(25)玄関には白い花を
(玄関・ご近所づきあい・傘)
大工さん一家
今暮らしている家、正確には二つの内の新しい一つは、以前田舎に母の隠居所の新宅を建ててもらった大工さんが、車で三時間ほどの遠くはなれたこの街まで、一族郎党、左官屋さんからカーテン屋さん、電気屋さんまで引き連れて出張してきてくれて、自分はいっしょに仕事をしている弟さんと二人で古い方の家に泊まりこんでくれて建てたもので、小さいながらがっしりとたのもしく、私にはまったく何の文句もない。ワンルームだが間取りその他もすべて私の希望通りにしあがっている。
ただ、ときどきふっと考えるのは、まずもう絶対あるまいが、新しい家を死ぬまでに建てるか買うかするのだったら、今度は玄関が思いきり広い家にしてみたいなあ、こういうワンルームだったら、家の半分ぐらいが玄関でもいいなあ、ということである。
田舎の家も新旧二軒あったのだが、家そのものが大きかったし、昔の家らしく、どちらも玄関は広かった。今使っている二軒の家は、どちらも狭い。新しい方の家など、「玄関なんてもう、極限まで狭くっていい」と私が言った通りに、大工さんの息子の若い設計士さんは、ぎりぎりまで狭くしてくれた。
私の希望に沿い過ぎてくれたわけでもあるまいが、大工さん兄弟が玄関の骨組みがほぼできて、大きな立派な黒褐色のドアを入口にはめ込もうとしたら、枠が小さすぎてはまらなかった。もっと小さいドアにすると、アパートの勝手口にあるような、一番安っぽいドアになる。「そんなことができるもんか」という顔を二人はしていて、「わざわざ、この遠くの街までやって来て、そんな安っぽいドアを玄関につけては帰られない」というようなことを言い、玄関に隣り合った廊下の端のクローゼットの奥行きを少し浅くして、玄関の幅を広げることにして、私もむろんそれで全く異存はなかったので、二人はあっという間に玄関の枠組みを修正して入口の幅を広げ、立派なドアをはめこんだ。
大工さんは、その息子を目に入れても痛くないほどかわいがっていて、ときどき冗談に「お坊ちゃま」とかげで呼んだりするぐらいだった。何年かして、その息子さんが一級建築士の試験に合格したときなど、本当にうれしそうに「何度も落ちたのに、よくがんばったものだ。学科はいつも合格だったのに、実技で落ちていたからあきらめられなかったのだろう」などと私に話してくれた。それでも昔の親子らしく、奥さんは早くに亡くなっておられたので、私が何かの拍子に、夜とか二人でいて何を話すの、と聞くと「何も話さない。話すことなんかないし」と、あたりまえのように言っていた。
でも、その玄関ドアの寸法が合わなかったときには、お父さんと叔父さんにあたる、その大工さん兄弟は作り直しながら、その場にいない息子の設計士のことを、何だか妙に楽しそうに、「ほんとにもう、こんなまちがいをして」みたいに二人でくさしあっていて、遠くでそれを聞きながら、おかしくてたまらず、きっと息子に会ったら二人でいじって、いじめるんだろうなと何だかとても幸福な家族を見ているような気がした。
ご近所づきあい
そうやってできた玄関は、私が後で頼んでくっつけてもらった壁の手すりがわりの板が、少し安っぽく見える以外は、家の中の他の部分と同じように、作りつけの下駄箱もすべてが堂々としていて、けれんみがない。だが確かに少々狭く、白塗りの壁を汚しそうで恐かったりする。将来私が高齢になって足腰が弱って転倒しても、この玄関ならそもそもどっちにも倒れられないから安心だと思うぐらいだ。
細長い玄関から部屋に入る場所には、ガラス(ほんとのガラスではない)の格子戸があって、仕切れるようになっているのは、猫が飛び出さない用心で、私は玄関のことを潜水艦のハッチと呼んだりしている。
本当は玄関が狭い分、ウッドデッキをつけた長い廊下を近所の人との交流の場として開放しようと考えていた。だから、廊下と部屋の境にも四枚のガラス戸をつけて、ちゃんと猫を飛び出させないように工夫していた。
ところが家なんて本当に建ててみないと、どういうことになるかわからない。
