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(37)どこまで育つかな

「ゆかいなホーマーくん」という児童文学がある。私は子どものときに岩波少年文庫で読んだのだが、今もまだ出ているようでうれしい。アメリカの田舎町に住むホーマーくんと周囲のおとなたちのお話で、ドーナツの機械が故障して際限なくドーナツが出て来たりするのが、いろいろ楽しかった。挿絵も素敵で、どことなくノーマン・ロックウェルの絵の世界を思わせる。

その中で、ホーマーくんと仲よしの二人のおじさんが、それぞれ糸の切れ端を結んでつないで巻いて玉にした巨大なボールを持っていて、どちらのボールが大きいかというか、糸が長いかを比べようということになり、それをほどいて道路に並んで伸ばして行くのが、町の一大イベントになる。まあ、そんな話ばっかりなのだ。でも、それでいて、これがなかなか、ひとすじなわでは行かないのだ。

二人のおじさんは、実は長年、ご近所の一人の熟年女性(と言ったって、もしかしたらあの人三十代ぐらいだったかも)に恋している。毎週ちがった日に訪問してお茶を飲んだりしているが、プロポーズまでには至ってない。それで、この糸玉競争に勝った方が、プロポーズする資格を得、もう一人の方はあきらめるということに二人の間では約束ができている。

だってそれじゃ、その女性の気持ちは?ということになるだろう。ものは糸玉だけど、勝手に男同士で決闘して女性を得ようとするなんて、どうなんだろう。
子どものころの私は、そんなことは気にならなかった。と言うより中年の恋模様なんかより、糸玉のすごさにばっかり目が行っていた。何しろ入口をこわさないと外に運び出せないぐらい巨大な糸玉だったのだ。

そして今思っても、つくづくこの話がしゃれているのは、もちろん二人のそんな約束は知らない(のかな?)、当のお目当ての熟年女性が、自分も手芸のときに出た毛糸やなんかで同じような糸玉を作っているから、ぜひ競争に参加させて下さいと申し込んできて、しかたないからおじさん二人は承知して、三人の勝負になるという展開だ。

いよいよ糸玉がそろってお目見えしたときに、女性の糸玉を見たおじさんの一人が「ああ、こりゃきれいだ。虹の色が全部入ってる。でも巻き方がゆるいぞ。げんこつがすっぽりはいっちまうぞ」(だから、糸の長さじゃ負けるだろう)とか言う。もうひとりのおじさんは、ゆううつそうに「ああ、でも毛糸ってやつは、よくのびるからなあ」と言う。私はこの本はものすごく愛読したというわけでもないのに、そういうせりふを、今でもほぼ覚えているのが、やっぱりこの作者はすごいと思う。

勝負はたしか何日かかかって行われる。おじさんたちは、並んで道路に糸をのばして行きながら、あれやこれやとチェックしあう。女性は最後の日になると、もうかなり小さくなった糸玉をかごに入れて腕にかけて、日傘をさして優雅に少し先を歩いて行く。
いよいよ最後に近いとき、おじさんの一人が、「署長(おじさんの一人は警察署長だった)の玉は胡桃のカラに巻いてあるぞ。わしのはしんまで糸だけだ!」と勝利を確信して叫び、見物人も歓声をあげて彼を称える。アホらしいみたいだけど、それ言うならしょせんは野球や相撲やラグビーやサッカーやカーリングだって、そんなもんではあるまいか。

そしてその時(今さらですが以下ネタばれです)、涼しい声で向こうの方から「わたくしが勝ちました!」と、くだんの女性が宣言する。彼女の糸玉は最終日には他の二人よりずっと小さくなっていたのに、なぜか彼女は一番遠くまで糸を伸ばして立っていたのである。

どうして彼女が勝てたのか、子どもの私には読んでいてわからなかった。私はそういうところは本当に頭のいい子ではなかったし、今もそうだ。そうやって結局、女性が好みの男性を自分で決める権利を確保した痛快さも、そのときはよく理解していなかった。でもわからないなりに、ただ糸玉競争の面白さだけで充分に満足した。

母はもちろんわかっていて、その女性のトリックを笑って面白がっていた。私はここではそのヒントを書いてないから、気になる方は原作を読んでいただくしかないのだが、作者はちゃんとわかるような描写をしている。でも、私のように気づかない子どもも多かったはずだ。そういうところ、この小説は、まったく読者を甘やかしてはいなかった。まるで、江戸時代の前期戯作(秋成や京伝がその代表)のように「わからない人はついて来ないでいいよ」みたいに、しれっとスマートにほのめかしていて、「どんなバカにもわからせないでおくものか」という、後期戯作(馬琴や一九がその代表)の説明過多の泥臭さはまるでなかった。

作者は決して別に進歩的とかいうのではないだろうけど、たとえば母が感心し喜んでいたのを今でも覚えているが、例のドーナツ事件でも、最終的に得をするのはアフリカ系の子どもだったように、少数者や弱者への応援と支持が随所にあって、それがアメリカの強さでもあったのだろうと、あらためて思う。

なぜ、もうずっと忘れていた、この小説のことを私が思い出したかって?
それは、家の中を片づけていて、あちこちから出てくるリボンや紐の始末に困ったあげく、とうとう、このおじさんたちやご婦人のように、かたっぱしからとにかく結んで糸玉にし始めたからだ。

何しろもう、いただくプレゼントや花束のきれいなリボンや、自分で買ったいろんなものについてたお洒落な紐を、捨てられないで、かごや箱や引き出しに入れていたら、どんどんたまってどうしようもない。
せいぜい、カレンダーをかける時に再利用してたが、そんなの焼け石に点滴みたいなもので、まったく減って行かない。
結んで丸めたりしたら、ますます使えなくなるのはわかってる。でも、どうせ使わないんだったら、同じだろうから、面白い方がいいと、最近ではせっせと糸玉を太らせるのにはげんでいる。

一応、きれいなリボン類と、ただの紙紐はわけた。後者はそのまま、普通に新聞紙や古紙を縛って出すのに使えそうだし、リボンの方は、まあ奇妙な飾り物にはなるかもしれない。今のところ、洗面所のかごに放りこんでいるが、だんだん大きく育ってきている。その内クッションカバーに押しこんだら枕か足台がわりになる可能性もある。
ひょっと、私を争って求愛の権利を獲得しようと勝手に決めたがる男性たちが現れたときに、くだんのご婦人のように戦いに参加して自分の権利をかちとる役に立つ…ことなんか、あるはずもないけど、まあそういう心構えを失わないでいるためのおまじないとして、今後も糸玉の巨大化につとめて行くこととしたい。

ただ、この方法の難点は、いったん始めるとやめられなくなって、いつまでも座りこんで、せっせせっせと紐を結んではまきつける、単純作業に精を出しはじめて、妙な時間を費やしそうになることなのよね。(2018.1.28.)

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カツジ猫