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(29)花の墓場

(花・シャイヨの狂女・カラー)

昔の映画鑑賞

「シャイヨの伯爵夫人」という、たしかキャサリン・ヘプバーンが主演した古い映画がある。ユル・ブリンナーが悪役を演じていて、私は彼のファンである友人につきあって、映画館でこの映画を見た。どっちみちビデオもDVDもまだない時代だった。映画館の客の入れ替えもなくて、中途から入って、見たところまで見たら出て行くのも自由だった。
私たちは「ウェストサイドストーリー」や「大脱走」の映画を、時には朝から晩まで映画館にこもって何回も見ながら、「いつか、こんなのが、家で自由に見られる時代が、私たちの生きてる間に来るかねえ」などと話していた。まだほんの五十年ほど前の話である。

映画は面白かったけど、これはもともと舞台劇で原題は「シャイヨの狂女」というのである。ちょっと頭がおかしくなった伯爵夫人が、現代社会を悪くしていると彼女が考える金持ちだの政治家だのをだまして、地下室に幽閉して殺してしまう話で、アメリカでは「毒薬と老嬢」という劇もあったが、皆、心の底のどこかでは、無力そうで罪のないおばあさんが、こういうかたちで悪人を成敗してくれないかという夢があるのだろうか。
狂女の伯爵夫人は、一部分はまともでないが、その他の点では聡明で公正な人なので(まあ、だから恐いわけで)悪人を殺すにしても、一応裁判にかけなくてはと考えて、同じようにおかしい友人の婦人たちを陪審員にして、弁護人もつけて、悪人たちを処刑するにあたるかどうか裁判を行う。ただし被告は出席しない欠席裁判である。

この模擬裁判の場面がけっこう長く、時々無罪という判決も出そうになって伯爵夫人はあせったりする。中でも弁護人の(あれ待て、検察側の証人だっけか?)男性が、悪人と言われる被告たちの生活にふれて、彼らの捨てるごみは「ほとんど花です」と言ったとき、それは被告たちに不利な証拠のはずだったのに、陪審員のおばさま方は何かまちがえて「まあ素敵」とうっとりして、被告に好意を持ってしまう、というくだりがある。例によって長い前置きですみません(笑)。

花を捨てる場所

なじみにしていた雑貨のお店が、生花とアートフラワーの店に特化したのをきっかけに、家に飾る花をよく買うようになった。気分転換にはいいもので、二軒ある家のあちこちにしょっちゅう花を飾っている。あっという間にしおれる花、驚くほどに長持ちする花、それぞれにいろいろ楽しめる。
お店が休みの日に花が切れたりすると、ときどき浮気してスーパーで安い花を買って間に合わせたりするのだが、中には、そうやって買った安物のピンクのユリが、思いがけず長く花を咲かせたのみか、最後の最後のつぼみまで、しっかり開いて、そのりんとした勇姿に思わず感動して、写真をとってしまったこともある。

花が枯れれば当然捨てる。「シャイヨの伯爵夫人」の金持ちたちみたいにごみに出してもいいのだが、何となくずっときれいに咲いていたのだから、それもなかなかしのびない。生ごみはコンポストに入れてしまうのだが、それもまたかわいそうな気がする。
何でも擬人化してしまうのが悪癖の私は、死にかけた花たちとしては、紙くずといっしょにごみ袋に入れられて焼却処分にされるのがすっきりするのか、生ごみといっしょに庭のコンポストの中で溶けていくのが気持ちいいのか、どっちなんだろうと思ったりするものだから、なおのことよくない(笑)。

一番いいのは、どこか庭の片すみに置かれて、夜露にぬれたり太陽に照らされたりしながら次第に土に帰っていくことなんだろうなと、勝手に空想した私は、しばらく庭先にそのまま置いていたりした。しかし畑や菜園とちがって、普通の庭では、それだとやっぱりあたりが雑然と荒れた感じになって好ましくない。だいたい枯れた花が土に帰るのなんて、案外日にちがかかるので、いつまでもその残骸を見ているのもきつい。

金網小屋

猫に戸外生活を味合わせるために、家の横に金網の囲いを作っている。猫だからもちろん天井付きである。そこそこ大きく畳六畳分ほどは優にある庭なので、「ライオンでも飼えますよ」と言った知人もいた。大工さんにつけてもらった棚の上を猫は歩いたり座って外を見張ったりしている。
その一角に、猫の棚でさえぎられて、ちょっと行きにくい場所がある。ちょうど三角形になっているその空間を、枯れた花や切った枝の置き場所にしてはどうかと思って、そこに放りだすようにして見た。あまりうずたかく山になっては困るなあと思っていたが、みごとに次第に枯れて腐って減って行き、一定の高さ以上にはならない。枯れ残った花の色がわずかに上に広がっているのも何だかいい感じである。
私はすっかり満足して、そこを花の墓場にした。しおれたり枯れたりした花を、台所のドアから持って出て「ありがとうね」と言いながら、そこに投げこむのは一仕事終えた者たちと手を振って別れを告げるような、一種の爽快感がある。

永遠のカラー

とは言え、まだ花の一部が元気なときは、私もしつこく切って小さい花びんに入れる。
そこそこいい値段した、徳利のような花模様のや、昔、研究室の旅行か何かで国文学の大先生が、「これええね」と言われて見ておられたのをそのあとすぐ買った、これはそんなに高くもない丸っこいのや、温泉宿の土産屋で買ったどこにでもありそうなガラスのやなど、皆小さい一輪挿しだ。
ちょっと大きめなのが、いつ買ったかも忘れた、猫の模様がついた白いベースで、金属の網が入っているので、くたびれてうなだれたバラなどを、お菓子のようにいっぱいに盛りつけて、しばらくは楽しめる。あまり大事にしていなかったので、すこしひびも入って汚れているが、まあそれもまたいい。

ところで、前に書いた、スーパーで適当に買ったのに、最後の一輪まで見事に開いて長いこと美しかったピンクのユリが、これまでの最長不倒記録と思っていたら、かれこれもうひと月近く前に、これは行きつけのお店で買った、背の高い白いカラーがいつまでたっても、まるで全然衰えない。おかげで代わりの花を買いに行く機会がなくて、そのお店にすっかりご無沙汰したほどだ。しょうがないから、それ以後に買って別の花びんにさしていた花がすべてしおれたり枯れたりした後でも、このカラーだけはまったく変わらない。

私は同じ店でこれまでも白や黄色のいろんなカラーを買ったことがある。きれいで部屋の雰囲気も作ってくれる花だけれども、その内にくたっと茎の途中から折れてくたばり、短く切って一輪挿しにさしていても、そんなにものすごく長持ちはしない。
このカラーは、二本買った内の一本が、もともと花の形が二輪重なったような変な形になっていて、面白いやつですねと笑いながら買った。少し特別の品種だったのかもしれないが、何しろその強さが尋常ではない。寒い日が続いたので、エアコンもがんがんかけて部屋の中は暑くて空気もよどんでいたはずなのに、そんなことは何のその、二本ともが鶴か白鷺のように長い茎をりんとのばして、ふちがやや緑がかった純白の花の色さえ変わらない。

すごいなあ。毎日見ていると、わけもない尊敬の念さえわいてくる。水を代えてやった方がいいのか、そっとしておいた方がいいのか、もうそれもわからないほど恐れ多い。
いずれはこの二本も花の墓場に行くことになるのだろうが、別れを告げるとき、親の死に目にも泣かなかった私が涙ぐみそうで、いささか不安になっている。(2017.12.3.)

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カツジ猫