(22)恥しい鷹
(食器棚・修学旅行・鷹)
ありあまる器
十数年前亡くなった叔母は、叔父と二人暮らしだったのに、たくさんの器を買いこんでいた。長く勤めていたお手伝いさんが「もう買っちゃだめですよ、置くところがないんですから」と怒るから、と言って自粛していたが、その人も家の都合でやめてしまってからは、とめる人も多分なかった。もっとも、その頃になると叔母も高齢になっていたから、昔ほどは買い物をする元気もなくなっていたのか、そう爆発的に増えた風でもなかったが、それでも大変な量の美しい食器や茶器が棚にぎっしり残っていた。
私はそれを人にもらっていただいたりして、かなり減らしはしたものの、最終的には自分が手元に残したものもかなりあった。私はそういった方面にまったく目利きでないし趣味もないし、自分の好みで選ぶと言っても、おおむね叔母の買ったものは、さすが高価なだけあって、どれもそれなりに美しく、甲乙つけがたいものばかりだった。「あの人は昔から、絵も下手だし趣味も悪かったのに、いつからそんなにいいものを選べるようになったのかねえ」と、何かにつけて叔母をバカにしていた母が、よく不思議がっていて、「結局、お店の人がいいものを勧めてくれるからなんだろうね」と結論づけていたのは、案外正しかったのかもしれない。
人の好みはさまざま
膨大な量のそれを、叔母のマンションから田舎の家へ、そしてまた自分の住む今の家へと何度も荷造りしては移動させながら、自分でも不思議なほどに、皿も器も一つも傷つけたり割ったりしなかった。小さい湯のみのひとつのふちが欠けていたのは、もともとそうだったのかわからないが、それも捨てずについ、そのへんにおいている。こんな風だから、ものが減るはずがない。
私はものを処分するとき、寄付するにしろ人にさしあげるにしろ、基本的には何とか使ってもらえそうなきれいなものから放出する。これは行った先でも捨てられるかもしれないと思うような汚いものや汚れたものや趣味の悪いものは、とりあえず自分の手元において最期をまっとうさせることにしている。
ただ、これが難しいのは、もうこんなもの、誰もほしがるわけもないけど、さりとてさすがに私も毎日見ているのには耐えられないと思って、友人のバザーに供出した、でこでこ飾りのつきまくった、どぎつい色の巨大な猫のポットが(人がくれた記憶もないので、私が何かやけを起こして買ったのだったろう)、「あっという間に売れたよ、買った人大喜びしてたよ」とか報告が来たりすることで、そういうのだったら、早めに人手に渡した方が、そのものにとっても絶対幸福なんだろうということである。
廊下はダーダネルス海峡
そういう点では、叔母の遺した食器類は、誰でもいつでも喜んでもらってくれそうなものばかりで、だから、その内にはなくなるだろうと思いつつ、私はあくまで仮置きにでも、きちんと見えるところにおいておこうという気になった。もはやわが家は書棚だらけで、それも満杯、どこにも棚など作れない。
そこを何とかと、昔から猫の小屋とか適当な工事ばかりを頼んでいる、近くの町の大工さんに依頼して、もう思いきり粗末でいいからと、食器棚を三つほど作って台所と玄関へ行く廊下の壁にすえつけてもらった。台所はともかく、廊下はもともと狭いのに、極限まで薄くしてはもらっても、たがいちがいに置いた棚は、廊下の幅をいやが上にも狭くして、家具を運び出そうとしても、ほとんどのものは、この魔のダーダネルス海峡を通過できないという、井伏鱒二の「山椒魚」的住宅環境を作った。
さすがに少々不安だったので、大工さんとも相談して、廊下の棚二つは移動可能にして、大きなかぎフックで壁に固定したが、いざという時は外して動かせるようにした。他にも台所やその他のわずかな空間に小さな棚をいくつも作った。どれも粗末な板でペイントさえもしていない。工事現場でももうちょっとはましかというような外見である。
金がなかったせいもあるが、私は中途半端な悪あがきはしたくなかった。この思いきり粗末な棚に、がらくたを入れたらたしかに心も貧しくなるだろうが、叔母の高級食器をはじめ、美しいものの数々を押しこめば、それなりに謎めいてアホらしく面白い世界になるのではないかと思ったのもある。
