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(28)語り部二人

母の一周忌に横浜の従姉が来てくれた。田舎のお寺に母の位牌を持っていって、お経をあげてもらうというだけの超略式の一周忌で、参列するのも従姉と私だけである。最近太って黒のフォーマルドレスが入るかしらんと悩んでいた私に、従姉は「身内なんだし、気楽にやればいいよ」と、自分も叔母のお古の黒地にピンクの花模様のきれいなワンピースを着て現れた。私もほっとして「そうよねえ」と、これまた叔母のお古の黒地に赤と青の小さいバラを散らしたワンピースを一着に及び、二人そろって叔母の化身のようなかっこうで出かけた。
ちなみに従姉の母である私の伯母は、九十代なかばでも大変しっかりしていて縫物もしているそうだが、従姉のその服装を見たとたん「ああ、びっくりした、なおこおばさん(叔母)かと思った」と言ったそうで、母も私たちを見て叔母が二人並んでいると思っておかしかったろう。

私が叔母に溺愛されて、その分不愛想でそっけなかったり、晩年の母にあまり優しくなかったのに比べて、従姉は二人に暖かく接してくれていた。母は従姉が来るたびに、いろんな食べ物を土産に持たせ、喜んで持って帰る従姉を窓からずっと見送りながら「元気がいいねえ」と、いつも疲れてつっけんどんで、母の土産を断ってしまう私とは何とちがうのだろうという顔をしていた。叔母も私に見せない顔を従姉には見せて、昔話などもしていたようで、そういう話を聞くのが私には楽しみでもあるし、自分の冷たさの罪滅ぼしをしてもらっているようで、何だか少し救いにもなる。

法事が無事に終わって、田舎の家はもう人に貸していて入れないので、家が見える近くのファミレスで、私たちは従姉の電車の時間まで昔話に花を咲かせた。私が「母は総理大臣にでも国連の事務総長にでもなれる器だったと思うけど、実際には何の肩書も業績もない田舎のただのおばさんで終わった。でも、そういう人がたくさんいることで、日本も世界も支えられているんだろう」と言うと、従姉は「でも、おじいちゃんの病院を支えていたのは、みおこおばちゃんよ。今なら問題になるかもしれないけど、計りにさじで薬をのせて、調剤の仕事をしていたのを、私はまだ小さくて、つくえのはしに顔をのせて、ずっと見ていたのを覚えてる」と話した。「にわとり小屋の掃除を近所の子どもがしていて、おばあちゃんがお駄賃がわりに、卵を新聞紙に包んであげていた」というのも、私の知らない風景だった。祖父母と母とずっといっしょに暮らし、叔母ともよく行き来していたのに、私に見えていなかった家族の姿のいろいろが、たまにしか会わなかった従姉の口から伝えられると、自分は知らない一家の歴史が、本当に多いのだなと実感する。従姉は私のひとつ上で、私たちふたりがいなくなれば、さらに多くの映像や人声が、それを刻みこんでいた私たちの目や耳とともに、この世のどこからも消えてなくなるだろうと、あらためて感じる。

従姉は前日の夜、私の家に泊まったのだが、その時に私が昔、田舎の家で使っていた茶托を見せると、「ああ、これ、もしかしたら、ようこちゃんのお母さんとお父さんがお見合いしたときに、私の母がお茶を出したって言ってたから、その時のかもしれないね」と言い、私は「持って行って見せてあげてよ」と、四枚の内の二枚を渡した。
茶托と言うのがこれまた、叔母のものもふくめて何組も残っているのだが、中でもこの木製でまん中にうずまき模様が彫られた茶托は、私が幼いころから田舎の家の、囲炉裏が燃えていた居間の茶棚にいつも入っていて、祖父の前にはいつも出され、お客用にも使われてフル回転していた。田舎の家の日々の一部がそこにそのままとどまっているように、目にやきついていて、私はつい今も毎日、それを自分のお茶を飲むとき使っていた。

「でもこれ、すごくいいものじゃない? 全然古くなってないし、木もしっかりしていて立派だし」と従姉は感心していたが、私はあまりに見慣れ過ぎ使い慣れ過ぎていて、お手伝いさんがいきなり大学者や大女優ですと言われたように、ぴんと来ないままだった。しかし従姉が大切そうに持って帰ってくれたあとで、残った二枚を毎朝見直すと、まあ何だかそんな気がしないでもないが、でもやっぱりなじみ過ぎていて、大したものに思えない。いいものでありながら、それが身近過ぎてそう思えないというのは最高の贅沢なのかもしれないし、逆にそこがすごいのかもしれない。

その後で、また古い荷物の片づけにはげんでいたら、がらくたの山の中から、同じ茶托の一枚がいきなりころりと出てきたのも何だかおかしい。それは黒ずんで少し汚れていたので、ああやっぱり手入れしてないとこうなるのかと思ったが、何度か洗ったらすぐに他の二枚と区別がつかないぐらいきれいになってしまった。やっぱり、ただものではないのかもしれない。ということは結局は五枚組だったのだろうか。やはり、田舎の家で昔お客さん用にいつも使われていた、大ぶりの熱帯魚の絵のついた湯のみとともに、あいかわらず毎朝、私はこれを使っている。

従姉がいなかったら、この茶托も誰に知られることもなく、ひっそり私に使われ続けるだけだったろう。横浜に行った二枚がどうなるにせよ、もしも彼女が誰かにそれを紹介して見せてくれたら、茶托の歴史と運命を知る人は、また少し増える。ささやかながら、語り部たちの使命は重い(笑)。(2017.12.3.)

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カツジ猫