2023年度前期集中講義用掲示板(3)
目次
また長くなりすぎたので、こちらに移動します。
新しい記事はこちらに補充して行きますが、一応(1)(2)も見ておいて下さい。
プレゼンについて
1 6月10日に実施します。
2 一人7~10分をめやすにまとめて発表して下さい。時間オーバーは減点します。
3 資料の印刷は国語科の先生方にお願いしてありますので、必要な人はどなたにでも相談して下さい。なるべくご迷惑をかけないように。
4 板書の時間は発表時間にカウントします。時間が足らなくならないよう、注意して下さい。
5 他の人は各発表者のプレゼンを評価して当日のレポートとして提出して下さい。なお、 この評価でプレゼンの評価が変わることはありません。
6 不十分な出来だからと照れて悪ふざけした発表でウケ狙いをしないように。減点の対象となります。
7 プレゼンの発表資料と発表内容の要約を10日に紙で提出した人は、メールで提出する必要はありません。補充や追加をメールしてもかまいません。
8 紙資料やメールでの提出期限は6月30日24時。提出がなければ「不可」もしくは平常点を考慮した「可」となります。特に催促はしないので、忘れないよう注意して下さい。
(3については、配布した資料と若干変わっています。一応どの先生にも連絡していただいているはずですが、もしもまだご存じない先生がいらしたら、無理は言わないようにして、他の先生に頼んで下さい。)
6月3日のレポートの紹介
(「納得して処罰を受ける」ことについての共感や憧憬?が意外に多かったことが印象的でした。これについては、別にまた私の感想を書いています。配布資料ですが、一応リンクもしておきます。)
◯ぬれぎぬを機転をきかせて、自分のために利用する考え方は、公には良いこととは言えないが一つの手段として覚えておいても良いのではないかと思った。
◯「口を開いて何かを世界に伝えるのが誠実と愛情なのではないか」という主張に納得し、日本がテロリストをひたすら悪とする思考や感覚は私も単純かもしれないと感じた。
◯改心するのは勿論偉いことなのですが、一番偉いのは特になんの罪も犯さずに普通に暮らしてきた人なのではないかと思います。
◯処罰は、例えどのような正義のもとに行われたとしても、必ず負の感情が芽生えてしまうため、受ける側への配慮を怠った場合には復讐という大きな形でやり返されてしまう危険がある。これは学校においても同様で思春期真っ只中の学生たちが叱責や懲戒に対して「理不尽だ」と感じてしまって、教師の信用の失墜につながり、まともな指導が出来ず、反骨精神のもと非行に走ってしまうことが容易に想像できる。
◯オーウェルの「一九八四年」のような世界で生きたことはないから、あまり分からないが、昨今のコロナ禍にあっても、ただその社会に従い、しのぐ(乗り越えようとすることとは少し異なる)人間は、「人間らしい」と言える?と感じたりもした。
◯「われら」にあるように、これ(ディストピアにおけるロボトミー)が完了した後には当人は悔しさもなにも自覚することはなく、むしろ穏やかな幸福を、この悲劇を嘆くべき者が感じてしまうというのが救えない話だと思った。
◯処罰を認めるという行為には、自身への反省と改心の心が伴うことが多いのではないかと考えました。だからこそ、すがすがしさを感じることが多いのではないかと推測しました。
◯今となってはDVや虐待と問題になりそうであるが、私の父もバギイラのような人間であった。私は兄弟の中で一番多く平手打ちをされた自信があるほど、殴られた思い出がある。しかし、父はあくまで「躾」として平手打ちをするのであって、私自身も悪事をはたらいた後であったので制裁をくらうと、痛い反面、気持ちが安らぐ感情もあった。
◯私自身が問題を繰り返してきたからこそ、どうしても「環境の所為」としたくなり、やはり不幸が故の悪事等はある意味「救いの方法」になりうると考えています。ここから、「怒りのぬれぎぬ」は自身の「不幸」を受け入れて「救い」とする方法にもなりうるのではないか、と考えました。
6月3日の授業予定(あくまで予定。変更あり。)
第十一回
中間発表の希望者があれば、プレゼンを。
プレゼンの心得(資料配布)
一人7~10分をめやすに。
もっと少なくてもかまいません。
最終プレゼンで内容が変わってもかまいません。
もし、誰もいなかったり、時間が余ったりしたら、
