断捨離新世紀(20)赤いスリッパと紫のカーテン
(20)赤いスリッパと紫のカーテン
父の日にちなんで、昔から田舎の家のどこかにあった布袋さまを、窓辺に飾っている。足先が欠けているので、怪しげなフェルトのスリッパを作ってはかせている。
布袋様は外の道路に向かって、大きく手を上げて破顔一笑している。妙に得意そうで幸福そうだ。あんなお粗末なスリッパで、こんなに喜んでくれてるのかと思うと申し訳ない。
太って丸い頭の布袋様は、祖父に似ていないこともない。祖父は村医者で、最晩年はいつ医療ミスで訴えられるかと、家族でひやひやしていたほど、老化したのに手術などしていた。ガンの画期的な治療薬を発見したとかするとか言って、大学生の私にハガキで、記事が読みたいからと週刊誌を買ってくれとハガキをよこしたりもしていた。誇大妄想も気宇壮大もいいところだが、八十近くなってまだ、江戸紀行の研究をもうちょっとまとめようかとあせっている私も似たようなものだと、このごろ変につくづく思う。
実は私の大学院の卒業論文は、福岡の儒者貝原益軒に関するものだ。彼はあまり知られていないが、芭蕉と同時代に江戸紀行の基礎を築いたと言っていい紀行作家で、膨大な作品群を残している。しかしもちろん、それは彼にとっての余技で、地方の藩儒でありながら全国の水準でも第一人者だった朱子学の方面での業績が一番すごい。
その一方で藩の仕事にも携わり、「黒田家譜」と「筑前国続風土記」という、いわば藩を時代と空間から総括した、今でもバリバリ出版されてる大著を残し、また「養生訓」を初めとした多くの庶民への教訓書を、「私は才能がなくて専門の学問は大したことがないので、世の中に生まれて生かしてもらっているお礼に、せめて誰も書かないような一般向きの本を書く」などと、あんたにそんなこと言われたらこっちはどうするんだと誰もが困るようなへりくだり方で、これまた山ほど公開したのだから、恐れ入る。
ちなみに益軒というと「女大学」も有名で、女性差別のイメージが強いが、あれはそもそも彼が「和俗童子訓」の中の一節で「教女子書」を記した(当時は女子の教育について言及した人などいなかったのだから、これ自体がすでに女性を尊重している)のを、のちの人がわかりやすくダイジェストしたもので、益軒の原文では、かなりニュアンスがちがう。
話せば長くなるけれど、益軒は誰にでも「すぐれたあなたが耐えて遠慮すればうまくいくのだから、周囲のバカに対しては、あきらめて、あなたが自分を変えるしかない」(めちゃくちゃざっくりしたまとめ)みたいな、今でも誰かが言いそうな処世術を男女も自他も問わずモットーにしていた人で、だから女性に対しても、あなたが自分を愚かと思って遠慮しときなさいみたいなことばかり書くのだが、別に女性が愚かとか劣っているとか決めつけてはいない。そういうことは、むしろ絶対しない人だ。
ただ、それを凝縮して省略してダイジェストすれば「女大学」のような内容になるというのも、これまた確かで、だから私は学生にこのことを話すたびに、「ダイジェストではなく、絶対にもとの文章を読むように」「ダイジェストされて骨格だけ残されても誤解されないような文章を書くように」と、書き手読み手の双方が気をつけなければならないことを、口をすっぱくしてくり返している。
本業(だか何だか)の朱子学では、彼は八十超えてから、「大疑録」というそれこそ質量ともに大著を著しており、しかもこれは朱子学の根本にある「理」と「気」の問題について、本来の朱子学では「理」の方が重要とされて来たのを、陽明学やらその他やらがしばしば言うように「気」の方も大切ではないか(めちゃくちゃざっくりしたまとめ)と述べた、朱子学上でも必ずと言っていいほど取り上げられるほど影響も波紋も大きく、現代でも注目される。朱子学の当時の第一人者が、これほど根本的な疑問を示したという点で。
