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2020年前期集中講義発表資料⑰

(発表資料が届いています。皆さん、読んでおいて下さい。)

◯書誌情報

青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42971_24345.html(2020年7月10日閲覧)

底本:「坂口安吾全集 14」(筑摩書房、1999年6月20日)

初出:「群像 第九巻第七号」(1954年6月15日)

 

◯あらすじ

 

これはわずか11戸の家からなる小さな保久呂村で起こった話である。この村では村の先祖の天皇は誰の家であるか、という論争が起こっていた。そこに名乗り出たのは中平、三吉、久作の3人の男たち。中平はリンゴ園を営んでおり、部落一の金持ちであった。自分は村の一番高いところに住んでいるというのを理由に天皇家であることを主張していた。三吉は病に効くという村の共同湯の保久呂湯を経営していた。村の一番低いところにあるから、というのが天皇家である理由であった。久作はメートル法の久作という異名がついていた。以前シイタケの栽培に失敗し、村で一番貧乏な暮らしをしていた。5年程前から山を切り崩して石室を作っていた。11戸あるうちのちょうど真ん中に家があるとして天皇家であることを主張していたが、村人からは愚案であるとして相手にされなかった。

 

そんなある日事件は起こった。村一番の金持ちの中平が保久呂湯に入っているときに中平のシマの財布が盗難にあったのである。中には91万もの大金が入っていたため、中平は急いで犯人探しにとりかかった。村中の家を家宅捜索し、村を出入りする者たちの身体検査を行うも、財布と犯人は一向に見つからなかった。事件から40日以上経っても見つからず、いらだつ中平は当然のように三吉と久作を疑い始める。中平は年来2人と折り合いが悪かったからだ。三吉は中平の金を得れば村一番の金持ちになれる。しかしそれ以上にあやしいのは久作である。久作は事業に何度も失敗して貧乏しているし、5年も前から妙な石室を作っている。もしかしてこの石室の中に財布が塗り込められているのではないか、と考え、中平は村人を集めてこのことを伝え、村人たちも賛同する。

 

ある日子供たちが中平に頼まれて石室の山の土を崩し始めると、それを見た親が慌ててそれを止めた。

「たたられるぞ!このバカ!」

これを石室の中で聞いていた久作はこれこそが神の心、天皇の心であると得心がいった。

 

その後断食によって動けなくなった久作は村の駐在所に運ばれ手当てを受けることになる。その間に中平は村人に協力を仰ぎ石室を崩して盗みの証拠を探すが結局出てこなかった。代わりに穴中には久作の作った「保久呂天皇系図」が見つかった。村人たちは石室を壊した罪悪感と天皇への不敬から、手の平を返したように丁重な態度で久作を迎えた。しかし久作はその謝罪や挨拶に一切応えることなく数日後に自らの腹を鎌で裂いて絶命した。

 

◯考察

 

この物語における濡れ衣は、久作が中平の財布を盗んだとして村中から疑いの目をかけられたことである。しかし久作は自ら疑いを晴らそうとはしない。本文に「彼は濡れ衣の恥をそそいで中平の鼻をあかしてやることは簡単であると知っていた。」とあるように、弁明の余地があることを自覚しているが、それをやらない。なぜか?一つは5年もかけて作った石室を弁明のために崩すのは忍びないと思っているからである。もう一つは天皇の心を手に入れ、濡れ衣を着せられること自体が久作にとっては馬鹿馬鹿しいことだったからである。そこには一種の村人たちへの軽蔑があった。これは私の見解であるが、何も言わずに自殺した久作の最期を考えると、天皇である自分と俗の村人たちの交わりは無意味なものと考えていたとも取れるのではないだろうか。

 

本作品は坂口の天皇制に対する批判的な評価を含んだものである。村では貧乏人として粗末に扱ってきた久作が無実であったことを知り、天皇の家系図を見たとたんにそれまで疑っていた村人たちや中平までもが手の平返しで態度を改めている。これは天皇はほんの象徴であって形骸化した代替可能な存在だ、という坂口の批判意識が反映されているのではないだろうか。

 

私はこの作品においては濡れ衣を着せたり着せられたりすること自体に何らかの教訓めいたものや願いがある訳ではないと考える。濡れ衣は人々の心理を追い詰めるのに効果的な手段である。久作の濡れ衣を晴らすことは、天皇の血筋をひく久作にさんざんな扱いをしてきた村人を地獄に陥れる最も残酷な手段である。この残酷なやり方で人々に罪悪感を与え、最後には村人の謝罪に応えるでもなく、怒るでもなく何一つ言葉を残さずに自害した久作の最期に後味の悪さをもたらし、坂口の天皇制批判を見事に暗示している。

 

人は皆「善でありたい」という意識が深層心理に埋め込まれている。友人には優しい自分でありたいし、権力者には従順な自分でありたい。そんな日々無意識的な「善の強圧」を受けている私たちにとって濡れ衣はなんと爽快で都合の良い機会であろうか。作品を読む私たちは何も傷つくことなく、何も手を汚すことなく、人を非難し、優越感に浸れるのである。それは濡れ衣を着せる側はもちろん、着せられている側が最後に汚名を晴らしたり、濡れ衣を着せる者を逆に見下す密かな勝利感からも得られる。このように、濡れ衣作品は日々の強制された「善の意識」から解放し、非日常的な悪の体験の場を提供している。その意味で濡れ衣を取り扱った作品はどの時代においても求められ、人々の願望を実現する心の拠り所になっているのだと私は考える。

 

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