そもそも、この家自体がそうだった。すでにもう人手に渡した叔母のいたマンションや、田舎の実家の築百年に近い古い家は、どちらもそれなりに贅を尽くして建てられており、暮らしていると城の中にいて守られているような豊かさと安らかさが常にあった。それは、母の隠居所として建てた田舎の新宅、今私が使っている二つの家の新しい小さな方も、同じ田舎の腕のいい大工さんが建てたものだが、がっしりと頼もしく住んでいて快い。
しかし、それらの家とちがって、この家は私がここに引っ越してきてすぐ買った建て売りの家で、多分外材を使ったごく普通の作りで、冬などはとても寒い。建て増しをして二階をつけて、その分家じゅうが迷路のようになっている。裏は崖がせまっていて、一年中そちらの側は湿っぽい。
けれど、他の四つの、それぞれに風格と貫禄がある家と同じくらい、この家も私は好きだった。私が初めて自分の金で買った家だし、少し安普請っぽいのも、それこそ好き勝手にいくらでも釘が打てるし改造できる気軽さがある。この家で学生たちや友人たちと私がくりひろげた数々の冒険は、数えきれない。どの部屋にも、そういう笑い声と話し声が陽気にこだまし、しみついて、今もこの家を活気づけている。
あれでもないこれでもない
というわけで、心楽しく、私は叔母の食器の数々を、粗末な棚に並べた。粗末ながらに安全対策はできていて、ちゃんと格子の扉とカギがついているから、地震でも一応は食器の散乱は食いとめられるはずである。
しばしば起こるダーダネルス海峡問題だか山椒魚戦争だかで、家具を分解してはまた組み立てなければならなくなる事態はあっても、私はこの棚まみれ状況に満足していた。その内に叔母の食器が皆なくなったら、本棚にでも使えばいい。
ところが、ある意味いかにも私らしいとしか言いようのない、変な悩みがわいて出た。
この古い家の玄関は、一見そう悪い外見ではない。貼ってある建材は、ちょっと見には高級そうな濃い茶色の木目模様だ。
今でもぼんやり覚えているが、数十年前、この家を建て売りで買ったとき、この板を打ち付けていた大工さんは「思いがけずいいものが手に入ってよかった」みたいな、何だかほくほくうれしそうな言い方をしていた。私のかん違いかもしれないが、その時の印象では何となく、よその工事で出た、余分な板の上等なのがちょうどここに使えて幸運だったということだったような気がする。そう言えば、洗面所の洗面台も妙に大きくて立派で、不動産屋のお兄さんは「えーっ、いいのがつきましたねえ」と驚きかつ喜んでいたが、そういうあっちこっちの余り物で、この家のかなりの部分は作られたのかもしれない。誤解だったら、ひらにごめんなさい、でも本当にそうだったら、私もそれは何だか、ものが無駄にならなかったし得した気分でうれしいのですが。
もちろん今回、私はそこにも天井近くまで安っぽい棚をびっしり取りつけた。だから今さら気にすることでもないのだが、廊下においた薄い棚の側面が、その玄関を入ったときにちょうど正面に来て、壁に固定した掛け金もろとも、周囲のちょっとは高級そうな壁板に似つかわしくない、荒っぽい舞台裏が目に入る。
それはそれでもいいのだが、そこに何か一工夫ほしい。というのが悩みになった。
何か小さい額でも花瓶でも掛ければいいのだが、そこがそういかないのは、その棚のせいで更に狭くなっている廊下だから、通過するとき、ひっかかりやすいのである。出っ張るものは置けないし、きれいでこわれやすいものも置けない。だいたい、あまりおしゃれで素敵なものを置いたら、その粗末な棚の側面の安っぽさが目だってしまう。玄関らしく、周囲の壁板にふさわしいもの、しかも適度に月並に安直で背後の粗末なベニヤ板からも浮かないもの、万一ひっかかったり落っこちたりしても大丈夫なもの、適度の重厚感もあって、軽薄な感じがしないもの。諸条件が難しすぎる。
