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(13)一人の誕生日

(誕生日・家族の歴史・サプライズ)

無視される祖父

祖父は自分の誕生日を祝いたがった。ことあるごとに「自分は家長」といばりたがった祖父としては、それは家の秩序やけじめを守る、ひとつの基準だったのかもしれない。昔は中国で大きな病院の院長だったし、晩年も村医者として一応田舎の名士だった。それにふさわしい扱いを家族に求めたのも当然ではある。もちろん、自分以外の家族、祖母や母や私の誕生日を祝うなどということは、祖父の眼中にはなかった。それも、その時代としては特にふしぎなことではなかった。

祖母は昔ながらの大和撫子として、祖父に従順だったが、私がものごころつく頃からは、それも少々怪しくなっており、母もまた、いろんな事情はあったのだろうが、祖父には反抗的だった。もともと母は祖父のお気に入りでかわいがられていたらしいが、祖母に同情して祖父に敵対したらしい。祖母と母は祖父にはかなり意地悪で、誕生祝いも祖父が望んでいるのを知りながら、なかなかしてやろうとしなかったし、しぶしぶごちそうを作っても、決して楽しい団らんの場などは作らなかった。
私は小さい子どもとして、三人の誰からもかわいがられていた。というよりも、もともと、それぞれに愛情深い三人が、何がどうしてそうなったか、三つどもえに不仲な家族になった結果、心おきなく愛情を注げるのが孫であり娘である私だけになっていたということもあるのだろう。私は三人それぞれに大好きだったが、この何だか不毛な対立にはいつも知らないふりをしていた。

私が成長し、大学に行って家を離れてからまもなく、祖父が亡くなり、ついで祖母も亡くなった。私は祖父の誕生日に、赤いチェックのマフラーを送ったことがある。祖父は大喜びで「俺は誕生日のプレゼントというものを初めてもらった」と言って、家じゅうマフラーを持って回っていたそうだ。「あれだけうれしがるのだから、たまには何か送ってやるといいよ」と、母は手紙に書いてきた。それから間もなく祖父は入院してしまったので、プレゼントはたしかその一回か、せいぜい二三回だったろう。祖母にいたっては私は誕生日さえ知らないままだった。

家族の歴史も改ざんされる

祖父母が亡くなって、母と二人になってから、私はわりといつも母に誕生日のプレゼントやカードを送っていた。母の方はくれたことはない。私がまだ小さいとき、子どもの日か誕生日か忘れたが、母の恒例のお祝いは、二階の広い座敷に行って、あおむけに寝て、足の上に私をのせて、ヒコーキヒコーキと言って宙に持ちあげてくれることだった。それが母の贈り物で、私は大いに満足していた。
大学に行き、就職してからは、いつからか母は私の誕生日には毎晩電話をかけてきて、「ハッピーバースデイトゥーユー」と大声で歌うのをプレゼント代わりにしていた。それもまた、私は充分満足していた。それを聞かねばならないから、誕生日には私は外出したことがない。

母が高齢になり、いろんな意味で弱気になったなと感じることが多くなった一つは、あれほど対立していた祖父のことを「お人よしで誰にも親切だった」などとほめ出し、それはその通りだからいいとして、「したいように生きて幸福な一生だった」と、その人生を楽しい明るいものに美化する、私に言わせれば歴史のねつ造をしたがるようになったことで、それが私には許せなかった。何年目かに何十回目かのその話を母がくり返したとき、私は「おじいちゃんは、あなたに冷たくされて、口もきいてもらえずに、どんなに孤独で淋しい思いをしていたことか、私はずっと見てきたから、よく知っている。あなたがそうしたことを悪いとは思わないが、今になっておじいちゃんが幸福な一生を送ったとか絶対に話を作らないでほしい。おじいちゃんはいい人だったけど、自分の責任もあったとはいえ、あんなに不幸でかわいそうな人はいなかった。二度と私にそんな嘘は聞かせないで」と母に言った。「そうだったかね」と母は言い、「そうよ」と私は言い切って、それきり母は私に祖父の話をしなくなった。さすがにそこまではぼけていなかったのだろう。

更に高齢になって次第に判断力が鈍ると、母は私の誕生日も忘れるようになり、バースデーソングを電話で歌って来ることもなくなった。ある忙しくて死にそうなのに予定をやりくりして田舎の母の家に帰った日、くたびれてあまり話し相手にもならない私に母は不満そうで、自分の話をしきりに聞かせようとした。私は気のないあいづちを打ちながら、冷ややかな気持ちで、その日が私の誕生日であることを、母に告げないままでいた。母は別に認知症になることはなく、九十八歳で死ぬ前日まで、私と話は通じていたが、その私が索漠とした思いで過ごした誕生日以来、もう二度と、私の誕生日を思い出すことはなかった。

