品師は男の子にすばらしい手品を演じた。
〇手品師の選択
大劇場のステージに立つことではなくたった1人の男の子に手品を見せることを選択した手品師の心情については様々な解釈ができるのだが、ぬれぎぬという視点で「手品師」というテキストを解釈したときに読み取れるのは手品師の自己犠牲の精神である。手品師は最大のチャンスで自分の夢よりも少年との約束を優先した。この「泣いた赤おに」や「花さき山」と同じような「自分も決して恵まれた状況にない者が、より弱い者のために自分の欲しいものをあきらめる」という自己犠牲の精神は「覚悟のぬれぎぬ」にあたるのではないかと考える。自己犠牲の精神はとても美しいと思うし物語を読んで感動もするのだが、私はいつもこのような話を読んだ時に助けられた側の人物の気持ちを考えてしまう。「手品師」のテキストでは自分のために手品師が夢をかなえるチャンスを捨てたことを男の子はおそらく知らないだろうと考える。しかし、例えば「泣いた赤おに」では「青おにが自分のために「覚悟のぬれぎぬ」を着た」ということを知って赤おには涙を流す。そこには感謝の気持ちもだけでなく、もう青おにと一緒にいられない悲しみや自分だけ幸せになって申し訳ないといった気持ちも含まれているのではないかと私は考えている。少なくとも私が赤おになら相手の幸せを奪ってまで幸せにはなれないし罪悪感すら感じてしまうだろうと思う。「手品師」の男の子も手品師が夢をあきらめてまで自分のところに来てくれることを本当に望んでいたのだろうか。私は手品師も男の子も幸せになる他の手段があったのではないかと考える。残酷な言い方をすると、このように「覚悟のぬれぎぬ」には着る側の自己満足という側面も少なからずある場合があるのではないかと私は考える。これらの「覚悟のぬれぎぬ」は私たちに「相手にとって本当に幸せなのは何かをよく考えて行動しなければならない」ということを気づかせてくれると考える。
【参考文献】
・第2章「道徳教育の教材」(7月7日閲覧、
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/9723/00000000/syougattkou2.pdf)