いろんなものを、かけたり、おいたり、試してみた。友人から昔もらった、アフリカかどっかの壁掛けとか、田舎の家に古くからあった小さな花かごとか、クマのリュックのぬいぐるみとか、ソ連製の木彫りのみみずくとか。でもどれも微妙に一長一短だった。ここに私が求めているのは、目立ちすぎてはいけないし、ある程度平凡で、卑俗で、でもどこかちょっと、こう。
修学旅行の思い出
やけになって、世の中でも人生でも、こういう人間の存在ってもしかしたらすごく必要なのかもね、存在感を主張しないで、特別でもなく普通でもなく、異質なものから浮かないで、メジャーなものに埋没もしないで、自分の役目をきっちりはたして、そこにいなくてはならない、そういう人に私はなりたい、などと、そんなこと考えてるヒマもないはずの哲学論に走り始めたころ、例によって整理していたがらくたの荷物の中から、思いがけないものが見つかった。
それは、修学旅行先で私が買った、鷹の絵が描かれた竹製の壁掛けだった。めちゃくちゃ古いものなのは確かだが、小学校か中学校かひょっとしてまさか高校だったのか、今もうまるで覚えていない。高校の時はカメラを持っていたのか、友人たちと旅館のふとんで大暴れしている写真が残っていたのを覚えている。しかし、どの修学旅行もどこに行って何を見たのか、まったくと言っていいほど記憶にない。東京タワーが大したことなくてつまらないとか書いている生意気そうな絵葉書も、どこかにあったのを覚えているから、きっと九州の田舎から関西や関東に行ったのだったろう。
大庭葉蔵は甘い
これといった思い出がないのは、何となくほっとする、幸福なことだ。一人っ子で本ばかり読んでいた私は、学校生活や集団生活が苦手だった。太宰治の「人間失格」を読んだとき、私が感じたのは何を大げさな冗談を言ってるんだ、こんな毎日誰だって普通に送ってるんだから、何も騒ぐことじゃないだろということだった。人に嫌われまいとして道化を演じるぐらいで何を不幸になってるんだと、あきれてものが言えなかった。
私が大庭葉蔵とちがっていたとすれば、それは私が皆を幸福にして私のことを忘れるぐらいにしておいて、こっそり逃げ出して孤独を楽しむのが最終目的だったことだ。子どもの世界には、それなりの対立があり派閥があって、どこかに属さないと大変なことになる。それがいやだったから私は、誰とも仲よくし皆を幸福にし、一人も不幸な人を作らず、平和で楽しいクラスにすることに常に全力をあげた。そうやって皆が仲よく楽しく遊び、誰も仲間外れになってないのを見届けると、自分はすたこら逃げ出して、小学校では校舎の裏にあった池のそばの柳かなんかの木の下で、一人でのんびり空想にふけった。それが至福の時だった。
図書室でも家でも大人の本を読み、教育者の視点からものごとを研究していた、とんでもない子どもの私は中学生にもなると、たとえば「あの子は友だちは多いが親友はいない」とかいうカテゴリーに分類されないように、無二の親友もちゃんといつも作っていた。それは嘘ではない本当の親友で、私は彼女たちを深く愛したし愛された。当時は今とちがって異性との恋は一般的ではなかったが、もしもそういう時代だったら、私は多分そこもぬからず、きちんと無難な恋人を作っただろう。多分、自分が本当に大好きなタイプとは微妙にちがった、安定した関係を結べる相手を。もちろん男子生徒とも私は仲が良かったし、男女を問わず、嫌いな相手や敵は一人もいなかったかもしれない。
だから、これと言って楽しい思い出がない。言いかえれば四六時中のべつまくなし楽しかった。しかしそれは、たしかにどこかで、大庭葉蔵に何甘いこと言うてるねんと鼻で笑うほどの、パワーとエネルギーを毎日全力で使う作業でもあった。楽しかったし、この状態を維持できないときにクラスが陥る修羅場を思うと、この方がよっぽど楽だという判断はあったが、消耗するにはちがいなかった。
今でも私は周囲の人たちと憲法を守れとか民主主義を守れとか言って、日夜時間を費やしているのは、周囲や社会や国や世界を平和にしておかないと、自分がとことん干渉され、敵か味方か選ばされ、あげくのはてには孤立して滅ぼされるに決まってる、という別に水晶玉なんかのぞかなくても明らかすぎる見通しがあるからだが、これは昔、皆を仲よくさせ幸福にさせておいて、校舎の裏でひとりでふううと幸福な深呼吸をしていた子どものころと、我ながら何も変わってないと痛感する。
