(24)窓辺のバスタブ
何であれ、最後の一個というものは気になるものである。単に稀少価値という点だけでも、山ほどあった時とは扱いがちがって来る。マーク・トウェインの短編で、安全ピンが宝物のようになっていたイヌイットの一族で、ピンを盗んだと疑われた若者が氷の上に置き去りにされて事実上の死刑になってしまう話がある。彼の無実を信じる恋人の少女の切々たる訴えはまぎれもない悲劇だが、それが滑稽になってしまうのは、我々がダイヤモンドでもルビーでも同じ悲喜劇を演じていることを気づかせる、トウェインの皮肉であることは言うまでもない。
私の叔母は、裕福な人で一族を経済的に支えてくれていたと言っても過言ではない。しかし支えられている方は、卑屈になるまいとしてか、それとも世の中の需要と供給とはそんなものか知らないが、あまりそのことに感謝も恩義も感じてなかったし、当然示しもしなかった。最たるものは姉にあたる私の母で、叔母の買い物のセンスをバカにしていて、「どうしてあんなに趣味が悪いんだろう、昔からそうだった」と、しょっちゅう口にしていた。
叔母はエネルギッシュでパワフルな人で、皆への愛情を惜しまなかった。たしかにそこには、計算や配慮というものはあまりなかったかもしれない。姪である私のことは猫かわいがりしてくれて、母は一度、こんな話をしてくれたことがある。
「あんたがまだ赤ちゃんのときに、私は台所で、あんたを洗面器に入れて座らせて、うしろの縁側において、背中を向けて、土間に立って流しで何か仕事をしていた。あんたは昔から頭が大きかったから、そのうちにバランスをくずしたのか、頭からこけて、洗面器ごと、下の土間にものすごい音を立てて落っこちた。
私がふりかえるより早く、家の中のどこか奥の方にいた、なおこおばちゃんが、ものすごい速さで稲妻のようにすっ飛んできて、わあわあ泣いてるあんたを抱きあげて、『頭を打ったらバカになるやないね!』と、ものすごい剣幕で私をどなりつけたもんさ。
私は『あら、けがもしとらんですたい』と言って、へらへら笑っていたけどね」
そして母は、それに続けて「そんなことされても、あんたはまるで覚えてないやろ。あの人はそういう無駄なことばっかりする人なんよ」と言うのだった。
もう今はさすがにどこに行ってしまったかわからないが、家には美しいクリスマスカードのたぐいがよくあって、その一枚で、黒い犬と猫かなんかが、木の上と下で顔を見合っている、かわいい絵柄のカードがあった。でも、それには、いっぱい落書きがしてあって、他にもそういう、意味のないなぐり書きで汚されている、きれいなカードが何枚もあった。
「それは、あんたが書いたのよ」と、母は私に教えた。「まだ小さいから、そんなのやっても汚すだけと言ったのに、なおこおばちゃんが、あんたにやるもんだから」
叔父が亡くなった後数年、叔母は一人暮らしをしていた。老健施設に医師として勤めていて、実際の仕事は多分ほとんどしていないのに、私より高給をとっていて、暮らしに不自由はなかったが、淋しがり屋だったから、つらかったのはわかっていた。私もときどき行っていたが、勤めが多忙を極めていて、帰りにどこかわからない道のかたわらに車をとめて数時間眠りこむほど疲れていたので、なかなかゆっくり叔母の相手はできなかった。
叔母は私が帰るとき、いつも建物の横の通用口のドアのところまで送って来て、そこに立って手を小さく振って私を見送った。私も手を振って車を出しながら、その内に叔母が亡くなったら、あの味もそっけもない鉄の扉の通用口を見るたびに、叔母の姿が目に浮かんでやるせなくなるだろうなあと、いつも思った。実際には叔母の死後、その建物に行くことはほとんどなくなったので、その扉を見ることもめったになくなった。
叔母はその後、パーキンソン病で入院し、間もなく亡くなった。病院への訪問も、叔母が満足するほどには行けなかったし、さまざまな心残りはあった。だが、叔母の死後、何をしたら、私がどう生きたら叔母は喜ぶだろうかと自問したとき、あまりにも自分の中で単純に明確に返ってきた答えに、私はほとんど呆然とした。
…私が幸せでいればいい。
