(36)遊びごころ
蚊取り線香というのは、とても美しくかわいらしいかたちをしている。私が子どものころは、多分家にあった古いお皿の上で、今も変わらない小さい金具にはまって、煙をくゆらせていた。広い家のあちこちに、その姿があったので、つつじと石灯籠を前にした玄関わきの縁側で従姉たちと花火をしながら、祖父母と西瓜を食べている風景や、井戸のポンプがある裏庭で、ほたるが飛ぶのを見ながら、ぼんやりしていた自分の姿、二階の座敷で集まって何か相談をしていた村の人たちの影などが、煙とまざって、とりとめもなく浮かんで来る。
私が高校のころか、もっと後に、一時期、金具を使わずに石綿のようなものの上に直接おいて燃やすタイプも出てきていた。何だかそれは、あまり風情がなかった気がする。
家を離れて一人暮らしをしはじめてからは、それほど蚊取り線香を使った記憶がない。まだエアコンも普及していないころで、蚊をよせつけない密閉した家でもなかったはずなのに、網戸で充分、虫よけになっていたのだろうか。
そう言えば、私が子どものころは、寝るときには大きな蚊帳をへやいっぱいにつっていた。祖父母や母と寝る和室の蚊帳は濃い緑色で、従姉たちが夏休みに来て、二階の大きな座敷で泊まるときは、さらに大きな、青い色の蚊帳をつった。
そして、私と母が寝る部屋には、多分祖父が昔、中国で病院を経営していたころの名残りではないかと思われるような、丸い天井から天蓋のように網がたれさがる白い蚊帳がつられた。あんなかたちの蚊帳は、映画やドラマや絵画の中でも私は見たことがない(ネットで検索したら、今の「蚊帳天蓋」に少し近いが、もっと単純ですっきりしていて、品があった)。天井の電灯に照らされて、それは白く輝いていた。
どの蚊帳も、ふしぎな空想の世界に私をいざなう、心躍るものだった。緑の蚊帳をつるす前やたたむ前に、それが布団の上に広がっている時は、それを海に見立ててもぐったりかきわけたりして、泳ぐまねをして遊んだ。白い蚊帳は雪の中の洞穴で暮らすイヌイットやアザラシになった気分になれた。いつもの見慣れた部屋が、一気に異空間に変わり、物語の世界にいるようだった。
映画「ホリデイ」で、ヒロインの一人が招かれる、恋人の子どもたちの部屋に作られていたテントの雰囲気は少し似ているかもしれない。しかし、私が楽しんでいた中で、一番小さい白い蚊帳でも、あれよりはずっと高く、まっ白な柔らかい網が四方に広がる情景は、はるかに幻想的だった。
蚊帳は皆、いつの間にかどこかへ行って、見えなくなった。緑色の蚊帳がたたまれて、押し入れの下の方に長いこと置かれていたのは何となく覚えている。もうそれは魔力を失い、輝きもない、静かな廃墟か、大きな恐竜の死体のようだった。やがて、それもどこかに行ってなくなった。
でも、あの、日常の生活空間の中に夜な夜な出現した、海や森や空のような胸躍る世界は、今も私の全身にありありと、刻みこまれて残っている。蚊取り線香の記憶が私の中でそれほど強烈でないのは、それが蚊帳のもたらした世界ほど、壮大でもなく現実離れしてもいなかったからかもしれない。
むしろ、記憶に残るのは、このところ十年ぐらい、家を建てたり家具をそろえたりする中で、蚊取り線香を何とかカッコよく使えないかと、工夫しつづけたことである。
今もよく見る、蚊やり器と言えば代表的な、豚のかたちの置き物は、わが家には昔はなかった。私が中学か高校のころ、叔母が持ってきてくれたのが、とても新しいしゃれたものに思えたので、明治時代か戦前を舞台にした演劇を見て、その豚の蚊やり器が使われていたのを見た時は、時代考証はどうなってるのとあきれたが、実際にはかなり昔から、あの豚さんは活躍していたらしい。
その豚の蚊やり器にしても、それ以後いくつか買った、陶器の同種のものにしても、けっこう煤や脂で汚れるし、香炉のように蓋をしたのでは、あの蚊取り線香のかわいいフォルムが見えないしと、私は不満だった。
それは豚の蚊やり器もそうなのだが、あのきれいなうずまきを、かくしてしまっては意味がないではないかと思ってしまうのだ。
湯布院の山の上の、猫がわさわさ店内にいる、風変わりで楽しいギャラリーが開いた、ある作家さんの個展で、奇妙なかたちの蚊取り線香立てを見かけたときも、そこそこ高かったこともあるが、それ以上に、もう裏切られるのはいやだと思って、その時は買わなかった。
帰ったあとで何日かして、どうしても気になり始め、ちょうど自分の誕生日が近かったこともあって、自分にプレゼントするかと、電話で注文して、引き取った。