本当は虎が好きだった
だから、思い出が残っていると、大抵はそれは苦い。何ひとつ印象が残らない修学旅行は我ながらうまくやったと思えるほど、どれも無事にすんだのだろう。
そんな中でただ一つ、この鷹の壁掛けの記憶は、実は苦い。
見るからにありふれた安っぽいお土産風の品物だ。どこで買ったかなどもちろん覚えてもいない。何となく京都のどこかのような気もするが、東京だったとしてもふしぎはない。
いっしょに買った友だちも、その時の状況もまるで思い出せない。
ただ、はっきりと覚えていることがある。
この壁掛けは、多分二種類あった。この鷹の絵と、もう一つはトラだった。トラは頭が下に来ていて、全身がうねって、しっぽが上の方にはねあがっていた。竹の面いっぱいに、はみ出しそうに躍動していた。
友人たちは皆それを買った。私は一人、この地味な、動きもない、全体も少し小ぶりな方の壁掛けを買った。
どちらが好きかと言われたら、絶対トラの方が好きだった。猫好きな私だからというだけでなく、力強さも色使いも格段にトラの方がまさっていた。それなのに、何でこちらを買ったのか、未だによくわからない。私がときどきそういう買い物をする時に考えるように、誰も買わない鷹がかわいそうなどと思ったわけでも、その時はなかった。あらゆる意味で私は、この鷹に何の魅力も感じなかったし、感情移入もしなかった。
だったら、どうして買ったのか。何となく、人と同じことをしたくなかったのか。自分の好みはちょっとちがうと思いたかったのか。どちらにしても、そこには何だか恥しい、みっともない気持ちが働いていたことは、今考えても疑いがない。そんな気持ちは持たない人間と自分のことを理解していた。それを裏切る行動だった。
友人たちが買ったトラの壁掛けは、もちろん、その時以来一度も見ていない。ひょっとしたら旅館か汽車の中で見くらべたりしたかもしれないが、それだって長い時間ではない。
それでも私は今でもまだ、そのトラのポーズが忘れられない。何だか金粉までまいてあったような気さえする。やっぱりあれにすればよかった、この買い物は失敗だった、とさえ、きちんと思う勇気がなく、何だかあいまいな気分をひきずったまま、私は無気力にこの壁掛けを部屋のどこかにかけて、それきり気にもしなかった。いつまでどこにあったか、いつ片づけたかさえ、まったく覚えていない。
まるで私が注目せず、意識にのぼせないでいたせいでもあるまいが、今あらためて見ると、竹の色は見事に古びていい味わいになり、安物だったからなのか、良心的な作りだったのか、松の緑も鷹の羽根も、まったく色あせてはいない。
おやというほど、ぴったり
ふふんと苦笑いして私はそれを、問題の棚の側面にとりあえずかけた。まあソフトバンクホークスの本拠地でもあり、カーラジオは朝から晩までホークス情報を流すから、つい私も選手の名前をほぼ全部覚えてしまったぐらいの土地柄なので、ここに鷹がいても悪くはないかもしれないと思った。
そして何日かして、それが私の求めていた不可能なまでの諸条件をどうやらすべてかなえているらしいことに気がついた。古めかしくて安っぽい。ありふれていて、ちょっと変。気にならないけど、気にしようとしたら気になる。
ああ、ここには元気にうねっている金ぴかのトラじゃだめだということもはっきりわかった。あくまで地味な色あいでひっそり枝につかまって動かない、この鷹だからこそ、あたりが落ち着く。そして私の修学旅行の唯一の記念品。今でも分析しきれていない私の心の中の弱くて情けない何かの証拠品。
大きさも幅も、この側面にちょうどいい。自分の恥しい過去の記憶を玄関の正面にさらして、人に聞かれたら、ソフトバンクホークスの地元だしね、と適当な言い訳をするのも、若者っぽくみっともなくて、それもなかなかいいかもしれない。自分の中の永遠の未熟を確認し、限界を見つめつづけることは、まあ多分きっと、若さを保つ秘訣でもある。(2017.7.6.)