叔母は肩書としてはめいっぱい知識人だったが、中身はとことん俗人だった。大学教授の私にパートの編み物をしながら「あんたも手に職をつけておいたがいいよ」と忠告した母と反対に、叔母はデパートで私に帽子を買ってくれる時でも売り場の店員に聞こえよがしに「あら、あなた、国立大学の教授がそんな帽子をかぶっていいの」と言って、私を死にたくさせるなど、いつものことだった。私が母校の九州大学の教授になることを最後まで期待していて、「いずれ九大に帰るんでしょ」と聞いては私をうんざりさせていた。数年前に九大の非常勤を頼まれて一学期だけ教えたとき、私はその辞令や学生の出席表や講義ノートや関係書類を、いつもだったらとっとと処分するはずが、叔母が喜ぶだろうから、仏壇に供えてやるかと思って、なかなか捨てられないでいる。
叔母は政治や社会や思想についても母と反対に、まったく自分の意見や考えを持たなかった。よくそれで責任ある立場の仕事をして来られたものだと思うほど、無色透明というより空っぽの人だった。だがそれだけに、たとえ私が日の丸赤旗ハーケンクロイツどんな旗を振ろうと誰にどう攻撃されようと、私が幸福で満足で快適でさえあれば、叔母もまた、限りなく幸福であるはずだった。
その人への最大の供養は、私自身が最大に幸せでいること。
こんな単純な、わかりやすいことが、この世に存在することに、それがまったく一点の疑いもまじらずに、とことん徹底的に信じられることに、私は目がくらみ息がつまるような衝撃を受けた。そんな人がこの世に存在することに。私に与えられていることに。
漱石が描いた「坊ちゃん」の清、下村湖人が描いた「次郎物語」のお浜、いずれも乳母の彼女たちの、盲目的な愛情は、きっと叔母の私に対するものと同じだったのだろう。
もっとも叔母と、その乳母たちのちがいは、まあ清さんなどは少しその傾向はあるが、とにかく私にかまいまくり、服装も髪型も持ち物も立ち居振る舞いも、やかましく世話を焼きつづけることだった。
さすがに晩年になると体力が衰えたのか、それほどでもなくなったが、全盛期の元気なころは、会って顔を合わせたその瞬間から、別れるぎりぎりまで、鼻毛がのびてる髪が臭い服にしわがよっているバッグが安っぽい靴がみっともない箸の持ち方がおかしい服の袖がスープで汚れる動きがのろい手際が悪いと、ひっきりなしに文句が続いた。あいにくと私はそう言われるとなおのこと、服装にも髪型にもかまいたくなくなる性質なので、叔母に注意をされるほど、そういうことすべてに無関心になった。
あまりにうるさくて頭に来るので、一度は叔母が美容院でパーマをかけさせた直後、家の近くの別の店で、全部カットしてしまってもらったことがある。あまりに口やかましく注意した叔母が、私のきげんの悪いのが気になったのか別れ際に高級なアイスクリームをどっさり買ってくれたときは、別れたとたんに街路のゴミ箱にその箱を投げこんで帰ったこともある。
叔母の前では私はいつも仏頂面で不機嫌で、何を買ってもらっても何をしてもらっても喜ばなかった記憶がある。それでも飽くことなく私をかまい続け、湯水のように金も物も与えつづけたのだから、叔母の心理も意地か惰性か信仰か、何だかもうよくわからない。
だが、叔母のそんな愛し方が私に与えた一番の被害だか貢献だか、どっちかは判断が難しいところだが、とにかく最大の影響は、愛されることに私がまったく飢えも渇きも感じないで大人になったことだった。
ひいては、愛されることは重苦しいし、うっとうしいし、迷惑でもあると全身全霊で実感したことだった。
さらに多分きっともしかしたら一番問題だったのは、愛するとはこんないやな思いを相手に味合わせることになる可能性があると思った結果、自分に自信がないとかそういうこととはまったく別に、好きな人ほど、愛したりしたくなくなったことだった。
さすがにこれだけ年をとると、そういう影響も薄らいでいる。わずかな後遺症として残っていて、これは案外ありがたいかもしれないと感じることが多いのは、私は自分を愛してくれる人の愛に対して、相当にぜいたくであるということだ。
