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断捨離新世紀(2)

こんにゃく料理

否応なしの自炊生活

コロナ騒ぎで家にいることが多くなり、ジムにもずっと行けていない。せめて体重を少しでも増やさないために、きゅうりやヨーグルト、こんにゃくなどの消化によい料理をせっせと作って食べている。

ひんしゅくをかうのを承知で申し上げると、わが家の猫は刺し身が好きだが、白身しか食べず、だんだんそれが嵩じて、フクとカワハギしか食べなくなった。私自身はサバとか、こってりした赤身の魚が好きなのに、これは悲しい。しかもフクなんて高いから、ちょっぴりしかパックにはりついてない。下手するとほとんど全部を猫にとられる。

内田百閒の有名な猫小説「ノラや」の飼い猫は上等のガンジー牛乳を飲んでいたし、ロマン・ギャリの小説「白い犬」でも飼い猫にぜいたくをさせる良心の痛みが書かれていたし、まあこういうことは皆さまに目をつぶってもらうとして、ただ、しょうもない困ったことは、パックにサービスでつけてある、酢醤油が毎回余ってしまうことだった。刻んだきゅうりとかつおぶしだの、冷奴などにかけて使っていても、なかなか減らないで、大幅にたまって行く。捨ててしまえばいいのだが、それも何だかもったいない。

ふと気がついて、酢豚か酢鶏でも作ればいいのではと、野菜や肉を適当に放りこみ、これまた適当に味付けをして、たまった酢醤油を次々に封を切って入れていたら、まあそこそこの料理はでき、パックも次第に減って行った。
そうすると、野菜といっしょに煮物にしていたこんにゃくが、おのずと余りがちになり、もうそれだけで、ただざくざくと切って、かつぶしなどといっしょに煮て食べることも多くなった。
 そんな時に使うのが、薄緑と茶色の、実に何の変哲もなく、ひたすら野暮ったいどんぶり茶碗である。

あまりにも平凡で

田舎の家にあった湯のみや食器は茶碗蒸しの器や、大ぶりな湯のみや、すきやき用の取皿など、それなりにレトロで面白くて使ってもらえそうなものは、知人友人親戚にもらってもらった。しかし、なぜか一個だけしかないこの器は、一番平凡で泥臭くて、何の特徴もなく、私自身が使うにしても、胸がときめく要素が何もなかった。昔、田舎の家で使われていた記憶も残っておらず、なつかしささえもない。もちろん、ひっくり返してみても、銘など入っているはずもない。テレビの鑑定番組に出すまでもなく、ひと目見て、何の価値も魅力もないことがわかりすぎる。
だから、かえって処分しかねた。どこかに寄付しても、きっと即捨てられるか、生ゴミ入れとかならまだいい方の、ろくでもない使い方をされるのが、あまりにも目に見えていたし、実際そういうこと以外に何も似合いそうにない器だった。貧しい農民の家を描く映画やドラマの小道具としてなら、出番はあったかもしれない。

いったい、どういう経由で田舎のわが家に来たのだろう。一個だけというのも考えれば変で、以前は仲間がいたのだろうか。不安定だから猫の食器というわけにも行かなかったろう。何度かでも誰かの食事に使ってもらったことはあるのだろうか。そんなことを考えて、いつもながめていた。

果物を入れても、チョコレートを入れても、その他何か思いがけないものを入れて、ミスマッチの魅力をねらっても、どうもこの器だけは活きそうになかった。実際にやって見なくても、それは見当がついた。
 叔母が遺した贅沢な食器の数々はもちろん、田舎の家で使っていた、古めかしい花模様のパン皿や、古風なラーメンどんぶりなどは、どこか面白みがあったし、物語が感じられたし、何かのはずみには、ふるいつきたくなるような魅力を発揮した。
 たとえば、十枚近く残っていた、縁に紺色の筋が入っただけの小ぶりな皿は、少々欠けていてさえも、どこか品があり、一度使い出すと何だかうっとりして、やめられなくなる潔いたたずまいを持っていた。

似合うんじゃない?

そういう敬意や愛情を、何も払われないような、本当に卑俗で、どんなイメージも喚起しない、無防備っちゃあ無防備で、無表情っちゃあ無表情なこの器を何かのはずみに私はうっかり、使わない皿や食器を入れている棚から、台所の棚に移動させてしまった。何かを入れて持ってくるのに使ったのだと思う。戻しておかなければと思いつつ、ついそのままにしていた。

こんにゃく料理を作った時に、これを入れたら似合うかもしれないと思って、手近にあったその器に盛ってみた。
 そうしたら、本当に意外といけた。しいたけとかつぶしとこんにゃくを煮ただけの、カロリーゼロの手抜き料理が、どうしてかちょっとだけ、妙においしそうに見えたりした。横におにぎりと漬物でもおいたら、もっといい感じになりそうだった。
 私は、わけもなく吹き出して一人で笑いながら、変に幸せな気分でそれを食べた。

それ以来、こんにゃくを料理すると、この器に盛るのが習慣になった。サラダではだめだと思う。豚汁でもどうかと思う。山椒や三つ葉を散らしてきれいにしたら、やっぱり何かがこわれそうだ。何の工夫も洒落っ気もなく、とことん手抜きで芸のない料理でないと、この器の魅力は引き出せない。
 どうやらこうして、この器は、末永く私の食器戸棚の中で、私一人の食事のために活躍することになりそうである。

つけ加えておくと、その後わが家の猫は、刺し身にあまり執着しなくなり、チュールやドライフードの方をどうかすると好むようになって来た。また冬になると、酢豚などでなくても鍋物でいくらでも酢醤油は消費できることに気づいた。そんなこんなで、酢醤油のパックの使用先に苦慮することもなくなった。
 結局、猫の贅沢と酢醤油パックのおかげで、ひとつの器の運命がよい方に定まったということになるのかもしれない。(2021.1.19.)

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カツジ猫