(16)働く美術品
私のささやかなポリシー、というほどのものでもないが、どんなにきれいで繊細でも、器や皿のたぐいはそれなりに、実用品として働いてほしいのである。こわれてしまって使えなくなっても、それはそれで、別のことに使ってやれればいいなあと思う。
そういう中で、この水差しは難物だった。
買った店ははっきりしている。今もよく行く雑貨店が、いろんな芸術家の個展などもしていた。その中でガラスの器の展示があった時に、他のいくつかのコップなどといっしょに買ったのだったと思う。
何に使おうというあてはなく、多分きっと、仕事の忙しさでなかばやけになっていて、到底使いこなせそうにない無用の美しいものを買うという、ささやかな反抗に出た結果だった気がする。
写真を見てもわかる通り、とても美しい器だった。鮮やかに澄み切ったオレンジ色の内部を、くすんだ金色と淡いピンクの外側が包む。そんなにものすごく高くもなかったはずだが、私は棚の奥に飾ってながめては満足していた。
ただ、この長くのびた、くちばしのような注ぎ口は、そそっかしい私としては、使うのはなかなか恐い。実際何度かことんとぶつけて肝を冷やしたが、案外丈夫でびくともしなかった。
それにしても、できたら何か、ちゃんとした仕事に使ってやりたかった。とはいえ、だいたい、これがもともと、どういう用途で作られたものなのか、なぜこのような長い首が必要なのか、それも私にはわからなかった。今でもわからない。場違いな家に来てしまったのではないかという、貴族のご婦人を妻に迎えたブルーカラーの夫のようなうしろめたさも、そこはかとなくないわけではなかった。
今、この器は神棚代わりの冷蔵庫の上にある。
家に入って正面の台所の壁に、略式の神棚というか、お札入れがかけてあって、その下の冷蔵庫の上に、榊や塩や米や水の神棚にあるべきものが並べてある。
冷蔵庫の上というのは、どうかするとぐちゃぐちゃ汚くなりやすい。そこを神棚にしておくというのは我ながらいいアイディアとひそかに自慢しているが、ただ、訪れた人はどう見ても信心深くはなさそうで、地元の神社の世界遺産化に大反対している私が、何でこんなものを大事に祭っているのかと、そこは奇妙に思うかもしれない。
他のことの多くもそうだが、これもまったくの成り行きである。
この街に引っ越して来てからすぐ、建売の一軒家を安く買った。おおむね満足して三十年ほど住んでいたのだが、たまたま家の前の小さい空き地が売りに出され、最近の建築基準によると、それまで私がいた家は消防法にひっかかり、公道からの通路が入り組んでいるために、新築が許可されないということを知って、それでは売るにも売れないし、空き地としても将来地域のもてあましものになるかもしれないので、この空き地を買って、公道に接するかたちにしてしまえばいいと、その土地を買うことにした。ちょうど田舎の母をこちらに呼んで住まわせるにもいいと、ワンルームの小さい家を、そこに新しく建てることにした。
結局、母はこの新しい家に住むことはほとんどなく、この近くの老人ホームで暮らすことになったので、この家は今は私が使っている。
田舎の母の家を建ててくれた大工さんに頼んでみたら、泊まりこみで来てくれて、田舎の家の小型のような、しっかりした家を作ってくれた。申し分ない出来なのだが、大きな家を建てるのが常の大工さんなので、サイズは小さいのだが、どことなく何となく、どう表現していいかわからないが、大きな家のたたずまいの外見になっているのが、人によっては見たときに落ちつかず、何だかそわそわするかもしれない。その愛すべきちぐはぐさ、ファミリーレストランで高級ワインと生ガキを出すような、いたずらっぽい「何か問題が?」みたいな、この家の堂々とした顔つきが、私はいくぶん照れながら何よりも大好きだった。
地元から遠いので、地鎮祭のときに大工さんは、どうやって見つけたのか、近くの町の神社から神主さんを呼んでくれた。すべてまかせっぱなしにしていたから聞かなかったが、多分電話帳か何かで、適当に見つけたのではないかと思う。もちろん費用もとても安かった。
そうしたら、その神主さんは年輩の方と若い方とお二人で、立派な衣装を着て現れ、祭壇やその他の供え物も、何だかものすごく豪華なものを設置してくれたばかりか、時間をかけてうやうやしくおごそかな神事をしてくれ、祝詞を唱える間ずっと、若い方の人は美しい音色でフルートを奏でてくれるというぜいたくさで、あの予算でこれでいいのかと私は申し訳ないばかりだった。ご近所の人までが「フルートがいい音色で、立派でしたねえ」と驚いて下さったのだった。
