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(15)菓子入れと漬物鉢

昔、私の家族が住んでいた家の中心は「いろりの部屋」と呼ばれていて、実際に六畳ほどの部屋のまん中に、四角い囲炉裏が切ってあった。冬にはそこで炭火が白い灰をかぶって赤く燃え、黒い五徳の上にやかんがかかって、しゅんしゅんお湯を沸かしていた。祖父のひっきりなしにふかす煙草の煙でまっ黒くくすんだ天井からは、大きな自在かぎも下がっていて、ときどき鍋もかかっていた。
祖父母と母と私の四人家族は、囲炉裏の一角においた、丸いちゃぶ台で食事をした。ちゃぶ台は毎回食事のたびに隣りの板の間から運び出されて、終わったらまた片づけられた。お客が来たときなどは、そのまま置かれて、そこでお茶を飲むこともあったが、普通はお茶やお菓子も、囲炉裏のふちに置かれていた。
冬には囲炉裏の上に、ごつい木の枠がかぶせられて、ふとんがかけられ、こたつになったが、当時はこたつ板などはなかったから、ふとんの上にそのまま、みかんのかごや、本や新聞が置かれて、皆はそれぞれそこで仕事をしていた。多分、当時のふとんは固くて、ふわふわではなかったからそれで不便はなかったのだ。

部屋は廊下とガラスのはまった障子で仕切られ、隣りの和室とはふすまで仕切られていた。台所へ続く板の間との間にはガラス戸か障子があったと思うが、よく覚えていない。一方の白い長い壁には祖父の煙草でくすんだ何かの軸がかかっていた。そこは作りつけの床の間ではなく、移動できる置き床がおいてあったが、それは後に私が家のリフォームをして座敷に移動させるまで、永久不変のようにその位置にあった。置き床の右端にはラジオがあって、一度庭でムカデにかまれたやんちゃで皆にかわいがられていた雌の三毛猫が、その裏で何日も死んだように寝ていて、自力で回復して皆を喜ばせたことがある。ペットということばもまだなく、飼い猫や飼い犬を病院に連れて行くという発想はない時代だった。

ラジオの前には、使わない座布団が重ねられていて、小さい私はその上に座って、よくラジオドラマや「即興劇場」「あなたのメロディー」などの人気番組を聞いていた。後にテレビが来てからも、当時のテレビは巨大すぎて、置き床の上などには載らなかったから、それは座敷にすえられて、映画館のように部屋を暗くして、皆で集まってまだモノクロの画面を見ていた。

その当時家族が使っていた、食事のときの器や、コーヒーカップ、コップやコースターなどは、まだそこそこ残っている。叔母の持っていた膨大な量の器は、見るからに高価なものも多かったからかなり人にもあげたが、多分他人には何の魅力もないだろう、そういうただの古い食器は結局私が手元に残した。そのひとつひとつを見るたびに、当時の日々と時間とが、ありありとよみがえって来る。中でも雑多な荷物の山の中から出現したときに、思わずおおっと、のけぞってしまったのが、この二つの器である。

ふたつきの丸い入れ物の方が先に見つかった。私は感動のあまり、何に使うかも決めぬまま、神棚代わりにサカキや水を並べている、冷蔵庫の上に、おごそかに飾っていたから、見た人はいったい何なんだと思ったことだろう。
昔のわが家の食卓では、これは常に終始一貫、漬物鉢として使用されていた。昔の器というのはそうで、いったん役割が決まったら最後、ほぼ永遠にローマの貴族のトーガのひだをつける奴隷とか、英国貴族のお館の運転手のように、その仕事専門に使われていた。漬物はいつも食卓にあるから、この器もかならずちゃぶ台の上にあった。
私は甘やかされた偏食の太った子どもで、小さいときから肉しか食べたことがなく、玉ねぎとじゃがいも以外の野菜は口にしたこともなかった。大学に入って家を離れ、外食をするようになったら、もったいないのでつけあわせの野菜も食べるようになったが、よくもまあ壊血病か糖尿病にならなかったものだ。もちろん、漬物などは口にしたこともなかったから、この入れ物は毎日食事時に見てはいても、まったく縁のない存在だった。多分、そうやって、がらくたの中から出てきて再会するまで、この器に私は手をふれたことさえ、なかったのではないだろうか。

七十歳にも近くなって、初めて触れてつくづくと見るこの器は、別に高価なものでも珍しいものでもないが、丸く愛くるしいかたちをしていた。私が幼いときから見慣れた、赤い実が盛り上がった、ふたの模様もなかなかだった。
使ってみたい、できれば昔のままに漬物を入れて毎日食べてみたいと思ったのだが、何だかもったいなかった上に、今の私は血圧が高くて薬を飲んでいる始末、こんな大きめの器に入れた漬物を毎日食べるのは無理がある。
結局いつまでも使えず、毎朝神棚に手を合わせるついでにいっしょに拝んでいる内に、何だかこの器も、昔田舎の囲炉裏の部屋で、ちゃぶ台の上に載っていた姿が次第に薄らいで、私の冷蔵庫の上で、サカキの前に鎮座している姿の方が記憶に定着し始めた。

もう一つの四角い器も、田舎の家の風景と切っても切り離せずになつかしい。
これは、菓子入れとして使われていた。お客を迎える盆の上や、こたつの上、座敷の畳の上などに、急須や湯のみといっしょに、いつも置かれていた。私自身がここからお菓子を出してもらった記憶はあまりなく、むしろ蓋に描かれている素朴な絵が、子ども心に印象に残っていた。黒地に茶色のわらぶき屋根の家があり、背後には松らしい木が、家の前には紅葉がある。黒い空には金色の雁の群れが飛んでいる。この家には誰がいて、鳥はどこへ飛んで行くのか、少し物がなしい気持ちで、そんなことを空想もした。

今でも甘いものはそこそこ食べるから、これは本来の目的でせいぜい使ってやろうと思っていたら、思わぬところで挫折した。小さくて浅いこの器には、大ぶりな今のスイーツは、クッキーでもマカロンでも、ほとんど数個しか入らないのである。せいぜい板チョコを入れておけるぐらいのものだった。
昔、わが家には大の男のお客さんも何人となく常時来ていた。そのたびに、この器もちゃんと出されて菓子入れとして使われていた。昔のお菓子はそんなに小ぶりだったのか。当時の人はそんなに少ししか出されたものを食べなかったのか。今となっては謎でしかない。
思いきり悪く、長いこと私はこれを机の横の小机の上においていたが、菓子鉢としてうまく活用することはできなかった。むしろ、ある日、大切な指輪を、つい一時的な保管のために入れておいたら、なかなか都合がよいのに気づいた。ああこれはいっそ、アクセサリー入れにした方がサイズも外見も似合うんじゃないだろうか。そう思ってこの器には第二の人生を与えることにした。

だったらいっそついでにと、神棚の漬物鉢も下ろして、普段は使わない上等の腕時計を入れてみた。それも何だか悪くない気がして、今この二つは私のアクセサリー類を置く棚に並んでいる。見た目のかわいさから言っても、それほど場違いな仕事じゃないんじゃないだろうか。それなりの苦労や不満はあるとしても、と、ご主人の愛妻になった女奴隷のエウニケや、貴族一家の娘婿になった運転手のブランソンを思い出しながら、日夜私は昔と変わらぬ赤い実と、わらぶき屋根の家をながめている。(2017.6.19.)

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カツジ猫