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(39)かつこつ

私はふだんは我ながらびしばしと買い物をし、余計な感傷にはひたらない。しょうもないものを買う時でも、目標と基準ははっきりしているので迷わない。
ただ、一年に一度か二度は、何だかぽわんとした気分で買い物に行くことがある。去年の秋の終わりだったかと思うが、足元がうすら寒くなったので、足首まである暖かい長いタイツを買おうと思った。長い年月使っていたのをかなりたくさん持っていたのだが、もう古くなったようなので一気に全部処分して、数本だけ新しいのを買うことにした。ちょうどよく行くスーパーでせっせとためた500円の買い物券があったので、それを使ってしまおうと思った。
さしせまった買い物でもなし、特に難しい条件もないから何となく油断して、のんびり無防備で出かけたら、そのほんわかした気持ちにいきなりざばっと冷水を頭からぶっかけられて目が覚めた。

私が悪いのか相手が悪いのかいまだによくわからない。めざした売り場はもちろん安い下着の売り場で、同じようなタイツがずらっとかかっていて、XZかYBかなんかもうまったく忘れたが、ちょっと見たのでは意味がわからない記号がいろいろついていたので、私はそれをいくつかレジに持って行って、これはどこがちがうの?と聞いた。
レジが特に混んでいたのでもないし、私が割りこんだのでもない。しかし対応した若い女店員は、どう考えても明らかに「そんなこともわからないのかあんたバカか、このぼけ老人」みたいな口調と顔で、サイズと長さのちがいだと教えてくれた。一応私も持って行く前にかなり調べたのだが、LとかMとかセンチとか、手がかりになりそうな表示は何もなかったのだよ。

まあ何か虫の居所が悪いのか、もともとああいう顔と声なのだろうと思ったから、私は礼を言ってまた選び直して何本か持って行った。彼女は私がまちがってストッキングをひとつまぜていたのを「これでいいんですか」みたいに教えてくれもしたので、一応親切だったかもしれない。だがとにかく、すべてのオーラが「おまえ何しにここに来てるんだよボケ」風の強烈さで、私がもし障害者だったり外国人だったり禁治産者だったり生活保護の受給者だったり暴走族の若者だったり見るからに金持ちだったり見るからに貧乏そうだったりしたら、きっとああ私はここにいるべき人間ではないと勝手に思い知ったのではないかと思う。実際には(多分)私の外見はどう見ても一番そういう売り場にいそうな、普通のおばさんだったのだが、それでも何か来る場所をまちがえたのかと不安になったほどだった。

他のことでもそうなのだが、私は侮辱されたり傷つけられたりしたときの反応が遅く、下手すると数年後に気づいたりして「あいつ私をあなどってるな、なめてるな、どうでもいいと思ったな」と、もうくやしがるのも期限切れみたいな、ただの確認をしたりする。よくしたもので、恋愛相手でも友人でも、そう気づいた相手とはその時点ではもう縁が切れていることが多いので問題ないが、ひょっとつきあいが続いていたら、相手としてはけっこうなタイムラグでさめたり遠ざかられたりするから、さぞかしわけがわからず困るだろうなと反省はする。

そもそも昔だったら、自分に何か問題があるのだろうかとかなり長いこと考えこんだりしたものだった。最近はさすがにそれはなくなって、だからその時も、どっちが悪いのかもほとんど考えず売り場を離れた。
あ、私は気にしている、傷ついているとわかったのは、その足ですぐそばの高い下着の専門店に入って、同じようなタイツの十倍するほど高価なのを数本買っている自分に気づいた時だ。当然ながらそこの店員は私のことを下にも置かず丁寧な、まあつまり普通の応対をした。自分がおかしいのではないか、世間の基準はどんなんだったか、とっさにそうやって私は検証しようとしたのだろう。

そこのスーパーは、お客さまのご意見というのを書きこめるコーナーがあって、そのご意見のメモの紙を、一時話題になった、どっかの生協食堂の掲示板みたいに、はりだしては店がご回答している。ときどき通りがかりに見ると、そこまで書かんでもと思うぐらい店名も店員も名指しで、態度が悪い感じが悪いと客の不満が上がっている。
あの女店員が、特に私にではなく誰にでもあの調子だったら、絶対誰かが書いてるだろうなと思って、そのコーナーをちょっと見たくなったけど、あまりにしょうもないような気がして近づかないことにしておいた。

