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(34)猫の首輪は捨てられない

これまでに、たくさんの猫を飼い、当然ながらその何匹もを見送った。家出して帰らないままになったのが数匹いるのは今も気にかかるし、自分が先に死んで、あいつらはどうなるのやらと心配しながら息を引き取るのもいやなので、私の目の前や腕の中で死んでくれるのは、むしろありがたいと思っている。
八歳の若さで白血病で死んでしまった一番のお気に入りの猫キャラメルは、さすがにちょっと残念だったが、それでも私は冷たくなった彼を抱きながら、もうこれで誰も何も彼を傷つけることはないのだと、どこかでほっとしている自分に気づいていた。何しろ私は彼を溺愛していたから、万一誰かに誘拐されて、しっぽでも切られて送られてきたら、彼をとりもどすためには家族でも友人でも同志でも国家でも、あっさり売り渡すだろうと確信していて、ひそかにびびっていたのである。

猫に首輪をつけるのは飼い主の自己満足で、猫には負担になるだけだと言って、首輪をつけない人もいる。そこのところの真偽のほどはよくわからないが、私の猫たちは、首輪をあまりいやがる風はなく、むしろそこはかとなくうれしがっているように見えた猫や、ぶらぶら重い迷子札が、エサを食べるたび食器にあたってかちゃかちゃ鳴ってもまるで気にする様子がなかった猫もいたし、何より行方不明になった時の手がかりにと思って、どの猫にも私は首輪をつけていた。しかし中には、やっぱり嫌いだったのか、つけたら速攻ではずす猫もいて、何回かそれがくりかえされると、私はそのままにすることにしていた。

キャラメルの場合は2歳でエイズの陽性と診断され、その後何事もなく元気に育って七キロの巨体になり、友人知人の皆から「誤診じゃないですか」と言われはじめた矢先の七歳の暮れに突然白血病になって、みるみるやせてしまい、「ひな祭りまでもつかなあ」とお医者さんに言われたのを律儀に守って3月2日の夜明けに、私の腕の中で息を引き取った。彼の死ぬまでやわらかくきれいで、いい匂いをさせていた毛皮の中に指を埋めて、わき腹の下のかすかな鼓動が次第に弱って完全に消えるのを、私は最後まで確かめていた。

彼の病気はユーカリエキスが効くというので、それをつけた布をずっと首輪に巻いてやっていた。そういう点でも首輪は必要だったのだ。
彼の首輪や切り取った毛の一つまみは箱に入れてとっているのだが、少し硬くて重そうだったので、早めに外して取り替えた首輪などは、しまいこんだまま忘れていたのが、この前出て来た。べっこう柄のちょっと高級そうな首輪だ。

キャラメルが死んだ直後に拾った三毛猫シナモンも、しっかり者の立派な猫で、年を取ってもきれいで利口だった。彼女もやがて病気になり、私に抱かれて死んだが、元気な時から首輪が好きでなかったらしく、いつでもすぐに落としてきた。赤い鈴のついた花模様の首輪を庭で拾って、いつかまたつけてやろうと郵便受けに放りこんでいたのが、死んだあともずっとそのままになって、新聞を取るたびに彼女がそこにいる気がした。

まだ元気でわが家の最高齢を更新しそうな灰色猫のグレイスは、去年14歳の長寿のお祝いをしてくれると動物病院から電話があって、私は記念にと思って、和風の布製のかわいい首輪を新しくつけた。黄色と赤の花がくっついているのが、なかなかにかわいかった。古い紅色の皮の首輪を捨てようとしたら、古ぼけた見た目よりは何だか手ざわりがよくて上等そうで、ついそのまま、そのへんの本棚の上にのせた。
猫の首輪は、せめて元気で生きている内に捨てなければ、遺品になるとなかなか捨てにくい。それがわかっていてもつい、そこにそのままおいていた。

私は田舎に二軒の家を持っていた。築100年に近い、古民家になりそこねたような大きな家は、壊さなくてはならないかなあと覚悟していたが、友人の一人が気に入って買い取ってくれた。母の隠居所にと、その隣に建てた築10年の新しい家も、最近借りて下さる方が見つかって、とてもきれいに使って下さっている。自分の運の良さが信じられないほど、その成り行きに感謝しているのだが、とにかく、二つの家にあった荷物はすべて、引き上げたから、いまだに片づけに追われる毎日なわけだ。

新しい家にくっつくようなかたちで、古い物置が建っている。もともとは私の書庫として作ったもので、リフォームは一度したが、白アリにやられたりして、がらくた置き場のようになっていた。ここは当面、私が運びきれなかった荷物を入れるのに使っていいということになって、いわば私の田舎の家の、最後の砦になった。

せっかくだからと私はありあわせの家具を適当に配置し、それなりに居心地のいい空間にしようとした。いずれは友人に使ってもらうことになるだろうが、余った本などはおいたままでいいと彼女が言ってくれたので、地域の人の図書室にしてもらってもいいかと思って、当面使わない本などを運びこむと、これが不要な本を整理する、かっこうの場所になって、片づけが画期的に進むための、方向性が非常にうまくつけられた。

