2020年集中講義発表資料⑥
(発表資料⑥です。受講生の皆さんは読んでおいて下さい。)
今回、私が濡れ衣について考察する上で題材にしたいのは、近松門左衛門作『曾根崎心中』である。まず、登場人物について確認する。
○主な登場人物
・徳兵衛
・お初
・旦那さま(徳兵衛の叔父)
・姪っ子
・継母
・九平次
本作品は、有名な作品であるため、文学として読んだこと(見たこと)がある人もいると思うが、簡単にあらすじを説明する。
醤油問屋で働く徳兵衛は、天満屋に身を置くお初と恋愛関係にあった。二人は愛し合っていたが、徳兵衛の叔父である醤油屋の旦那は、持参金をつけてその姪と徳兵衛を結婚させようとする。徳兵衛はお初を愛しているために相手にしない。しかし継母が徳兵衛の了承を得ずして勝手に旦那から持参金を受け取ってしまう。このことを知った徳兵衛は旦那に訴えるが、旦那は腹を立て聞き入れない。旦那は「金を返さなければ大坂にいることは許さない」と伝える。徳兵衛は旦那に返すために、継母から持参金を取り返す。しかし、九平次という友人に「金を貸してほしい」と必死で頼まれ、四月三日の朝には返すという約束のもと徳兵衛は金を貸すのだが、期限を過ぎても連絡が取れない。そんな中、町衆とともに九平次が徳兵衛の前に現れる。「金を返せ」と迫るが、九平次は金を借りたことをなかったことにし「金なんか一銭も借りたことはない」としらばっくれる。徳兵衛は証文に押した判子を見せるが、九平次は「判子をなくした」と言い張り、徳兵衛が自分の判子を盗みゆすって自分から金を取る気だ、と罪を擦り付ける。さらに九平次は町内にそのことを言いふらす。九平次は天満屋にも訪れ、徳兵衛のことを悪く言いふらす。お初は九平次に言い返し、お初と徳兵衛は心中することを決める。そして、二人は曾根崎天神の森で心中する。(『日本文学全集』参考)
このような内容の作品であるが、九平次に金を返してもらえず、さらに判子を盗んで嘘の証文を作成し九平次から金を取ろうとしたとして濡れ衣を着せられる。ここでは、「予期せぬ濡れ衣」が描写されている。「よくもハメよったな。」というセリフがあることや、徳兵衛と九平次が兄弟のような関係であったことを考慮すると、徳兵衛にとって九平次に濡れ衣を着せられることは予想できなかったことであるため「予期せぬ濡れ衣」であると考察できる。最終的に自分の潔白を証明するために動き続けることを断念したことから「諦めの濡れ衣」と言ってもいいかもしれない。正直な感想として、とても気の毒だと思う。授業では、濡れ衣を着せられる人物を援助する人物が描かれることが多いという話だったが、本作品の場合、その援助する人物は誰だろうか。強いて言えば最後まで徳兵衛を信じたお初が援助する人物であろうが、そもそも本作品で徳兵衛は援助されているだろうか。「死」という結末で終わる本作品では、徳兵衛は完全に潔白であると言っても過言ではないにも拘らず、最後まで濡れ衣を着せられた徳兵衛の身の潔白が証明されることはない。
ここで新たな疑問が浮かぶ。本作品がハッピーエンドかアンハッピーエンドかということである。この疑問を前に「死」という結末からアンハッピーエンドであると考える人が大多数ではなかろうか。もちろん、徳兵衛の身の潔白が証明されずに終わるという点で、また「死」が最終的に描かれている点において、アンハッピーエンドと捉えられる。
ここまでの私の話で、「講義で習った「予期せぬ濡れ衣」の特徴と違う」と考えた人も多いと思う。本作品は「援助する人が明確に描かれていない」「徳兵衛は別の罪を犯していない」「ハッピーエンドでない」といった点で、ある意味「特殊な予期せぬ濡れ衣」を描いた作品である。他の多くの作品とこのような齟齬が生じるのは、描きたいテーマが違うからであると考察する。本作品において「心中を描く」ということ自体が本作品の目的であるなら(心中を描くことで徳兵衛とお初の愛の形を表現しようとしたなら)、この目標は達成されているのである。この点で作品全体として考えると、望まれた結末であるのではなかろうか。つまり、本作品において濡れ衣の描写は、二人の恋愛模様を最後まで描きぬくために必要だった。講義で取り上げられた作品は「登場人物が濡れ衣を着せられているという逆境から這い上がり幸せになる」ということに重きが置かれていた作品が多かったのではないか、と考える。このような点で、本作品では特殊な形で「予期せぬ濡れ衣」が描写されたのではないだろうか。
ここまで本作品を通して濡れ衣について述べてきたが、濡れ衣といっても一概にこれといった定義があるわけではなく、日常生活においても文学作品などにおいても、様々な形で起こるものであることがわかる。文学作品においては、本作品でもそうであったように「最終的に登場人物をどのように描いて終わるか」という点が重要で、それによって「予期せぬ濡れ衣」「覚悟の濡れ衣」「怒りの濡れ衣」さらにこの三者から細かく描き分けられるように感じた。様々な形で存在する濡れ衣。日常生活でも自分が濡れ衣を着せる、着せられることになりうる。日常生活でも私たちは広い視野で物事を見て、どこまでが自分の責任となるのか、ということを考えていかなければならない。
【参考文献】
・池澤夏樹『日本文学全集10』(2016年10月20日)
・板坂耀子『ぬれぎぬと文学2018』(花書院、2018年4月)