私は最近太ってきていて、大きなサイズを買ったのに、タイツはかなりきつかった。もし快くフィットして快適だったら、それきり買ったときのことは忘れたのかもしれないが、はくたびに感じるしめつけやずれる感じが、毎回あの女店員の対応を思い出させて、微妙に気分が悪かった。それも時間がたてば忘れて慣れたのかもしれないが、ちょうどクローゼットの衣類を処分していて、はんぱでないパンティストッキングの山の始末に困っていたこともあって、私はもういっそタイツの代わりに毎日パンティストッキングを防寒用にはいてはどうかと考えるにいたった。

実のところ私のパンティとパンティストッキングの数ははんぱなく多い。以前に田舎の家を片づけるとき手伝いに来てくれた、気心の知れた友人に、雑貨や食器をつめるのに下着で包んでくれと頼んだことがある。友人は文句も言わずに黙々と作業をしていたが、途中で一度「私は黙ってやってるけどさ、あんたのこのパンティの量ってものすごくないか」と、たまりかねたように聞いた。「うん、自分でもあらためて驚いてる」と私は応じた。
言い訳すると、下着もストッキングも自分のものだけではなく、叔母が買いそろえていた、ものすごく上等の新品も多くて、封を切っていないのはかなり人にもあげたのだが、それでも相当の量になるのだ。

夏はサンダルで素足だし、冬はタイツとソックスの上にパンツをはくから、ストッキングなどめったに使わない。ちなみに私がスカートをはいて会議や講演に出かけるときは、勝負や決戦のときで、女性らしいいでたちは私の戦闘服でもある。もっと戦闘態勢のときは化粧をするが、まあそれはめったにない。
だからストッキングをはく機会は本当にない。その手伝いをしてくれた友人は毎日きちんとストッキングをはくらしく、私はしめた、引き取り先ができたと喜びかけたが、彼女は大柄な人で、叔母のサイズではだめなのだった。
そういうわけで、クローゼットや衣装ケースの相当な部分を新品や使いかけのストッキングがしめていた。

男性というか使わない人には想像もつかないだろうが、ストッキングというのは、あんなに薄くても、めちゃくちゃ暖かく、タイツをはくのと大して変わらないぐらい防寒効果がある。もうこうなったら、とにかく毎日スカートでなくてもパンツの下にはきまくって、破れたら捨てて行ったらかなり処分できるのではないかと考えた。
さっそく、衣装ケースを点検して、あらゆるストッキングを引きずりだしてまとめた。中には破れているものも多く、防寒用のタイツがわりにはこうと思ってとっておいたのもあるが、私は下着もストッキングも、捨てる前に一応洗ってやることにしていて、そんなことしていると、どれが破れているのかわからなくなるというのも減らせない原因になっていた。これからは、もう洗わないままで、でも一応ていねいに封筒や小さいビニール袋に入れて捨ててやることにして、私はストッキングをタイツ代わりに使う新体制に入った。

ところが、これがいくつかの他の変化をもたらした。
まず私はせっかくだからストッキングを使いやすくしようと、洗面所の壁に突っ張り棒をはりめぐらして、買い物用に使っていた、薄い布袋をいくつも下げて、それにストッキングをつめこんだ。使ったものは洗って、それ専用の袋に入れる。破れたのは、そのまま捨てる。
洗面所は、前にも書いたが、湿気が心配なので、大事な絵などはかけられない。だから、どういう風な雰囲気にするかは、ずっと決められないでいたが、この機会にいっそ思いきりぶっ飛んだ空間にしてしまえと、鏡のふちに這わせていた、フェイクのつるくさを、またいくつか買って、突っ張り棒に巻きつけてみたら、これが面白くていい感じだった。