蚊取り線香をひっかけて使うかたちになっていて、まん中の細い突起に蚊取り線香の中心の切れ目をはめこまなくてはならないから、割れてしまいそうでちょっと心配したが、そんなこともなかった。ひょっと割れても、そのままひっかけておけばいいのである。線香の灰は、半月形の受け皿の中にたまる。簡単にはずして捨てられるし、洗ってもいいが、汚れたままでも風情がある。
これが笑えるのは、蚊取り線香をつけなかったら、単にオブジェに見えるのである。いろいろと作者はバランスその他、相当工夫し苦労したにちがいない。それを楽しんで、ばかばかしいことに熱中した様子が、そしてみごとに成功して、得意になった気分が、凝縮された熱気のように伝わってくる。実用的だが、芸術で、真剣だが、遊び心がある。つまり、蚊取り線香そのものの精神で、私の好みそのものでもある。
もっと売り出せば、豚の蚊やり器以上にメジャーにならないかなあと思うが、好きな人は限られるのだろうか。私には、どまん中ストライクなのだが。
ところで、私が蚊やり器を探し続けた原因は、実は家じゅうのがらくたを片づけていたら、いつのものかもわからない蚊取り線香が、けっこうあちこちから大量に出て来たからだ。
多分、十年ほど前に死んだ、聡明で我慢強い優等生のような、大きなまっ白いスピッツを、犬小屋代わりに広い物置に暮させていて、彼が蚊にさされたらかわいそうと毎年買っては使い切らずに残したのだろう。ほこりをかぶった、古い紙箱に入ったままで、どこかに寄付するにしても、効果が残っているか怪しい。と言って捨ててしまうのも惜しい。自分で使うしかなさそうだった。
しかし、かねがね思うのだが、何だって殺虫剤や防虫剤のたぐいは、どれもこれも、あんなに見た目のデザインがどぎつくて悪趣味なのだろう。ゴキブリホイホイだの何とかジェットだの、あの紙のケースや噴射缶のデザインが、もちろん変に甘ったるい少女趣味とかだったら、もっと困るけど、すっきりとカッコいいスタイルにしたら、絶対バカ売れすると思うのに。
お洒落なキッチンや居間に置くのに、ゴキブリホイホイの箱の模様は、どう考えてもギャグだ。そういうお宅にはゴキブリなど出ないのだと言ってしまえばそれまでだが、実際には相当にインテリアにうるさい人の家だって、ゴキブリは出る。どうして誰も文句を言わずに、あの周囲とはそぐわない缶や箱を、黙って使っているのだろう。殺虫剤という名をもっと感じのいいものに変えようと、製薬会社が検討をはじめたそうだが、名前より先に、あの容器のデザインをもっと何とかすべきじゃないのか。
蚊取り線香の紙箱の模様はもう少し伝統的な風格があるが、それだって、あの本体のうずまきの無駄のないかわいいカッコよさに比べたら、あまりに差がありすぎる。
それとも、次第に時が立てば、あのようなデザインのもろもろも、レトロな風情ということで価値が出て、美しいとほめそやされる日が来るのだろうか。
とにかく、ほこりにまみれて汚れた紙箱入りの蚊取り線香を、部屋のすみに積み上げて、ちびちび使っていると、いかに蚊取り線香の本体と、お気に入りの蚊やり器がお洒落でも、これではやっぱり興ざめだという気がして、当座でもいいから、蚊取り線香を入れる容器が欲しいと思いはじめた。
捨てるのは惜しいかなと、つい残していた、お菓子が入っていたらしいピンクの丸い箱に入れて見たら、何とあつらえたようにぴったり入った。
もう何個かあればなと思っていたら、近くのスーパーで、まさにそのピンクの紙箱がクッキーをつめてリボンをかけて売られているのを見つけた。自分で好きなクッキーを選んでつめるのが売りらしかったが、私は箱がほしいので、クッキーは一応選んだが、リボンも花もつけないでいいと言ったので、店員は不思議そうにしていた。
それでもまだ、蚊取り線香が余るので、やはりクッキーが入っていたブリキのかわいい缶を試してみたら、惜しいところで入らない。斜めにしたら入るので、そうするかなとあきらめかけて、ふと気がついて、蚊取り線香のうずまきを組み合わせてはめこんで、二本いっしょにしてあるのを、ばらして一本ずつにしてみた。すると一まき分小さくなり、みごとにちゃんとおさまった。
すっかり気をよくした私は、ついでに、そのへんから出てきたラベルの余ったのをはりつけて、やっぱりそのへんから出てきた古いサインペンで、うずまき模様のマークをつけた。これなら夏がくるまでに、部屋の隅に並べておいても、まああまり違和感はない。
しかし、遊び心もいいけれど、こんなことしていたら、片づけはいったいいつ終わるのだろうか。(2018.1.28.)