2020年集中講義発表資料⑬
(発表資料が届いています。受講生は見ておいて下さい。)
国語科において「ぬれぎぬ」を学ぶ意義はあるのか
国語科の教科書教材に「ぬれぎぬ」は存在するのか。また、「ぬれぎぬ」をあえて取り扱う意義はあるのか。教科書教材の中で「ぬれぎぬ」が登場する作品を調べ、その位置づけから国語科において「ぬれぎぬ」を学ぶ意義を考えたい。
<小学校国語科教材>
4年生(光村図書)
『ごんぎつね』
→ごんはいたずらに来たという「ぬれぎぬ」を着せられ、兵十に撃たれてしまう
「ごん、おまいだったのか。いつも、栗をくれたのは」
<中学校国語科教材>
2年生(光村図書)
『アイスプラネット』
→ぐうちゃんは主人公の「ぼく」にアイスプラネットの話や大ナマズの話が嘘だという「ぬれぎぬ」を着せられてしまうが、「ぼく」は後にぐうちゃんの言ったことが本当だと知る
『走れメロス』
→全く無実のセリヌンティウスが、捕らえられて死刑のリスクを負うという見方によっては「ぬれぎぬ」
3年生(光村図書)
『高瀬舟』
→喜助は弟殺しという「ぬれぎぬ」を着せられる
(弟の命を奪ったことは事実だが、自殺を図り死にきれずに苦しんでいる弟に手を貸したため、弟殺しの罪人という世間からの目という観点からは「ぬれぎぬ」の要素を感じる)
「ぬれぎぬ」が段々と普遍的なものになっていく
『ないたあかおに』『ごんぎつね』→「ぬれぎぬ」のシーンこそがクライマックス
『アイスプラネット』→主人公の心情の変化の要因として
『走れメロス』『高瀬舟』→「ぬれぎぬ」は登場人物の一要素、一つの側面に過ぎない
人は発達の過程で「ぬれぎぬ」を覚えていく?
他の教科では「ぬれぎぬ」はあってはならない(例:社会科)
国語科で「ぬれぎぬ」を扱う意義とは、追体験により「ぬれぎぬ」との向き合い方を知ること。むしろ文学作品を取り扱う国語科でしか学べないものこそが「ぬれぎぬ」である。