女一人で二軒目の家を建てたことや、よせばいいのに私が外の道路に面した塀に、妙にかわいい表札をつけ、何とか庵とかかんとか館とか、二つの家に名をつけてその名を掲げたりしたことで、知り合いの人も通りがかりの知らない人も、ただでさえ興味を持たれがちの新築の家に、多分普通以上の関心と興味を感じて、注目の的になったようだった。「家見せはなさらないの?」「一度中を見たいからおじゃまさせてね」「お母さんはいつ越してくるの?」「今日はどっちの家にいたの?」「灯りがあの部屋についていましたね」「お客さんだった?」「冷蔵庫買ったの?」などなどなど、もちろんまったくそんなことを言われない方もおられたが、もう連日毎日顔を合わせるたびに言って来られる方もいて、私はほとほと音を上げた。
新築祝いを持ってこられた方には、それ以上の値段とわかる品をお返しし、「まだ片づいてないもんでー」「いやまあその内にー」とか言いつづけている間に、気がつくと開放するはずだった廊下の部屋との境のガラス戸にぶ厚い重い遮光カーテンをかけ、ウッドデッキのついた社交場になるはずだった廊下のガラス戸は完全に開かずの扉と化していた。
別に家を見せてもかまわないし、実際最初はその予定で、広い廊下も作ったのである。
しかし、考えてみればワンルームの家ではあり、入ったとたんにベッドまでが見える場所にご近所の親しいひととは言え、他人を入れるのも不安だった。第一、どなたを入れてどなたを入れないと線引きができるわけもないから、下手すりゃ周囲のご近所十数軒かそれ以上の方々を招かねばならなくなってしまうだろう。まったくプライバシーのない空間に。
もちろん、そういうこともあろうかと、家の中には二か所ほど、仕切りのカーテンは設置しているのだが、多分いったん入った方は、それでは満足されないだろう。かえって不快感を抱かれる可能性だってある。
結局建てて五年になるが、お隣の一軒を除いては、まだどなたも家に入っていただいていない。「先生がお仕事の合間に喫茶店でもなさるのなら、私もお手伝いに行こうかと楽しみにしたりしてたのにー」と夢見るように語られた、ほんとにかわいい方もおられて、どうも私の風変わりな家と生き方は、穏やかな暮らしをされている方々には、何だか危険な空想や妄想の対象になることだって、けっこうありそうなのだった。
掲示板を立てる
一度ノイローゼになりかけて行きつけのお店で、ぼやきまくった私は、しかしいかなる状況でも何か建設的な解決策を見出そうとする癖で、「ご近所の方はともかく、通りすがりの赤の他人が、喫茶店かギャラリーとまちがえて、まわりの家に問い合わせに来たりしないように(実際にあったのですよ。だいたいグーグルの地図には、この家は一時期喫茶店マークがついてたようで、あれはいったいどういう情報をもとに記載しているんでしょうかね)、ひと目見て、絶対にここはお店ではなくて、一般家庭である!というのがわかる品物を置きたいけど、そういうのって何かありませんかね」と相談した。お店の人も他のお客も首をひねって考えてくれたのだが、結論としてはなかった。子どもの三輪車、車いす、物干し台、犬小屋などなど、何もかも、「でもディスプレイにおくお店って、ありかもしれない」という話になった。まだ遅くはありませんから、これはというアイディアがあったら教えて下さい。
幸い、何年か前、戦争法の強行採決か何かの時に、それでも安倍内閣の支持率が落ちないし選挙の投票率は上がらないのに業を煮やした私は、知り合いの共産党員に、「道路からばっちり見える窓だから、候補者の選挙ポスター貼らせて」と頼みこんだ。それは法定ポスターが余っていなくてだめだったが、共産党の掲示板を作らせてもらっていいかと言われたから、二つ返事でOKした。
だが、掲示板は案外高かったからか、何かとつましい共産党はその計画はとりやめたようで、代わりに私は、参加している「九条の会」をはじめとした、いろんなビラをはりたくて、自分で家の前に掲示板を注文して、ガラス張りのそこそこ立派なのを設置した。いつもそこには、原発反対やアベ政治批判やその他いろんなポスターやお知らせを貼りまくっている。もちろん人に見てほしいのだが、案外喫茶店じゃないよアピールとして、これは効果があるかもしれないと、魔除けがわりの効能も最近期待しているところである。
