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(134)有機的な展開

風が吹いたら桶屋がもうかる

私だけかもしれないが、その逆に片づけとはすべてそんなものかもしれないが、変に有機的かつ連鎖的に、ものごとが発展して行くものだ。大学時代以来の友人で、私同様わりと大きめの家に一人暮らしをしている女性は、家を散らかし過ぎていて、エアコンの修理に業者を呼べず、暑さのためにその部屋の片づけができず、そのために…という救いのない状況の中で悶絶していると(少しちがったかもしれないが、おおむねこんなふうな話)電話で話していた。

例によって叔母の死後に私が引き取った品々の中に、叔父が使っていたらしい、たくさんのループタイが残っていた。ものすごい量のネクタイもあって、これは人にさしあげたのだが、ループタイはどれもきれいでかわいくて、私が使えそうな気もしたので、何となく取っておいた。中には木彫りや陶器の能面やお多福の立派なものもあり、私は正月に壁にかけて飾ったりしていた。

その他のものも使いたかったが、やっぱりできればシャツやブラウスにつけたい。ところが私はどちらもほとんど持っていなかった。
まだ若いころ、叔母があまりに高価で使い勝手の悪い、クリーニング代も高くつく服をいろいろ買ってくれるので、私は一計を案じて「白いブラウスの上等のがほしい」と珍しく自分から要求してみた。すると叔母はめちゃくちゃ張り切って、胸元にも袖口にも豪華なレースのフリルがいっぱいついた、日常ではとても着られない白やピンクのブラウスを次々買ってくれ、私の作戦はみごとに失敗した。それは結局大半を人にあげたのだが、叔母はついでに自分もはまったらしく、遺品の中にも同じような立派なブラウスがいろいろあって、ちょっとなつかしかった。

かちゃかちゃが気になって

そういうわけで、ループタイが何とか滑稽にならずにさりげなくつけられるような、普通のシャツやブラウスを少し買おうと探してみたが、ふだん買わないものなので、店も見つからず勘も働かない。何度か失敗したあとで、博多駅のアミュプラザの中にあるTシャツやブラウスを売る店で、まあまあしっかりしていて値段も安い半袖シャツの気に入ったのを、やっと数枚買った。
だが結局、あまり活用できなかった。私は買うと安心するので、しばらくそのままにしていたというのもあるが、実際に使ってみると、そのころ私は何だかベルトにはまっていて、なじみのお店で買った何本ものベルトを、とっかえひっかえいつもつけていた、その金具に、ループタイの先の金属や木の留め金がぶつかって、かちゃかちゃ鳴るのが気にさわった。

私は鈍感な部分と神経質な部分が我ながら入り混じっていて、子どものころ、「目の前に水玉が見える」と怒って、洗顔のたびに何度もしつこく母たちから顔をふいてもらっていた記憶がある。自分で顔を洗ってなかった、ものすごく幼いころにそうだったのかと思うと、扱いにくい子どもだったろうなと自覚するが、今でも実際にその時目の前にちらついていた薄緑か灰色のしゃぼん玉のように大きないくつもの水玉のようなもののかたちを思い出せるぐらいだ。

だから、そのかちゃかちゃも我慢できなかった。マイブームというやつの流行りすたりも激しくて、何がきっかけということもなく、私は今ではベルトをまったくしなくなっている。だがそのころは、男性サラリーマンなみに、ベルトをしないと外出する気になれなかった。したがって、シャツブラウスとループタイの使用計画も、ついそのままになってしまった。
それにしても叔父は、もしくはループタイを愛用する男性は大抵ベルトはしっかり締めているのだろうに、誰もあのかちゃかちゃは気にならないのかしら。それとも何か音をさせない方法でもあるのかしら。

それ以後、次第に洋服も整理して、人にもらっていただいたり、寄付したりする中、夏場に着る服が減って来た今年、ほぼ新品のままだったシャツブラウスの数枚を普段着におろした。使ってみると、熱波の中、タンクトップのあられもない姿で家や庭をうろうろして、とっさの来客や外出のとき、上から羽織るのに便利で、洗ってアイロンもなしでも何とかそのまま着られるので、これがなかなか重宝した。しかもどことなく、きりっとしているから、ちょっと気分もひきしまる。
これはもう何年か、下手すりゃ死ぬまで使えるかもねと喜んだものの、日常着になってしまったので、立派なループタイをつける機会はなくなってしまった。いくら私でも庭の水まきや洗濯を、そこそこ上等のループタイをつけてやる気にはなれない。

手放せない数本

ちょうどその頃、家に代々伝わって来た、ちょっとした文書や品物を、私とちがって子どもや家族も多い従姉に引き取ってもらうことにしたので、この機会にと思いきって、ループタイも全部送ることにした。若い人も多いから、使わないまでも私がしていたように、壁に飾りたい人もいるかもしれない。
かなりの量で、家のあちこちに分散していたせいもあって、送ってしまった後でいくつかが、あちこちから見つかった。まあこのくらいはせっかくだから、何かの時につけて行ってもいいかなと、手元に残すことにした。

私の回りにも若い人はそれなりにいるので、その人たちにさしあげてもよかったのだ。だが、何となくレトロ過ぎて迷惑かなと思ったり、自分が買ったものならともかく、叔父や叔母の使ったものは、やはり身内に一度引き渡して、それから他人でも誰でももらってもらうようにしたいという気が、どこか心の奥にあった。これって、ある種のマネーロンダリングみたいな心境なんだろうか。

中でも、これは最後まで私が持っておくしかないなあと思うのが三本ある。どれもそれぞれ微妙に不良品で人にあげられない。
木彫りの大きめのミミズクのは、叔父が愛用していたのか、写真にもときどき映っているが、よくつかわれたせいか、あちこち塗りがはげている。
練り物のような茶色のは、目立たない分、私でも使いやすそうなのだが、先端の金具が片方取れていて、こういうのはどこに修理に出せばいいのかわからない。
最後は、色も形も留め具のデザインも大好きなちょうちょのかたちので、でもこれは実は一番修理不能かもしれなくて、最初からそうだったのか、なぜか紐が細くて、しっかりとまらず、きちんと締めていても下に下がってしまうのだ。まあしょうがない時は、それこそ壁に飾っておいてもきれいそうだからいいかと考えている。

なお、シャツブラウスの内、水玉と紺と黄色の三枚は私がループタイ用に買ったものだが、床屋の看板みたいな派手な縞柄のは叔父のもので、人はもらってくれそうにないから、私が使っている。品物がいいのか着心地は悪くない。白地に黒の水墨画みたいな模様のは、ずっと昔に私が買って、なぜか処分せずに残し続けて来たものだ。どこでいつ買ったかさえ記憶にない多分安物だが、何となく好みにあって、捨てかねて来たものだろう。もうこうなったら、どれも多分私が死ぬかぼけるかするまで、使いつづけることになりそうである。(2020.9.7.)

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カツジ猫