テキストの105ページ以降を、あらためて、ていねいにやります。
第十二回
ひきつづき105ページ以下を朗読。
「納得して罰を受ける」幸福と危険について考える
補足1 「河連法眼館」の階段に注目
補足2 心理学用語での定義(ハロー効果、ロス効果、ゲイン効果)
大変適当にリンクしていますので、各自で再確認して下さい。
前回のレポートの紹介
(「怒りのぬれぎぬ」についての感想。皆さん、それぞれ深く鋭く分析していて、ちょっと圧倒されました。この分析や追求を大切にしていただいて、あれこれ考えつづけて下さい。他の人がこのような考えを抱いているのに関心や興味を感じた人もいるのではないかと思います。できたらちょこちょこ、そんなことも話題にしてみて下さい。急いでアップしていますので、誤字脱字などありましたら平にお許しを。)
◯私の実体験で「怒りのぬれぎぬ」になるかどうかは分からないが、友達とスーパーで買い物をしていてレジに行って会計を済ませた後、スーパーのマネージャーらしき人が立っていて、その人に「あなた盗みましたよね。バッグの中を確認させて下さい」と言われ私は盗んでいないのにも関わらず犯人扱いをされ、バッグの中を見せても、もちろん何も出てくることはなく、マネージャーがあやまるのかなと思ったら、「あなたが店内でバッグを開けるのが悪い」とひと言もあやまってきませんでした。(板坂記…これは「怒りのぬれぎぬ」よりも「予期せぬぬれぎぬ」でしょうが、個人的にはこのスーパーがどこか知りたいなあ。私なら二度とそこで買い物はしないし、「お客様の声」ポストでもあったら、投書します。こちらの実名もちゃんと書いて。)
◯濡れ衣をかけられるという状況は、理不尽で腹立たしい状況であると同時に、その不条理な状況に一種の楽しみや面白さを感じるというおかしな魅力があるように思える。
◯この「怒りのぬれぎぬ」を自身の想像できる範囲のものにおき換えるなら、「悪役の悲しき背景」の演出に似ているのではないかと感じた。主人公(ヒーロー、ヒロイン)に感情移入する際は、悪役をにくたらしく感じる。しかし、作品のなかで、「悪役の背景」が挿入されることで「悪役も苦しみの末の行為だった」「この人は仕方がなく悪事を起こすしかなかっただろう」といった気持ちになると推測する。その場合、悪事をはたらいたということから、その背景に焦点があてられ、読者(受けとり手)の印象は、ぼやけ、「後味がよくない」ものになるのでは?と考えた。
◯他のぬれぎぬの例と比べて「かわいそうだ」とは一ミリも感じなかった。(略)また簡単に起きてしまうため、安っぽいとも思う。これは『赤毛のアン』が良い例で直前までケンカしていた二人が、いとも簡単に仲直りをし、その後ピクニックへ行ったためひょうし抜けしてしまった。
◯私は怒りのぬれぎぬはあまり好きではない。怒りのぬれぎぬが発覚するのは同時にその人の打算的な面も発覚するということでもあるからだ。私は打算が見すかされるのは恥ずかしいと思うのでそれをさらすのが必然の怒りのぬれぎぬは私にとっては必ず失敗していることになる。自分の打算的な心と向き合うのも気分がよくないので私はなるだけぬれぎぬは着ないようよく弁明している。
◯「罪をかぶる」ことに対する楽しみということは多少の共感を覚えた。自分が一種の「試練」を受けているような感覚は私にとって忌避すべきものではなく、むしろ充足感すら与えてくれていると思う。基本的に他者に対して興味もないのでこうした自己満足の世界に共感してしまうのかと思う。
◯現時点で「怒りのぬれぎぬ」は最も人間らしい性格をもったぬれぎぬであると解釈している。「次郎物語」のように功名心や野心から、ついつい罪を被ってしまうという心理はなぜだか納得できる節があった。
◯作品名は思い出せないのだが、推理小説などでたまに出てくるトリックスター的な存在と、この怒りのぬれぎぬを着る者の存在には近いものがあるのかなとも考えた。
◯何かに反抗する際、真正面から立ち向かうのが理想だとは思うが、中々そうもいかないだろう。そのようなとき、悲劇のヒロインになりたがる人はやはり一定数いるような気がする。こうやって「人間は~」「人は~」と書く際に、自分のことを棚に上げ、自身がまるでそこには含まれないといった感じで俯瞰して書いてしまう(構造上どうしてもそうなるが)のが私はあまり好きではない。(もちろん自分も含む)であれば、「私たちは~」と書いた方が良いのだろうか。