そう言えば、この家を建てた凄腕の優秀な大工さんは、地元の民主商工会の代表としても活躍していた。そういう点でも、この掲示板は、この家の顔としてふさわしいだろう。
ものを置くツボ
しかしともかく、広く外部に開く窓として玄関代わりに考えていた廊下が、まったく開放されなくなると、外界からの入口は小さい狭い玄関に限られて来る。それが何となく息苦しくて、思いきり広い玄関のある家もいいな、と私は夢想してしまうのである。
さらに、そのただでさえ狭い玄関の土間に、いつの間にかいくつかの物が置かれはじめた。
ひとつは、叔母が持っていた重たい大理石か何かの花瓶で、水漏れがするのでお墓の花入れなどに使う金属の筒を入れて使っている。ビニールの小さい敷物を敷いて玄関に置くと、花など飾れて悪くない。
最近、また下駄箱の前、ドアの横に昔自分で買った傘立てを、上の家から下ろして置いた。セメントと鉄でできた、ちょっと気に入っていたものである。田舎の家の玄関にあった古い木製の傘立てを上の家に持って来たので、これを下に下ろした。それまでは傘立てがなく、傘は手すりにかけていた。
そんなものをいろいろ置いても、案外玄関が狭くならず使い勝手が悪くなるわけでもないのは、その狭い空間なりに「死角」とでも言うべき場所が存在していて、そこにはものを置いても特に不便はないのである。これもまた、ある程度暮らしてみないと発見できない、ものを置くツボとでもいうべき地点で、これをはずすと多分ひどいことになるだろう。
今その傘立てには、白い傘が一本だけ入っている。
傘というのも知らず知らずに増えるもので、私の傘には、叔母のだった黒の裏地にバラの花模様の美しい傘が数本、田舎の家に古くからあったまっ黒の大きな傘が一本、私が買ったマンハッタンの猫の模様の傘が二本、それを買ったと同じ福岡の新天町の傘専門店で何十年も前に買った青紫の玉虫色の傘が一本に母に買ってやった灰色がかったピンクの傘で母が柄の部分に目印のお守りか何かを結びつけているのが一本、やっぱり私が出来心で買った、たたんだ時に肩にかけて歩けるひものついた傘が二本、まあそんなのが主な顔ぶれである。
セレブの町で
この白い傘は、東京の郊外の文庫に資料調査に行ったとき、雨に降られたか何かで、電車の駅の商店街で買ったものである。周囲は緑したたる田園に囲まれた高級住宅街だったから、電車の駅の店と言えども、売ってある品々は、そこはかとなくセンスがよかった。もう四十年以上前だし、特に高くもなかったのだが、おしゃれな叔母が目にとめて妙にうらやましがるので、「あげよか」と言ったら、ものすごく喜んで、ずっと大事に玄関の傘立てに立てていた。
叔母の死後、この傘もそこから持ってきて再び私のものになった。開いてみると案外小さく、しかもふちはもみじの葉のように切りこみが入っている。つぼめるとまん中がふくらんで、昔の貴族の日傘のようだ。これをさしていると、行きつけの美容院の美容師さんから、「カッコいいですね」と感動されたり、思わぬ人からほめられる。
いい気になって酷使していたら、あるひどい雨の日に、あわてて車に乗ろうとして先をドアにはさんで少しだけ曲げてしまった。
この傘は、柄が丸く平たい球形で、そこがまた洒落てもいるのだが、他の傘のように、玄関の手すりにひっかけられない。
それも、上の家から傘立てを下ろして来た理由の一つだった。
上の家や車の中においてある傘も多いし、叔母のきれいなバラの傘はクローゼットにしまっているので、結局この傘だけが玄関に置かれている。
そうして見ると、この傘がここにあると、狭い玄関が妙にきりっとしまる気がする。純白の色の持つ魔力か、独特のかたちの放つオーラか。
つい、この傘に合わせて玄関には純白のユリやカラーを飾りたくなる。もしかしたら真紅のバラもそれなりに行けるのかもしれないが、当面は、白い花を飾り続けてみたい。
一つの品物のかたちや姿が、まわりのいろんな状況を将棋倒しに変えて行ってしまうこともあるのだなあと痛感する。江戸時代の膨大な蔵書が保管される古い文庫の最寄りの駅でハイソな奥さま対象に売られていた傘は、ブランド品でも何でもないリーズナブルな価格の品でも、私のようなもっさりした貧しい大学教員に買われても、そこはやっぱり、ただものではない。(2017.7.17.)