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2020年前期集中講義発表資料⑫

(発表資料⑫です。受講者は読んでおいて下さい。)

「濡れ衣と民主主義」

 

講義の最初に「濡れ衣」と言われて、私の頭に最初に思い浮かんだ小説が、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」である。中学生1年生のころに父親に借りて読んで以来、実に長いこと私の「個人的好きな小説ランキング1位」に君臨していた作品である。(のちに高校3年生の時に読んだ「教団X」に抜かれる)そこで今回の講義で学んだことを踏まえた上で、本作品を読み返して、「ぬれぎぬ」について考えたことを以下に述べていこうと思う。

 

映画化もされている有名な作品なので読んだことがある方も多いだろうが、念のため簡単なあらすじを記しておく。

 

元宅配業者の主人公・青柳雅春は数年前に暴漢に襲われていたアイドル・凛香を仕事中偶然にも助けたことで一躍時の人となった、地元では顔を知らない人がいない有名人。

そんな青柳は数年ぶりに大学時代の親友・森田に呼び出される。

なんだか様子がおかしい森田は、青柳に「お前、オズワルドにされるぞ」と告げる。

(オズワルド=ケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされた男。逮捕直後に射殺されたこと、犯行を否定していたこと、目撃証言があやふやなことなど様々な理由から、陰謀に巻き込まれた冤罪事件ではないかと言われている。)

なんのことか分からない青柳だったが、その直後に首相が、どこからともなく飛んできたドローンの爆発により暗殺され、なぜか警官が2人のところにやってくる。

「お前は逃げろ」と促された青柳はその場を逃げ出し乗っていた車を後にするが、車に残った森田は自動車ごと爆殺されてしまう。

その頃、街中では既に青柳の顔写真や映像がくり返し流され、首相暗殺犯として大々的に報道されていた。一切身に覚えのない青柳は、警察やマスコミを意のままに操作出来る大きな何かが、自分を犯人に仕立て上げようとしていることを思い知らされる。

青柳は様々な人々の力を借りて、逃走につぐ逃走を重ねていく??

 

この作品の魅力の一つとして、なぜか文体に「悲壮感」がない、という点が挙げられる。

「首相暗殺の冤罪の話」なんて、書く人が書けば絶望感に満ち満ちた内容になるはずである。

しかしなぜかそれがない。むしろ私が読んでいて感じたのは、逃亡を援助してくれる友人や味方のあたたかさや、独特な言い回しにあるユーモアである。

そしてもう一つの魅力が、話の本筋となる逃亡劇の疾走感とスリルである。

この2点が、当時私がこの作品に感じた大きな魅力であり、本作のテーマだと思っていた。

 

しかし、この考察発表の資料を書くにあたって数年ぶりに読み返してみると、当時感じた事とはまた違った印象を受けた。中学生だった私には理解できなかった、作家の「伝えたいこと」を感じ取ることができたように思う。

 

それは、「民意」の怖ろしさである。

 

あらすじにもあるように主人公の青柳は、アイドルを救ったことで地元では結構な有名人、まさしく皆のヒーローだった。

そんな男が一転、超弩級の犯罪者になる。話題性は抜群。マスコミは大騒ぎ。あちこちで無責任な目撃証言が行われ、みんなで寄ってたかって呪いの言葉をぶつけてくるのだ。

 

主人公の様な「ぬれぎぬ」をかけられた人に牙をむくのは、決して国家権力なんかではない。自分を正義と信じて疑わない、巨大に膨れ上がった民意だったのである。

 

実は伊坂作品にはこれ以外にも、膨れ上がった民意の怖さ、民衆の愚かさを暗示する作品が数多く存在する。例えば同作家の小説「魔王」は、「巧みな話術で民衆を扇動する犬養という政治家に主人公が立ち向かう」というストーリーなのだが、こっちはもっと直接的に作者の思想が描かれている。

 

つい先日、東京都で都知事選が行われたということもあって、個人的に選挙について考えたり調べたりしていた。そんな中でこの作品を読み返しているうちに、多数派を重んじる民主主義が「ぬれぎぬ」に騙されやすい、大変危険な仕組みのように思えてきた。

 

前回の考察発表で、メディアのフェイクニュースについて述べている人も多くいたように、今や情報の発信者にとって重要なのは真実などではなく、より多くの民衆に共有されることなのである。正規メディアすら、面白ければ平然と「ぬれぎぬ」を垂れ流す。

実際、SNSの「いいね」の数や「リツイート」の数が多いから正しい!と真顔で言い放つ人間は本当に多い。そういう人たちは、自分がぬれぎぬを拡散している可能性すら頭にない。

 

「みんなが言ってるから」「いいねを押しているから」「共有しているから」正しい。

この考え方は、民主主義の負の面そのものであると私は考える。

 

古代ギリシャの賢人・ソクラテスやプラトンは、はっきりと民主主義を嫌っていた。

また、イギリス元首相チャーチルは「民主主義は最悪の仕組みである。」と語った、そしてそれはこう続く。「ただし、今まで試された他のすべてを除いて。」と。

 

つまり民主主義とは「ベスト」ではなく、あくまで「ベター」でしかないのである。

そしてその良し悪しは、我々民衆にかかっている。

 

例えばヒトラー、スターリン、そしてトランプ。

独裁者と呼ばれる彼らの共通点は、民主主義に従って、民意に則った「普通選挙」で選出されたリーダーだということ。そしてその手法は、常に仮想敵、つまり誰かに「ぬれぎぬ」を着せることで、民衆の支持を得ていたのである。

ヒトラーが「ユダヤ人」にぬれぎぬを着せて迫害したように。

スターリンが「富農」にぬれぎぬを着せて迫害したように。

トランプが「メキシコ人」にぬれぎぬを着せて迫害したように。

 

本講義で学んできたように、「ぬれぎぬ」を取り扱う文学作品は数多く存在している。

私は最初、ぬれぎぬが多く登場するのは、読者にスリルを与えるためであったり、嗜虐心などの人間の暗い欲求を満たすためだと思っていた。もちろんその側面もあるだろう。

その一方で、「ぬれぎぬ」の文学はあくまでフィクションとして、娯楽として楽しむだけでなく、「もしかしたら現実に起こりうるのかもしれないと」と考え、自らの行動を省みることで、一つの「教訓」として学べるものなのかもしれない、と思った。

民主主義が当たり前に保証される現代日本に生きる私たちは、その仕組みを悪用する独裁者を生み出さないように、周囲の意見に流される「愚かな民衆の一部」ではなく、「独立した個人」として、より一層強く「ぬれぎぬ」に対して反発していくべきである。

 

【参考文献】

・「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎、2007、新潮文庫)

・「魔王」(伊坂幸太郎、2008、講談社文庫)

・「危険人物をリーダーに選ばないためにできること―ナルシストとソシオパスの見分け方」(ビル・エディ他、2020、プレジデント社)

 

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