◯「怒りのぬれぎぬ」と「覚悟のぬれぎぬ」の大きな違いは、ぬれぎぬをかぶった後にあるのだはないかと考えた。(略)この違いが生じる理由としてはぬれぎぬをかぶることに対しての覚悟の強さの違いなのではないかと感じた。ぬれぎぬをかぶることによって受ける周囲からの反応についてまで覚悟を決めていなかったからこそ、周囲の反応に怒りを覚えるのではないかと考えた。
「リア王」舞台いろいろ
ただし私、実はイアン・マッケランもアンソニー・ホプキンスも、あんまり好きじゃないのよね(笑)。日本の役者さんたちは、あまり知りません。
27日の授業予定(あくまで予定。変更あり。)
第九回 「義経千本桜」の説明(あらすじなど)
今回、他の資料が多いので、歌舞伎の朗読は省略するかもしれません。
第十回 作品紹介(「赤毛のアン」「次郎物語」)
作品朗読「赤毛のアン」「次郎物語」など。
レポート「納得できる処罰」について
えらく長いですが、参考までに。私の講演記録です。
レポート「怒りのぬれぎぬのイメージ」
この「ぬれぎぬ」は、他の二つに比べてわかりにくいと思います。
何となくわかるかどうか教えて下さい。
どっちかと言うと、こちらをメインに。
※お知らせ 次回から、最終プレゼンの中間発表をはじめます。
そろそろまとめにかかって下さい。
20日のレポートまとめ
(「人間らしい生き方」とは・「自己犠牲」の功罪とは)
いろいろ考えてくれている人が多いので、今回は長めに引用してみます。(引用部分は適当な抜粋です。すみません)
◯この物語(ないたあかおに)では明確な悪役がいませんが、助けられてばかりで物事の本質を見分けられない人間こそが悪なのではないかと、感じるようになりました。
◯歌舞伎の犠牲の話題では、松王丸の子どもは自分の死に誇りを持って死んでいったと私は考え、これも一概に悪いことだとは言えないと思った。
◯人間性とは、相反するような要素が多く混在する箱のようなものであると考える。そして場面によって選ばれる要素は異なり、選ばれた要素によって行動として外に表出されるものではないかと感じた。
◯「容疑者Xの献身」や「コードギアス」などにおいて登場人物は自分の大切なものを守るために行動している。その姿を美しいと思う一方で、やっぱり幸せになってほしかったとも思う。
◯特に日本教育においては自己犠牲は美徳であり、あるべきものとの認識があるのではないか。確かに一人の犠牲でその他に利益が出ることは効率の観点からすれば善とも言えるが、犠牲ありきでしか運用できないもの是とは個人的にできない。
◯私は「泣いた赤鬼」という話が大好きで、小学生のころから読むとうるっとくることが多かった気がする。ただ、不自然であるとも思う。わざわざ人のために自分が悪役になる必要があるだろうかと思ってしまう。自分が「青鬼」であれば、「実は演技でした~」と後々笑って話しそうなものである。
◯教科書にあった「人間らしい生き方」とは、おそらく道徳的な生き方という意味で使われているように思われる。そのため「覚悟のぬれぎぬ」が非道徳的であるという意味なのかもしれないと感じた。そのため、「人間らしい生き方」は道徳的な生き方と別物だと考える場合、私個人としては「覚悟のぬれぎぬ」はある意味人間らしいと感じた。
◯誰かを犠牲にしてその人を守るというのは私の価値観からするとやはりひどうものだと思う。ただ、状況的にどうしようもなくなっているということについては理解できる。その上で相手を殺すことができるかどうかという点で、価値観や倫理観に違いが生じているのかなとも考えた。
◯私の友人は、妊娠した子の相手役をやって、「子どもの父」として中絶に同意し、婦人科の先生から怒られていました。高校生のときの話ですが、こういう「ぬれぎぬ」はおそらく美徳とされないでしょう。
◯「自己犠牲」について、私自身美しいと思ってしまう節があるため何とも言えませんが、それらが強要されるようになると、(また、しなきゃいけないという空気が万円するようになると)途端に美しさが色褪せる気がします。私は割と自己犠牲しちゃうタイプかもしれません。
◯権力に屈するのも最後までゆずらず信念を貫くのも人間らしいと思える。逆に人間らしと思えないのは、局面を見て行動、言動を決めるような、俯瞰した態度だ。悪いということはないが、人間らしいというより神のように思えて感情移入し辛い。