サプライズは危険

母が私の誕生日を覚えていなくなってからは、私は自分でそれなりに誕生日を祝うようになった。毎年何かしたはずだが、これがふしぎと思い出せない。祖父や母のことを思うと、こだわったらろくなことがないという気がして、あまり力を入れないようにしようと、自分でセーヴしているからかもしれない。ぼやっと、気軽に、いいかげんに、買いたかったものを買ったり、見たかった映画を見たり、楽しいことをいろいろするぐらいで、ただ漠然と幸福な感じが、ふわふわと積み重なる甘い雪のように残っている。

知り合いが送ってくれる誕生日のカードやプレゼント、いろんな行きつけの店のサービス券も、ありがたくいただくが、時にはひどい経験もある。ある年、知り合いの一人が突然奮発して大きな盛り花を送ってくれたのだが、その夜私はちょっとぜいたくな食事に出かけて映画でも見る予定でいたのに、花を届ける宅急便の人が遅くなって、夜にしか持って来られなかった。明日にしてと断る度胸がなくて、家でずっと待っていたが、外出する予定だったから、冷蔵庫には食べるものも飲むものもなく、ようやく来た配達の人も悲しいぐらいに疲れていて、へとへとで、とても気の毒で、せいぜいねぎらって花を受けとって一安心はしたものの、もう外出するには遅すぎて、何も食べずに水を飲んで寝た。
あれは人生始まって以来最低の誕生日だった。だからまあ、印象には残っているのだが、あらためてつくづく、思う、誕生日は絶対にこれといって印象に残らない方がいい。
せめて得た教訓は二つ。教訓その一、サプライズで花やケーキや生ものなんか絶対送るものじゃない。教訓その二、少々後味が悪くなると思っても、そういうこっちの都合を考えないお祝いは、情け容赦なく「明日にして」と言って、枯れようと腐ろうとしなびようと気にしないのが、絶対に以後の両者の関係にはいい。

黒い犬を買う

この黒い小さい犬のぬいぐるみは、私が一人で誕生日を祝いはじめて何回目かに、博多のキャナルシティ―の一階にあった、お洒落な雑貨の店で買ったものだ。「一人で誕生日祝いする記念に買うのよ」と私が言うと、スマートな店員さんは、何だかコメントに困ったようなあいまいな表情をして、あら悪かったと気の毒に思ったので、つい記憶に残っている。私はその店で、ブリキの大きな水差しや、フランス製とやらの網目のシーツや、銀色のメタリックな電気スタンドや、小さくなった石鹸をまとめて入れて使う網や洗濯ひもや、ずいぶんいろいろなものを買った。しかも今も皆重宝してフル活用している。だが、お店自体は何年か前に閉店してしまった。店じまいのセールで私は青と白のストライプの布を張った、かわいいデッキチェアを買った。女性オーナーは店を閉めなくてはならなくなったことが、何だかとても無念そうだった。最近キャナルシティ―にもめったに行かなくなったのは、あの店がなくなったからかもしれない。

ちぢれっ毛の、ふわふわの犬のぬいぐるみは、その店で買った他の商品とちがって、あまり活用する機会もなく、漠然と玄関の下駄箱の上に置いていた。買ってまもなく気がついたのだが、一方の耳が折れないではねあがっていて、押さえてもそのままで、欠陥商品かなと思ったが、目印になるからいいかとも思っていた。
その後、田舎の家の荷物を引き上げるとき、もともとは叔母の家にあった、深海魚のようなかたちの大きな電気スタンドを、自分の今の家に運んで来て、ベッドのそばにすえつけたとき、ずっしりした大理石の台の上にある、わずかな場所に、何か置くものがほしくなった。
叔父と叔母は、マンションの食堂にこのライトを置いていて、その台の上には、小さなサボテンの鉢をのせていた。叔母の死後、家にあったものを、人にやるにしろ自分で使うにしろ、絶対にひとつ残らず無事に守るとひそかに決意していた私は、そのサボテンをうっかり枯らしてしまい、身も世もない思いをしたものだ。ショックでそれ以後、そこには何も置かずにいた。しかも、今度のベッドのそばは、狭い通路で、しょっちゅう行き来する場所なので、落ちてこわれそうなものは置けない。
それで思いついて、黒犬のぬいぐるみをのせてみた。果たしてときどき落っこちかけるが、やわらかい軽い布だからまったく心配ない。最近は私も慣れてきて、めったに落とさなくなった。身体をくねらせて狭い空間を通る、老化防止のトレーニングにはいいかもしれない。

そして、ひょっと気がつくと、いつの間にか犬の耳は、左右きちんとたれていて、どっちがおかしかったのかさえ、今はもう区別がつかないのだった。
あらためて、きちんと見ると、片手に乗る大きさの全体の形も、目も鼻もまっ黒で地毛と区別がつかない顔も、なかなかにかわいい。
やわらかなすべすべの手ざわりはまったくちがうが、黒光りして、ほこりもよせつけないようなその丸っこい姿とぶっとい脚は、私が枯らしてしまった叔父の小さなサボテンに、少し似ていないこともない。(2017.6.18.)

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カツジ猫