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2020年集中講義発表資料⑤

(第5日の発表資料⑤が届いています。すでに発表が終わったこれまでの分を①~④とします。
受講生の皆さん、読んでおいて下さい。)

森鴎外『高瀬舟』にみられる「覚悟のぬれぎぬ」

○書誌情報

『高瀬舟』は、映画や落語で演じられ、今日有名な作品である。作者森鴎外によって繊細で刺激的に描かれ、1916年(大正5年)1月「中央公論」にて発表された。江戸時代の随筆集「翁草」の中の「流人の話」をもとに描かれている。安楽死の是非を問うテーマである。

○あらすじ

京都の高瀬川を上下する高瀬舟は、徳川時代に京都の罪人を大阪へ送る舟であった。乗せられる罪人の中には勿論重い罪を犯した者もいたが、過半は思わぬ罪を犯してしまった者もいた。

白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政の時分、珍しい罪人が高瀬舟に乗せられていた。その男は喜助という三十歳くらいの住所不定の男であり、弟殺しの罪人としてこの舟に乗せられていた。喜助の護送を命じられた同心(京都町奉行所の配下)の羽田庄兵衛は、喜助の弟殺しの話を聞くこととなる。

喜助は幼い時に二親を時疫で亡くし、弟と二人で生きてきた。幸いにも、町内の人の御恵みもあり、飢え凍えなどをせずに暮らすことができた。去年の秋、弟と西陣の織場に入って空引き(空引き機(ばた)の略)をすることになったが、弟はそのうち病気になって働くことができなくなってしまった。そのこともあって、喜助が働きながら病気の弟の面倒を看る日々が続いていた。そんなある日、喜助が家に帰ると、弟は布団の上で血だらけになりながら突っ伏していた。弟に訳を聞くと、「どうせ治らない病気であるから、早く死んで喜助に楽をさせたいと思ったが、うまく剃刀で自殺をすることができずにいる。手を借して剃刀を抜いて殺してほしい。」ということだった。喜助は悩んだ末、剃刀の柄を引いて弟の自死に加勢する形となった。その場面を目撃され、いま高瀬舟に乗っているという話だった。

喜助の話を聞いた庄兵衛はこれが罪であるのか否か分からず、高瀬舟は黒い水の面をすべって行った。

○喜助の覚悟のぬれぎぬ

『高瀬舟』は、喜助が罪人であるという意見と、罪人でないという意見に分かれると考えるが私は後者の考えである。

結論から言うと、喜助のこの行動は覚悟のぬれぎぬであると考える。これは、あくまでも喜助の事を罪人でないと捉える立場に私が立っている上での話である。私は、「それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。」という庄兵衛の言葉から、これは罪ではないと考えた。

それを踏まえてみていく。傍から見ると喜助の弟殺しは罪であるだろう。その過程や至った経緯を周りの人は知る由もなく、喜助も庄兵衛に聞かれるまではおそらく弟の話をしていなかっただろう。「庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた」という文からも喜助が捕らえられたときに周りに何も話していないことが読み取れる。弟の剃刀を引くとき、喜助は弟のためを思っていたという話の流れの裏側には、喜助は実は罪に問われることを覚悟していたのではないかと私は思っている。自分が弟の死に加担することや弟を殺すことになることは事実であるという認識があったはずだからだ。罪人ではないのに、弟のために積極的に自らが罪を着て、それを誰にも知らせないという喜助の姿勢はまさに「覚悟のぬれぎぬ」であると考える。

○覚悟のぬれぎぬによる文学的効果

今回の『高瀬舟』にみられるような「覚悟のぬれぎぬ」は、文学的にどのような効果をもたらすのかを考えていくと、ぬれぎぬは基本的にハッピーエンドで終わることが多いが、今回の覚悟のぬれぎぬに関しては、バッドエンドが起こる可能性も十分持ち合わせているのではないかと考える。読み手は、覚悟のぬれぎぬを読み取ることで、ぬれぎぬを着た人物(今回は喜助のような人物)への見方がマイナスな印象からプラスな印象へ変わる効果があり、そのプラス印象が物語の結末の残酷さ、歯がゆさを反って強調する効果があるのではないかと考える。読み手は、実はこういう経緯が人物背景としてあると分かっているから応援のようなものをしたくなる、しかし物語が悪い方向へ進んでいくことで、読み手もそれに対して様々な解釈をしたり、先の展開を想像したり、意見が割れたりして、作品として奥深くなっていく効果があるのではないだろうか。そして、「覚悟のぬれぎぬ」は、私たちの物差しでは推し量ることができないような、簡単に表せないその人の強い覚悟を強調させる。それがハッピーエンドになるか否かに関わらず、その人物の覚悟を目の当たりにすることで、作品に臨場感がでたり、私たちが自分を振り返る機会を与えてくれたりする効果もあると考える。

今回の『高瀬舟』では、喜助を罪人でないと思う立場から「覚悟のぬれぎぬ」を述べたが、喜助は罪人であるか否かでこの論は分かれてくると考える。喜助を罪人だとしたら、それは罪であることが変わらないため、「覚悟のぬれぎぬ」とは言い難いと考える。しかし、そこに覚悟があったことは紛れもない事実である。『高瀬舟縁起』では森鴎外は「死に瀕ひんして苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイという。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。私にはそれがひどくおもしろい。こう思って私は「高瀬舟」という話を書いた。『中央公論』で公にしたのがそれである。」と述べている。医師の森鴎外だったからこそ安楽死をテーマとして「高瀬舟」を書けたのではないかと考える。喜助の「覚悟のぬれぎぬ」を通して、他の文学を読み、更にぬれぎぬに対しての考えを深めていこうと思った。

【参考文献・引用文献】

・森鴎外『高瀬舟』https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html

・森鴎外『高瀬舟縁起』https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/46234_22010.html

※今回は、感染症の影響のため、テキストは青空文庫を使用した。

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カツジ猫