そして、教訓書のときと同様、彼はこの書の序文で「私は不勉強で頭も悪いから、長年ずっとこの問題を考えて来たのだが、どうしてもわからないから、恥をしのんで、その疑問を公開して、すぐれた皆さんに答えを教えていただきたい」と、あんたがそれ言ったら誰が何を言えるんだと誰もがひるむしかないレトリックで、しかもこれまた例によって、しらみつぶしの掃討作戦みたいな資料と論理で、理と気に対する朱子学上の大問題への「疑問」を展開するのである。
こんな姿勢や発言は、益軒の本心であることはまちがいないのだが、だからなおのこと、ほとほといやらしい人だと思う。もちろんそこが魅力でもある。だいたい、自分がそれによって大成してきた根本理論を八十超えて、疑ったりひっくり返したり、それをまとめて公開できるようなパワーと知力とエネルギーとは、いったい何なのであろうか。
何はさておき、私としては八十になっても、ああいうことができるんだからな、と二十代のころに身にしみてしまった記憶がある。それからも意識下でずっと、「益軒だって八十であんなのが書けるんだからさ」と心の支えで安心して、怠ける口実にしていた。
それが、気がつけば、今もう七十七歳。まるでもう、いよいよ、あとがない。「九十になっても、あんなものが書けるんだから」と人に頼りにされるような研究者をめざすしかないかもしれないが、そもそもそこまで生きられるかも怪しい。
どう考えても(あたりまえだが)益軒よりは祖父に近いと実感している今日このごろだ。
祖父の話に戻るけれど、彼は田舎の古い家に増築した離れの小さな一室を自分のささやかな書斎にしていて、室内に大きなデスクはあったけれど(今は私が台所に置いて使っている)、日当たりのいい廊下の古い籐製の机と椅子で、よく本を読んだり居眠りしたりしていた。廊下の掃き出し窓には昔のことだから、味気ない白っぽいカーテンがかかっていた。
私はそのころ住んでいたアパートの部屋を、安っぽいインテリアで飾り立てており、カーテンも明るい紫の生地を買って、裾飾りに真紅のポンポンのついた派手なレースを縫い付けていた。
何度目かの引っ越しで荷物を整理し、そのカーテンを田舎の実家に持って帰ってどこかに放り込んでいたら、祖父がそれを見つけ出し、帰省していた私に手伝わせて、自分の離れの廊下にそれをかけさせた。多分、老衰して入院するまで、ずっとそれを使っていた。
祖父は私とけんかもしたが、めちゃくちゃかわいがってくれていたし、私も祖父がとても好きだった。しかし思えばまるで男の親子のように、細かいことを話したりすることはほとんどなかった。そのカーテンをつける時も、祖父は別に何も言わなかったし、私も何も考えなかった。今になってつくづく思うのは、私の雑な手仕事の、あの派手なカーテンを祖父はよっぽど気に入っていたのだ。多分、私と同様に、あの華やかなやわらかく明るい紫と、鮮やかにすそで揺れていた真っ赤な玉つきのレースが、とても好きで、部屋が楽しくなると思い、それを見ながら読書やうたたねをしたかったのだ。
籐製の机も椅子も壊れて今は残っていない。紫のカーテンもどこに行ったかわからない。私の記憶の中だけに残るそれらを思い出すにつけ、祖父と私は、妙に趣味が合ったのだなあ、実は。インテリアも、毎日の過ごし方も。そんなことをしみじみ思う。
そして、他の地味な色ではなく、真っ赤なフェルトを選んで作った私のお粗末な手製スリッパを、大いに自慢して喜んでいるかのような布袋様をながめていると、なるほど祖父と同じ趣味で心境なのかもしれないなあと、これまたちょっと申し訳ないような安心するような何とも言えない気持ちになる。