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(11)色あせた猫たち

前にも書いたが、田舎の古い台所を私はわりと早い段階でリフォームし、母が暮らしやすいようにしたのだが、母は結局、そこにこたつやテレビを集めて、ごみ屋敷にしていた。犬も猫もいっしょにそこで生活していて、目もあてられないありさまだった。
隣の土地に新しい家を建てて、母をそこで暮らさせるようにして、再度台所を改修して、人が泊まれる小部屋に変えた。多分その前の段階だっただろう、壁の一角に、かわいい猫の絵葉書や写真が、何枚も並べてはってあった。

母の散らかした空間を何とか少しでも見られるようにしようと、私がはったような気もする。それを見た母が、自分も何枚か足したのかもしれない。全部私という気はしないが、全部母のようでもない。今となっては記憶がない。
第二次の改修で、そこの壁も手を入れなくてはならなくなった時、写真はすでに古びて色あせていた。どこにでも、いくらでもある、猫のカードや絵葉書だが、どの猫たちの顔も姿態もかわいかった。母は面食いなので、何となく、これは母が選んだものかという気もした。

とりあえず、私はそのへんに貼ってあったものも含めて、その猫たちのハガキやカードを、すべてはずして、箱か袋かに放りこんだ。そのままずっと放っていて、片づけようとするたびに、捨てるかどうしようか迷っては、また元に戻していた。

片づかないときに、こうやって保留分に入れてしまい、けっこう膨大に残ってしまうのが、私の場合は封筒、便箋、絵葉書、カードだ。何度か人にまとめてあげたり寄付したりもしたが、これはあげたら失礼だろうと思う古いものばかりが、結果としては残って行く。
気の置けない友だちなどに、時々わざとそういう古臭いハガキを使って出してみたり、伝言メモがわりに使ったりするが、なかなか減らない。わりと珍しい展覧会のハガキなどでもそうだから、こんな、どってことない猫のハガキ、それも色あせた上に、ピンの穴まであちこちにあるものなど、どう考えても使い道はない。
それでも、古い家の壁を最後までつつましく飾り、母のごみ屋敷風の暮らしをともにしていた彼らを、何となく捨てられず、私は紙ばさみのすみに押しこんでいた。

ある時にふと、新しい家の台所の、猫が出入りする一角の壁に空間があるのに気づいた。
ここは調理台の前なので、実際には汚れることはないものの、あまり大事な絵などを置くのは見た目にも好もしくない。かと言って、しょうもないものを飾ったら、それはそれで、あまりにもしょぼくさく安っぽくなる。
さしあたり、よく行く店で適当に買った、鉄製の鳥のオブジェをつけていた。そんなに珍しいものでもないが、そのありふれたような特別なような案配が私としては気に入っていたし、叔母の家の冷蔵庫にくっついていた、製薬会社からもらったらしい(叔母は女医だった)これまた安っぽいマグネットをいくつかくっつけておくと、色合いも悪くなかった。
その周りの壁が空いている。ここに、かの色あせた猫のカードの一群をべたべたとくっつければ、母の家のごみ屋敷的雰囲気が、切り取られて再現されるのも、面白くて悪くないのではないかいな。

つくづく私はこうやって、それなりにきれいな空間の中に、異質で異様な世界を、きちんと管理したかたちで作り出すのが好きだと思う。整然と統一のとれた世界を、壊して、汚すのに快感や安心感を感じるし、それに飲みこまれないでいる緊張感を味わうのがやめられないのだと実感する。
というわけで、くだんの猫たちの写真をすべて、そこに、ごちゃごちゃと貼ってみた。

自己満足を承知で言うが、なかなかの出来だった。ここでもし、きれいな新しい同じような絵柄のハガキをはったら、それこそ俗悪で見られたものではないだろう。汚れて色あせ、すりきれてピンの穴があいてるからこそ、何とも言えない風雅さが生まれる。
そして、新築後五年がたって、そろそろ散らかりかけている台所を、いかにもなつかしく、なごませてくれる。母のいた、ごみ屋敷のようにする気はない。だが、母のいたごみ屋敷も忘れたくはない。そんな私の心にかなう。

ありふれたハガキの、ありふれた猫たちは、どれも本当にかわいい。それにしても、何度見直しても、私がはったか母がはったか、いつからあったか、まったく思い出せないのが、自分で唖然とするほどだ。
はがす時に急いだし、貼る時もむぞうさだったので、裏に何か書いてあるのか見てもいなかった。何か手がかりがあるかと思って、さっき裏返してみたら、どれも空白の新品だったが、ただ一枚だけ、私が一九九三年の母の誕生日にプレゼントにくっつけたカードがわりのハガキがあった。

では、もしかしたら母は、そのカードがわりのハガキを適当にそのまま、近くの壁にはったのかもしれない。それをきっかけに、同じような猫の写真をはって行ったのかもしれない。
だが、あるいは、私自身が母のぐしゃぐしゃに重ねた手紙や書類の中から、自分の出したカードを見つけて、やれやれと思いながら壁にはったのだったかしれない。
いっさい、何も思い出さない。

母は淋しがったり恐がったりするのとは、およそ無縁の人だった。一人暮らしを勇敢に、そして平気で楽しんでいた。それでも、いよいよの晩年は私に田舎の家に帰って、いっしょに住んでほしそうだった。私はそれを無視するしかなかったし、そのことに後悔もない。だが、周囲には家もなく、遠い鉄道の汽笛と川の水音しか聞こえない長い夜に、このハガキを貼った壁の前で、テレビを見て食事をして、猫のノミをとって、母が過ごした時間をあらためて思う。そこにただよっていた空気を、母の匂いを、開き直りの潔さを、孤独さと自由さを、今の私のこの家の空気にまぜあわせたいと願う。そのことに、ある幸せを感じている。(2017.6.17.)

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カツジ猫