私はますます図にのって、母といっしょに最後までこの家を守ってくれた、きじ猫のモモちゃんと、物置のすぐ外にある梅の木の下で、今いっしょに暮らしているアメショー風の長毛種カツジ猫と最初に遭遇した(梅の花がほころびかけた、雪のちらつく寒い日に、片づける荷物を運んでいた私の足元に、手のひらに乗りそうに小さく、やせこけた子猫のカツジが、にゃああと鳴いて近寄って来たのだ)のとを記念して、この建物の名を「桃遇庵図書室」と名づけ、表札を作って家の中の壁に貼ることにした。トイレや水道がないのだが、携帯トイレでも使えばいいし、くつろぐには悪くない部屋である。余ったラグやカーテンや絵の額などを活用して、まだまだ残るがらくたを整理しながら、それなりに楽しく遊んでいる。
ひょっとカツジ猫を連れて帰ったときのために、猫用のトイレも一応部屋の隅においた。そうするとまたまた私の遊び心が発動して、自分の家の近くのモールに行ったとき、まったくの衝動買いで、猫のぬいぐるみを三匹買いこんでしまった。

猫好きに猫グッズを贈るのは、よくよく気をつけないと失敗する。友人知人がかわいいと言って買ってきてくれる猫の置き物やぬいぐるみで、私の気に入るものはなかなかない。かわいければいい、高ければいいってもんじゃないのである。このぬいぐるみは、特別なメーカーのものでも何でもない、ありふれたおもちゃだったが、かたちや手ざわりや重さの具合が、実に猫らしくて、ものは絶対ふやすまいとしている私が、ついついオレンジ色の一匹を買って桃遇庵に運び、窓の下の、布団を重ねてソファに見せかけた寝床の上に、クッションをのせて、腹ばわせた。その後で淋しそうだからと更に三毛と灰色を追加し、つまりは色違い全部を三匹までも買うはめになったわけだ。

この家を最後まで守ってくれたモモちゃんの魂(彼女は結局、私の町の家に連れて来て、それから程なく体調を崩して亡くなった。18歳近い高齢だったのではないかと思う。新しい環境でも平然と落ちついていたから安心していたのだが、実は高齢猫は環境の変化にすごく弱いと後で知って、私は後悔のほぞを噛んだ)が、ここでたゆたって、くつろいでいてくれたらいいとも思って、彼女と母の写真などを棚に載せたりしていたのだが、何となく、いつの間にかもうひとつ、私の心に生まれていた空想があった。

そのころ、つまり2017年の終わりごろ、埼玉で男が猫をとらえて虐待し、熱湯をかけて少なくとも13匹を次々に殺して、それをネットの画像にあげて、見たものどうしで楽しむという事件があった。大きな衝撃と反響を呼んで、ネットでは実刑判決を求める署名がこれまでの同種の署名では最高の20万余筆に達した。
私はその男のしたこともさることながら、ネットで猫が苦しんで死んで行く画像を見て興奮し快感を得ていた人たちのみじめさが、つくづく汚らわしかった。自分の指がそんな人間たちに触れるのをいとわなければ、彼らの目をひとつ残らず、えぐりとって捨ててしまいたかった。

死んだ猫たちは写真で見ると、皆、愛らしく美しかった。恐ろしげな汚いノラ猫ではないことに、私は一層の加害者たちの闇を感じた。「生き物苦手掲示板」というのが彼らの動画鑑賞サイトらしいが、「苦手」などということばを使うのも冒涜だとしか思えなかった。苦手な人なら、猫でもヘビでも目をそらし無視して近づかない。痛めつけて喜ぶのは、愛情と関心のゆがんだ表現だ。拒否され嫌悪され無視されることを恐れる臆病者の情けない泣き言だ。
主要メンバーの一人のハンドルネームが、動物愛好家の畑正憲氏の名前をもじったものであることからも、そのことがみえみえだ。動物と、動物愛好家への羨望と嫉妬がそこには透けて見え、そのことに自分が気づかぬみっともなさと滑稽さも、あまりと言えばあまりなまでに何から何まで愚かしかった。

苦しみぬいて死んでいった猫たちの魂が、まだどこかにあるのなら、ネットの署名に「助けられないでごめんなさい」と書きこんだたくさんの人たちの涙の中に、腕の中に、彼らの安らぎの場所はたくさんあるだろうけれど、できたら、この物置の静かな陽だまりにも、彼らに立ち寄ってほしかった。家を借りて下さっているきれい好きなご家族は、天気のいい日には窓を開けて空気も入れ替えて下さっているという。田んぼを吹き渡ってくる風、遠くに見える青い山、その中で、このぬいぐるみの猫たちを依代として、しばしくつろぐ場所のひとつにしてくれればいいなと思った。もちろん、他の不幸な生涯を送るしかなかった、たくさんの、いろいろな動物たちも。

テディベアに魂が宿るのは、持ち主の手で首にリボンを巻かれた時だと、どこかで読んだことがある。その真似をするわけではないが、私は自分の飼い猫たちの使った首輪を、ぬいぐるみの猫たちの首に巻いてやることで、更に彼らのパワーが増すのではないかと何となく思った。それで、三つの首輪を持って帰って、ぬいぐるみの猫たちの首に巻いてみた。大きさがどうかと思ったが、ちゃんと調整ができて、首尾よく彼らに装着できた。廃物利用としては、そう悪くないのではないだろうか。

ところで先日、私がその物置を片づけていると、借りているご家族の一員で、ウサギも捕って来るという、勇ましい牝猫さんが、点検でもする風情で、堂々と入っていらした。部屋の中を歩き回っている内に、どこに行ったか見えなくなり、探しに見えた奥さまと、その内出て来るでしょうからと笑いあって、そのままにして私は帰った。昔いっしょに暮らしていた牡猫を真似て、立っておしっこも飛ばすようになったと言う、フェミニズムの闘士みたような猫さんで、かわいいがめっぽう強そうな顔をしていた。
桃遇庵に幸あれ。新しい命の風も、そこには確実に吹き始めている。(2018.1.24.)

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カツジ猫