一般的に、普通の他者に対しては、私は要求水準がきわめて低く、たいがいのことは笑ってすませて怒らない。だが、いったん私のことを好きだとか愛しているとかいうつもりらしい人に対しては、我ながらものすごく厳しい。私をないがしろにしたり、私を他の人より軽く扱ったり、自分の方が大切という態度を示したりしたとたんに、いや普通に生きて行くにはまったくそれで文句はありませんけれど、私にとって特別な人になれるというのは未来永劫あきらめて下さいという気分にあっさりなってしまう。
これほど、神か教祖かアイドルか女王なみに最高の扱いをすることを求め、それがいやならおやめなさいと、わがままで愛されることに未練がないのは、つくづくもう、一生分か来世の分まで叔母に愛されたおかげだろう。
さて、叔母はときどき、何かにはまると、とめどがなかった。それが宝石や若い男や賭け事などのぜいたくなものでは決してなかったのは、叔母の慎ましさや堅実さだったろう。黒豆の煮方に夢中になって、正月には皆に配りまくったり、長い胴体に色とりどりの輪っかがはまった犬のぬいぐるみがかわいいと、私にも買ってくれたがったり、そして一時期は鮮やかな色の石鹸入れが気に入って、いくつも買っては人にやっていた。もともとは外国製だったのかもしれない。石鹸入れはバスタブの形をしていて、人形が両手と脚と頭とを浴槽のふちにのせて入浴しているデザインになっていた。石鹸をおくと、ちょうど胴体になるように出来ていて、使って細くなると身体がやせて行くように見える、そのアイディアも叔母の気に入ったのかもしれない。
その結果、私のアパートにも田舎の家にも、いたるところに、この人形つきバスタブの石鹸入れが置かれるようになった。
人形もバスタブも色はさまざまで、人形は帽子をかぶっていたりリボンをつけていたりした。組み合わせのバージョンがいくつあったものかもわからない。
私はもともと、嫌いではないまでも、あまり魅力を感じてなかったし、石鹸がまっ白だったらともかく、色や形がさまざまだったら、このデザインも生きないわけで、だいたい色も形も派手すぎて、周囲とのバランスもよくなくて、気に入っていたとは言えない。もともと石鹸入れ自体が汚れやすいし古びやすいし、その内どこかに行きやすい。この石鹸入れも捨てたり人にやったりした記憶はないが、いつの間にか次第に減って、見えなくなった。青い帽子の緑色のバスタブのを一個、ボランティア団体に寄付する荷物に入れたのは覚えている。そして気がつくと、あれほどたくさんあった、そのバスタブの石鹸入れは、赤いリボンの金髪の女の子が入っているオレンジ色のバスタブのものだけになっていた。
最初に書いたように、最後の一個になってしまうと、それまでのほぼ無関心とはうって変わって、急に気になりはじめてしまう。ばっさばっさと処分された同じ種類のたくさんのものの力が、そこに凝縮されて来たように。
ひとつだけ残ったそれを、私は洗面所の洗濯機の向こうの窓枠にのせた。洗濯機のかげに落っこちる心配のある場所だから、壊れ物や小さい物は置けない場所である。右にあるのは、これも昔なつかしい、田舎の家で私が子どものころに使っていた、折り畳みのコップで、ふたのまん中には小さな磁石がついている。左にあるのはにせものの蘭の鉢植えで、脱臭作用があるらしい。スーパーの隅の小さな花屋で衝動買いしたのだが、本物と思っていた私は「水はどのくらいやるの?」と聞いてしまい、その話を私がした、ガーデニング命の友人は「…恥しい」と嘆息した。
それにしても、この石鹸入れがわが家のどこにあった分なのか、私のアパートか田舎の家か、ひょっとして叔母のマンションから引き上げて来た荷物の中にあったのか、それもまったくわからない。ただここにこうして置くと、陽気なオレンジ色は奇妙にあたりに映えて、定位置のように、とりとめのない三点セットのひとつとして、落ちついた。毎朝、歯を磨きながら、見るともなしにつくづく見ると、重ね合わせた人形の足のかたちも、叔母があれほどほれこんだのにふさわしい、魅力にあふれている気がして来るのが、不思議と言えば不思議でもある。(2017.7.17.)