(27)枕の大群
家の片づけで場所をとるからと早めに処分したいのに、なかなかそうも行かないのが、毛布やシーツ、ふとんといった寝具のいろいろである。「お客さん用のふとんを思いきって処分した」「法事の時の客はホテルに泊まってもらうことにして、押し入れの中身は空にした」などという話をしばしば聞く。そういう話をする時の人の口調には、どことなく勝ち誇った満足感がある。それだけ、決断も達成感も大きい物件なのだろう。
もともと、ずっと一人暮らしだから、ふとんは少ないはずなのだが、田舎の家の押し入れの古い布団をついよみがえらせたくて、綿を打ち直して新しいきれいな生地をつけてもらったりしては喜ぶものだから、けっこうな量になっていた。さらに叔母が亡くなったあとで、どっと出てきた何枚もの羽根布団や羊毛ふとん、一枚百万円の定価を六十万にまけてもらったとかいう聞くだに恐ろしいカシミアの毛布(もしかしたら、わが家では一番高価な品かもしれない)も私のものになったので、更にとんでもない状態になった。
叔母のマンションを手放し、田舎の家を整理するあたりから、さすがの私もこれではどうしようもないと判断して、ふとんの処分にとりかかった。幸い、ご近所の方に庭先で「ふとんいりませんか」と声をかけたら「まあ!ちょうど買おうと言っていたところだったのよ」と、夢のようなお返事が返ってきて、敷布団や掛布団、綿毛布やこたつぶとんに至るまで、どっさりもらって下さった。ご家族が多いお宅だったので、「娘が就職したので、いただいたふとんを一式持たせてやったの」と話して下さったりして、もうこっちとしてはありがたいなんてものじゃなかった。
ときどき、さしあげたふとんや毛布が庭先やベランダに干してあるのを見るのもうれしい。いったん人にさしあげたものは、捨てられようがどうしようが気にしないことにしているし、実際気にならないのだが、私が押し入れに入れっぱなしで手入れもろくにしなかったものたちが、新天地で活躍し大事にされているのを見ると、よかったねと声をかけたくなるのも事実だ。
たまに来る親戚や友人も、シーツや毛布を思いがけずもらってくれたりして、最終的に手元に残ったのは、押し入れ上段の半分くらいにまで減った。しかし最後に残るだけあって、それはなかなかに手ごわい。当分処分はできそうにない。
まず、田舎の家の押し入れの客用布団として昔からどっしりかまえていた、巨大な掛布団と敷布団がある。上等の生地らしく、緑と金で文字通り光り輝いている。しかも昔の綿だからずっしりと重い。
私の祖母は身体が弱く、毎日忙しかったのに、何十年もしっかり日記をつけていた。その中に、ふとんを新しく作ったからこれで安心と書いてあったりするのが多分このふとんなのだろうと思うと、とても処分できず、何だか家の守り神のように、二階の小さい戸袋に、うやうやしくそっとしまっておくことになった。
それと対照的なのが、誰もがなぜこんなものをとっておくのかわからないだろう、ふちが破れたりすりきれたりした、ぼろぼろの毛布や肌布団で、むろん人にはあげられないし寄付にも出せない、ひとかたまりで、何をかくそう、これは皆歴代の猫たちが死ぬまで私といっしょに寝ていた思い出の寝具類だ。私が最高に好きだった金色と白のキャラメルが最後まで私に抱かれて寝ていたふとんだの、賢くて常に前向きだった三毛猫シナモンが、新参猫のカツジと私が新しい方の小さな家で暮らすようになって、古い方のベッドで留守番することが多くなったころ、恨みがましい顔もしぐさも全然しなかったのに、いつの間にか襟元を鋭い爪で細かく引き裂いていた毛布だの。そもそもシナモンの爪は針のように鋭く、家具も壁もよくひっかくので、新しい家に連れて行くのを断念したのだし、彼女の具合が悪くなってから死ぬまでは、ずっといっしょに寝てやっていたのだが、そのことも含めて、どうしても片づけられない。
まあこれは最近では、古い方の家にいる灰色猫のグレイスのベッドにしいてやっている。
このベッドも、叔母と叔父がそれぞれ一つずつ使っていたセミダブルの大きなもので、やたらと寝心地がいい。泊まった友人がどこのメーカーか気になって、シーツをひっぱいでマットレスの商標を探していたぐらい、ぐっすりと安眠できる。しかし、これを一つおいただけで、部屋がいっぱいになってしまうので、今の私の二軒の家の両方にひとつずつ置いていて、古い家の方のは涙をのんでグレイスの専用にしている。もちろん絶対汚さないよう、何重にもシーツや毛布のカバーをかけているのだが、どっちが叔母のだったか叔父のだったかと、今でもときどき気にはなる。まあグレイスもいい年なので、亡くなったらこのベッドはまた私が使えるはずだ。
叔母はかなりたくさんの羽根布団や羽毛布団も遺していた。これは軽いので私も扱いやすいからおいておくつもりでいたが、大きくてふわふわのものは、入道雲が家の中に住み着いたようで、やっぱり上げ下ろしが負担になるし、そもそも場所を取りすぎる。
どれが上等なのかそうでもないのかもわからないので、数年かけて全部使ってみたが、これという差もなかったから、結局これも知り合いやご近所の方に何枚かさしあげ、比較的薄手の数枚だけを、新しい小さい家のクローゼットの棚にのせた。
これでほぼ、収容可能な枚数に落ちついたとほっとしたものの、実は思わぬ伏兵がいた。叔母の遺した枕の大群である。これまた、どれが上等かどれが古いのか見た目も使い心地も全然わからない。悪いことには私もけっこう枕は好きで、母の誕生日プレゼントに上等のものを買ってやったりしていたので、ますます始末が悪い。
肩こりを何とかしようと、カタログハウスに注文したメディカル枕も、田舎の家と自宅用と二つある。これはなぜか猫のカツジがまん中のくぼみに寝るのが大好きで、いつもひとつは占領するので、並べておくとちょうどいいのだが、それにしても枕が余る。クッションがわりに使うにも限界があり、何よりかさばるのが痛い。
私の肩こりは、いつの間にか治ってしまったので、今はどんな枕でも、そもそもあってもなくてもほとんど困ることはない。あっという間に安眠できる。それにしてもふとんや毛布とちがって、枕はなかなか人にもあげにくい。当分は押し入れに詰めこんで、何かいいアイディアが生まれてくるのを待つことにしている。
とは言え、油断ができないのは、これに限ったことではないが、物には何かのはずみで、ときどき思いがけない魅力が生まれることである。
新しい家の方の大きなベッドの足元には、やはり大きなテレビがある。これを寝ながら見るのに、通常使うメディカル枕の上に重ねて、クッション代わりに適当な枕をおいている。
ベッドカバーも叔母が使っていたもので、叔父のベッドと対のものが二種類ある。よく泊めてもらっていた叔母のマンションの寝室を思い出してなつかしいので、私はそれをとっかえひっかえ使用している。
大きめの枕用の枕カバーは私が近くの寝具屋で、奮発して上等のものを何枚か買っているのだが、洗濯を重ねて色あせてきたそれを、先日枕にかけておいたら、たまたまだが、ベッドカバーとよくマッチして、何だか非常にいい感じになってしまった。あらー、いいわねいいじゃないと浮かれて思わず何枚も同じような写真をとった私はバカだろうか。でも、ナイアガラの滝にかかる虹とか、アイスランドのオーロラのように、特に予測も計算もせず、あまりねらった風でもなく、突然ふいに出現するこういう風景というのが、家というものの醍醐味で私にはこたえられない。(2017.12.2.)