2021年「古典文学講義A」のレポート(10)
花咲か爺の歴史について
1.はじめに
「花咲爺」は五大御伽噺のひとつとして江戸時代の赤本等に載せられ広く民間に普及した昔話、いわゆる「隣の爺型」と呼ばれるお話です。
「花咲爺」にはいくつか種類があり、地方によって異なりますが、「上の爺下の爺」や「犬子話」「灰蒔き爺」「雁取爺」など様々なものが含まれ、現代の「花咲爺」とはかなり異なっています。
2.現代の「花咲爺」
まず、現代の花咲か爺さんのあらすじは次の通りです。今回はあらすじとして「まんが日本昔ばなし」で取り扱われているものを紹介します。
『ある所にやさしいお爺さんお婆さんと、欲張りな爺さん婆さんが隣同士で住んでいた。
ある日、やさしいお爺さんのところに小犬が逃げてきた。そのあとを欲張りな爺さんが、その犬は自分の畑を荒らしたと言って追いかけてきた。やさしいお爺さんは、隣のお爺さんに頭を下げて許しを請い、その小犬に「ポチ」という名を付けて飼うことにした。お爺さんとお婆さんに可愛がられてポチはぐんぐん大きくなった。
ある日、ポチが裏山で「ここ掘れワンワン!」と吠えるので、そこを掘ってみるとたくさん小判が出てきた。それを見ていた隣の欲張りお爺さんは、ポチを連れて裏山を掘るも、蛇や化け物がでてきたので、怒ってポチを殺してしまった。
悲しんだお爺さんは、裏山にポチの亡骸を埋め、そこに小さな木の墓標を立てた。するとその墓標がぐんぐん大きくなり、立派な木になった。やがてその木が「臼にしてくれ~」と言うので、木を切って臼にして餅をついたところ、餅が小判に変わった。隣の爺さん婆さんがそれを真似すると餅は泥団子に変わり、バチンバチンとはじけて顔を真っ黒にした。怒った欲張り爺さんは、臼を粉々にして竈で焼いてしまった。
やさしいお爺さんは悲しんで、その灰を集めて畑に播こうとすると、風が吹いて灰を吹き飛ばした。すると枯れた木が光り出して桜の花を咲かせた。喜んだお爺さんとお婆さんが、他の枯れ木にも灰をかけると、あたり一面桜が満開となった。その話を聞いた殿様がやって来て、お爺さんが見事枯れ木に桜の花を咲かせるのを見て喜び、お爺さんにたくさんの褒美を授けた。
それを見ていた隣の爺さんが真似をして枯れ木に灰を播くが、灰はそのままお殿様の頭にバッサリとかかり、怒ったお殿様に牢屋に入れられてしまった。』
(日本昔話データベースより引用)
3.「雁取爺」
柳田國男監修の日本昔話名彙では、次のような岩手県江刺群の「花咲爺」として伝わる話が取り上げられています。
『昔、奥州に善い爺と悪い爺とが隣どうしで住んでいた。二人は川に笯をかけておいた。上の爺(悪い爺)が朝早く行ってみると自分の笯には大が一匹、下の爺の笯には雑魚が入っていたので、中だけ取り替えて帰った。下の爺は行ってみると小犬がかかっているので捨って帰り、腕で食わせると腕だけ、鉢で食わせると鉢だけ大きくなった。
或日爺様と山へ鹿捕りに行き、犬の手柄で鹿を沢山捕って帰った。隣の爺は犬を借りて行ったが、鹿という所を蜂と言い達えたので沢山の蜂に刺されてしまった。爺は怒って犬を殺してこめの木の下に埋めて帰って来た。下の爺は犬を返してくれないので聞くと、殺してこめの木の下に埋めたというので、山へ行ってこめの木を伐り、臼につくって米や金を授かるようにと臼唄をうたいながら搗くと、本当に米や金が出て仕合わせに暮らせるようになった。隣の爺はその臼を借り婆と二人で揚いたが肝心の唄の文句を忘れて、間違った唄をうたったので汚いものが家の中に流れて来た。二人はそれを臼のせいだといって腹を立てて日を火にくべて焼いてしまった。下の爺は臼を焼いたと聞いて、せめてその灰だけでも貰って行こうと灰を持って来て、畑のそばの沼にいる雁めがけて
「雁の眠(まなこ)さあくはいれ、雁の眼さあくはいれ」
と言って投げつけると、唄の通り雁の眼の中に灰が入って、雁はころころと死んでしまった。婆と二人で願汁をこしらえて食べていると、また隣の爺が来て訳をきくので、灰を投げた話をすると、またその灰を分けて貰って帰った。そして風のつよい晩、屋根に上って空にむいて
「じんじ眼さあくはいれ、じんじ眼さあくはいれ」
と唄ったので、文句通り爺の眼に入り盲となって屋根からころころと転げ落ちた。下に待っていた婆は雁が落ちて来たと思って大きな槌で爺を打った。』
(日本昔話名彙P.143より引用)
4.昔話の話型と伝承
以上の二つの話を踏まえて「花咲爺」の歴史について考えていきます。
昔話にはそれぞれ「話型」と呼ばれるものがあり、日本の昔話の話型はほぼ750以上あるといわれています。「花咲爺」は初めに述べた通り、「隣の爺型」に当たる昔話です。
日本本土の昔話は周辺諸国からの伝播があったものの、増殖し、変容して現在に至っています。一方で、日本は南北に長い島国であるにもかかわらず、昔話は話型やモチーフが地域を超えてほとんど同じであるとされています。その理由としては、日本が農耕民族で成立していたと思われることと、たとえ他民族との交流があったとしても、島国として独立あるいは孤立して独自の文化を形成してきたことが挙げられます。
昔話は古くから仏教徒の結びつきがあり、平安末期に著された「今昔物語集」は仏教説話の形態をとり、その中にみられる話型は仏教の因果譚に重点があったため、仏教的色彩を脱すること、また仏教説話が庶民及び民間のものになるには長い時間を有したとされています。そのため、話型は「物語」として人々に語られる中で成長し、整理されて地方に広まったと考えられています。また、反対に地域に根差した昔話も多くみられますが、それらは「伝説」として定着したものと異なり、一度都市部の文化との交流の中で人々を納得させるものとして認められ、話型として整えられのち、伝播していったのではなないかとされている
(昔話の伝承世界P.175,183参考)
このことから、「花咲爺」は、はじめは同じ「隣の爺型」の中の「雁取り爺」が先行していたとされていましたが、中世末以降、観音信仰の普及とともに現在の一般的な「花を咲かせる」という結末に交替して、現代の「花咲爺」になったと考えられています。
(山形における<花咲か爺>の話型 : 昔話「赤いこん箱(屁ひり爺)」が提起する問題,山形大学大学院社会文化システム研究科紀要参考)
【参考文献】
・まんが日本昔話データベース,2021-11-12
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=21
・柳田國男監修,日本放送協会編,日本昔話名彙,日本放送出版協会,1943
・岩崎敏夫,柳田國男の分類による日本の昔話,角川書店,1977
・菊池仁,山形における<花咲か爺>の話型 : 昔話「赤いこん箱(屁ひり爺)」が提起する問題,山形大学大学院社会文化システム研究科紀要,6巻,2009-8-31