(101)シジフォスのカード箱
シジフォスは、ギリシャ神話に出てくるコリントかどこかの王様で、神々をだました罰として大きな石を山上に運び上げたら、すぐまた転げ落ちて、それを永遠にくり返さねばならない罰を受けている。たしか、ナチスが収容所でこれと同様、石をどこかに移動させてはまた戻す無意味な労働を囚人にさせたら、その虚しさに死んでしまう人も多かったと聞いたこともある。
しかし、ボーヴォワールが「第二の性」で、女性の家事はすべて同じことをくり返して何の蓄積も生まないのがむなしいのだということを指摘していたぐらいだから、女性だったら主婦だったら、こんな労働に精神的に消耗する度合いは低かったのじゃあるまいか。
二十年近く田舎の家や叔母のマンションの荷物を片づけ続けて来て、最近何とかめどがつき、足の踏み場もなかった自分の家も、どうにか人を呼べる程度にはすっきりして来た。いよいよこれで暇ができて自分の勉強に打ち込めるかと思っていたら、それがなかなかそうならない。
ローマや大英帝国じゃないが、支配する植民地が多いと、それだけ統治も手間がかかる。何とかどうにか片づいて、居心地のいい場所が多くなった私の家だが、そうなると、その状況を維持しつづけて、快適な空間を楽しむのに、毎日そこそこ時間を費やすることになる。
最初はそれに気づかなかった。次第に何だかおかしいと思いはじめた。六時や七時に起きて動き始めても、朝食にありつけるのが昼近くなる。下手すりゃ昼すぎる。
何にそんなに時間をとっているんだろうと、考えてもよくわからない。ただただもう、あっという間に時間が過ぎてしまうのだ。起きてトイレに行く。血圧を測る。ベッドを整える。服を着替える。猫にえさをやる。新聞を取り入れる。それを読む。神棚や祭壇(マリアとキリストを飾ってある)や母の位牌に手を合わせ、水を替える。鉢植えに水をやる。歯を磨き顔を洗う。時には掃除機をかける。猫のトイレの砂をきれいにする。庭に水をまく。目についた草をむしる。除草剤をまく。洗濯をする。上の家に行って、そこの二匹の猫のトイレをきれいにし、水を替え、ドライフードとかんづめのえさをやる。毛布を汚していたら取り替える。仏壇に線香をあげ、水を替える。二階に上がって窓を開ける。時には掃除機をかける。洗濯物を干す。パソコンを立ち上げメールをチェックする。時には猫にブラシをかける。週に二度はごみをまとめて出す。シャワーを浴びる。
これだけやると、二時間近くかかってしまうのだが、まあそれでも何とか九時や十時台ではある。だが、その合間に疲れてしまって、時々座って休憩する。これがまた、なまじ家が片づいてきているから、二階に上がると窓からのながめが美しくて風がおいしかったり、仏間では窓から朝日がさして、家族や猫や犬の写真が輝いていたり、居間のテーブルに飾ったユリやジンジャーの香りが本でぎっしりの棚の間にただよっていたり、そのどこにも居心地のいいソファや椅子やクッションや、読みさしの本があるからたまらない。庭には新しい花が咲き、蝶が飛んだりコオロギが走ったり、面白いものがたくさんある。ついちょっと座って本のページをめくったり、外の景色をながめたり、猫をからかったりしてしまう。
そうやって、あちこちの快適なスポットでうっかり居心地をたしかめているのも、実は必要な仕事ではあって、クッションが足りないとか、明るさが足りないとか、修正すべき点を見つけておくことも大切だから、いちがいに否定はできないところも弱い。
そんなこんなで、たちまち昼過ぎ。食事をすませてジムに行き、買い物をして帰るともう夕方になったりする。集中して読書や執筆に打ちこめる時間が、どう工夫しても確保できない。特に前日に夜ふかしして疲れていると、休憩時間が多くなったり長くなったり、時にはしばらく寝てしまったりすることもある。
このほとんどが、シジフォスの仕事のように、蓄積ができない。次の日はまた同じことをしなければならない。
しかも私は昔から、規則正しい日常を嫌う。「ジャッカルの日」の映画を見たとき、暗殺者の狙撃犯が、対象の人物の毎日をじっくり調べて、行動パターンを把握する作業に十分な時間をかけるのを見たとき、自分は暗殺者泣かせだろうなと、しみじみ思った。電車に乗る場所も使う階段も散歩に出る時間も、何一つ定まったものがない。あえて多分、定めようとしていない。別に暗殺者じゃなくても、他人に自分の行動パターンを見抜かれるっていうのがいやなのだ。それで自分のことを誰かに少しでも知った気になられることが不愉快なのだ。特に理由があるわけでもなく。
誰に見られているわけではないが、前にあげた、些末な朝の作業のすべても、絶対に順序を決めて流そうとは考えない。まあ、もしかしたら心の底のどこかでは、最高に合理的でこれしかない順序を見つけようと思って模索している、今がその途中なのかもしれない、ということにしといてもいいが、言ってて自分でも、きっと嘘だろうと思う。