「家が完成したときもよかったらどうぞ」と名刺をいただいたので、しかし、きっとまた予算オーバーみたいな立派なことをして下さるのではないかと、相当びびりながら、やっぱり家のお祓いをしてほしくもあったから、結局またそこの神社にお願いした。
もちろん、また同じように神主さんたちはやって来て、写真をとるのに同席をお願いした隣家のご夫婦と私が並ぶと、もう家の中は窮屈になるほどの小さな家なのに、まるで大邸宅を扱うような神事をとりおこなって下さった。帰りしな、家の神とかまどの神のお札を下さって、1日と15日に水とサカキを新しくして、塩を時計回りに家の回りにまいて下さいと教えて下さった。
わが家はもともとキリスト教とゆかりの深い家だったから、田舎の家には仏壇も正式なのはなかったし、神棚にいたっては台所の隣りの暗い板敷の部屋の天井近い壁にひっそり祭ってあっただけだった。私は家では神にも仏にも手を合わせたこともない。日曜学校にも通っていたから、お祈りするのはもっぱらキリスト相手だった。
今思えば、田舎の家の暗い部屋で、神様はあれはあれなりに、のんびり幸せだったのかもしれないという気はする。
ともあれ、そうやっていただいたお札も、「何日かずれても別にいいですよ」と大らかに教えていただいた塩や水の取り替えも、私は神様の化身のように突然あらわれて法外なまでの立派なお祓いをしてくれて、そのまま去ってしまった神主さんへの感謝もこめて、それから五年、ずっと律儀に守りつづけている。お札は博多の川端町の昔からある仏具屋で、神棚は大げさだからと、小さなお札入れを買ってかけた。サカキは最初買っていたが、苗木を買って庭に植えたら大いに栄えて、私の背を追いこしそうになっている。その枝を切っては新しいのを供えている。
とはいえ、どうせ私のことだから、何となく、まともな神棚ではない。
サカキの間に並んで飾ってあるブリザードフラワーは、知り合いからお祝いにいただいたものと、組合活動で処分を受け裁判闘争している教え子が私がカンパしたお礼に贈ってくれたものである。どちらも、こじんまりと小さく美しい。
ニワトリは今年の干支だが、神様のそばにいてもいいのじゃないかと思うので、ずっとおいておこうかと思っている。余談だが私が名古屋の大学にいたころ、同じ講座だった中世文学の大家の島津忠夫先生は、トリというトリが大嫌いで、「めんどり文庫」という出版社の本もほしいけど買わなかったとおっしゃっていたし、研究室の宴会では名古屋なのに水炊きはしたことがなかったものだが、近くの熱田神宮だったっけに資料調査に行かなくてはならず、そこの境内のニワトリは野性化していて、松の木の枝にとまりよるねん、と嘆いておられたということだ。先生にはお気の毒だが、そのくらいだから、神棚にニワトリはいてもかまわないだろう。
ちなみに、かかっているブドウの額も水差しを買ったのと同じお店で買ったもの。ずっと田舎の家の離れに飾っていた。優しいようで、本当にきりっと存在感のある絵なので、一枚でも広い空間をひきしめる一方、周囲に溶けこめず、飾る場所が難しい。ここだと、お供え物の代わりでもあるし、この迫力と清澄さがよく似合う。
最初は水も塩も米も、適当な器にいれていたのだが、ある時ふとその気になって、近所の仏具店で、神具も売っていたから、水入れや花立てなど一式をそろえた。ものすごく安かったので驚いたのを覚えている。
水は毎朝換えるのだが、捨てるのはもったいなくて、そばの窓枠においている、パセリやバジルの鉢にやる。やはり新築のお祝いにもらったシクラメンの小さい鉢が五年たってもまだ元気なので、これにも水をついでやる。
全部につぐと、水入れの水だけではたりない。そこで、いつの間にか、例の美しいオレンジ色の水差しで、足りない分の水を注ぐようになった。シクラメンの鉢の下の口から、この水差しの先を入れて、こぼさないよう注ぐのはちょっと難しいのだが、何とかやれないことはない。
まあ正確に言うと、この水差しが神棚の仕事をしているかどうかは、ちょっと微妙なところである。
しかし、神棚関連の仕事ではあるだろう。
そして、ここに並べておくときれいだし、神様の目も楽しませるだろうと、私は勝手に考えている。
それにしても高いところなので、地震があったらひとたまりもない。
実はサカキを置いている茶色の厚い木の盆も、昔田舎の家で使っていた、記憶に鮮やかなものである。ふちがそこそこ高いから、今後は、この中に水差しは置くようにしてもいいかと考慮中だ。ただそうなると、盆にしみがつかないよう、何か布を敷いてやらなくてはなるまい。
美術品を働かせるにもなかなかに、労働条件には気をつかうのだ。(2017.6.24.)