ただ最近ではさすがに老化現象か認知症の前触れか昔からこうだったのか知らないが、このやり方に限界だか実害だかが出て来始めた。あまりにもランダムに作業をするものだから、何をやったかやらなかったか忘れてわからなくなることがあるのだ。
思いついたり気が向いたりしたままに、衝動的に発作的に行動するのはものすごく私にとってリフレッシュになり、気持ちがよくて生きてる実感がわく。きざな若者や小娘が突然海に行きたいとか行ってバイクで走り出すのと似ているかもしれない。規則正しい団体生活なんかさせられた日には、あっという間に花がしおれて枯れるように身体も心も退化して、早々に死にそうな気さえする。だからこそ、犯罪を犯して刑務所に行ったり、身体をこわして療養所に入ったり、戦時下の統制生活になったりしないように、全力で努力しなければという防衛本能も発達する。
しかし、それだけに、あれ今日は朝の光がきれいだから、先に水まきをしようとしたんだっけとか、起きてすぐ神棚の水を替えたっけまだだっけと、時々混乱しそうになる。そうすると気分がこわれてリズムが崩れ、変に休憩時間が伸びたり多くなったりする。
そういう、いきなりフランスに行こうと思って旅立つような精神や生活態度を、老後に向けて改善し、規則正しい団体生活の訓練をしておく必要もあるかとも思ったが、それよりまた、これで遊んでみようかと考えるのが私の救いのないところだ。
荷物を片づけている中に、昔かわいいから買ってそのまま使っていない、名刺ぐらいの小さな花もようのカードが少しあった。それとはまた別に肩書や住所が変更になるたびに作り直して余ってしまった名刺そのものも、母に作ってやっていたきれいな色の名刺の残りもあった。
人気漫画の島耕作は、課長になった時に係長時代の名刺をうれしそうにゴミ箱に捨てていたなあ、サラリーマンってそうなんだろうななどと思いつつ、そういう名刺をどれも私は捨ててなかった。
これに、毎朝することになっている、しないわけにはいかない、しょうもない仕事を一枚にひとつずつ書いて、移動させてチェックしておけば、すませたかどうかの間違いはないし、変に中途で達成感を持ってしまって、休憩をしすぎたり長引かせたりすることもなくなりそうな気がした。その、移動させる入れ物が何かないかと考えたら、候補が二つ思い浮かんだ。
一つは母の葬儀のあとで香典返しを選んだとき、何人かにさしあげて、自分も試しに一つ買ってみた、木製の小さい整理箱で、台所のテーブルにのせたまま、適当に読書用のしおりなどを突っこんでいた。もうひとつは、ずっと昔にカルチャーセンターの受講生だった奥さまが、作ってプレゼントして下さった、バラの模様が刻まれた素敵な小物入れで、その方がもう亡くなられたこともあって大切にしていたが、いまひとつ使いみちが決まらずに、二階の本棚のすみに、ずっと置いたままにしていたものだ。探しに行くともう長いことそのままにしていたので、見つからないであわてたが、まもなくちゃんと、書物の陰に隠れていたのを発見した。
行きつけのお店で、花束につけるメッセージカードも少しわけていただいて、まずはもののためしに、近くの文具店で買ったカードの何枚かに、「朝食」「夕食」「水まき」「洗濯」「血圧」「歯磨き、洗面」「仏壇」「祭壇」「位牌」「猫ケア」「新聞」「入浴」「買い物」「ジム」などと書きこみ、仕事用には「ブログ」「紀行」「断捨離」「全集」などと毎日の仕事を書きこんで、二つの箱に入れてみた。どちらをどう使い分けようかと考えながら最初は試していたのだが、次第に香典返しの整理箱はこれまで通りに台所のデスクにおいて、家事用のカード、バラの箱の方はパソコンのそばにおいて、仕事用のカードを入れるようになった。
整理箱の方に目的にばっちりの仕切りがあるのは知っていたが、バラ模様の箱の方もあらためて見ると、ちょうどカードの出し入れによい大きさの仕切りがきちんとついていて、まるで、このために作ってもらったような使い勝手のよさだった。
それからかれこれ一週間、新しもの好きの物珍しさもあるのだろうが、それだけではなく、このシステムはなかなかうまく機能している。仕事の合間にカードに目を通しては、終わったものをつまんで、別の仕切りに移動させておくだけの話だが、何をしたか忘れないだけでなく、途中経過の確認や進み具合のチェックにもなり、達成感とやる気もそこそこ生み出してくれる。何より、大切にしていたが、どう使っていいか決められずにいたバラの模様の手彫りの箱が、パソコン横の雑然とした書類の山の中で優雅な存在感を発揮して、目を楽しませてくれているのが、下さった奥さまのご好意にもやっと応えられたようで、なんだか毎日むしょうに嬉しい。いやーもう、仕事、はげまないとなあ。