それならと、家のあちこちにあった、どう使おうかと迷っていたものをいろいろ集めて、壁にレイアウトしてみた。特に私を喜ばせたのは、行きつけの雑貨屋でずっと以前にオーナーが、「これ好きなんだけど」と言いながら在庫一掃みたいなセールで、安く売ってくれた、針金細工のニワトリとブタ(これだけがなぜか二匹)とウサギで、私も気に入ってはいたが、どうもうまい飾り場所がなく、長いこと田舎の家の窓においていた後は、自分の家の柱に適当にかけておいたのを、絶対にこの雰囲気に合うような気がして、正面の壁の天井近くにかけたら、ものすごくはまって、カッコよくなったことである。

もう一方の壁には、去年、母の初盆の時に帰省する途中、何だか疲れて立ち寄った道の駅で、地元の人が作ったらしい、洋服型のタオルで、ああトイレにこういうのがいると思ってたとふらふら買ったのだが、もったいなくて使えず、そのままにしていたのを飾った。針金細工ほどではないが、まあまあそれほどおかしくもない。
実家に近い田舎の神社に毎年初詣に行く。橋のたもとにある店で帰りにいつも甘酒を飲む。その隣の店が盆栽や籐のかごなど売っていて、ある年そこで小さいかごを買った。だがこれもうまい使い道が見つからず、実家の玄関の隅の柱に、何となく場違いな感じでかけていて、家を売ったときにがらくたの中に入れて持って来ていた。それもここにつるしたら、うまく溶けこんでくれた気がする。
鏡の上には、まだ私が幼い時に、母が外国の人と文通していて、送ってきたピンクとグリーンのレースの匂い袋をかけた。色あせているがまだきれいで、中身とリボンがなくなっていたピンクの方には、新しく私がリボンを通し、別の古いがらくたの中から出てきた古いお香を押しこんである。

これまで、どこかぱっとしなかった物ばかりが、すべて魅力的に溶け合って生き返ったように輝きを増した、この奇妙な空間は、ひとつまちがえば救いようなく悪趣味になりかねない、危ういバランスを保っている。
その基礎をなすのは、天井近くの四方にはりめぐらせた突っ張り棒と、ストッキングをつめて、そこにつるした袋類だが、こんな仕組みが可能なのは、ひとえに、ものがストッキングで軽いから、突っ張り棒でも安心だからだ。そういう点では、目的と用途が作り出した奇跡のインテリアでもある。

この風変わりな洗面所が私はすっかり気に入って、せっせと毎日、ストッキングをはいては、破れたのを捨て、まだ使えるのを洗って乾かし、かごや袋に入れる作業にいそしんでいる。
身体の新陳代謝のように、そうやって順調にものが流れて回転して行くのは、実に気分がいいものだ。
ストッキングは洗濯機のネットで洗ってもいいのかしれないが、一応私は洗面台で手洗いする。そのあとは風呂場に干すのだが、乾燥していないから、しずくが落ちる。そこで、これも何となく使い道に迷っていた、きれいでぶ厚いハンドタオル類を使って、ぎゅっと包んで押して水気をとってから干すことにしている。おかげでハンドタオルたちの雇用も確保できた。

さて、そのストッキングだが、特に叔母のものだった中には、クリスチャンディオールだののロゴが入り、足首にきらりんと光る刺繍があって、黒くてもとても法事に使えなくてあわてたりする、見るからに上等のものも多い。
そういうのをはくと、別に戦闘態勢の会議でなくても、急にスカートがはきたくなり、叔母の遺した真紅のウールの暖かいフレアスカートなどを、ふらふらとはいて出かけたりするようになった。

そうすると、ついでに靴も、もうはかないだろうからどこかに寄付しようと思っていた、きゃしゃなパンプスをはこうかという気になる。もう何年もごつい靴しかはかなかったので忘れていたが、こういうパンプスはハイヒールでなくても、かつこつかつこつと、さわやかな派手な靴音を建物や舗道に誇らしげにひびかせる。自分が海外ドラマの「セックス・アンド・ザ・シティ」の登場人物にでもなったような、華やいだ気分を久しぶりに私は味あうのだった。
こんな新しい世界の窓を次々開けてくれた出発点になった、あのタイツの買い物は、結局そう悪い体験ではなかったかもしれない。

そうやって、破れたストッキングを処分して行くとき、何度か、あれ?と思ったのは、普通の穴や伝線とちがって、虫がはったような傷痕に似た破れが時たまあることだ。
もちろん、それも捨てていた。
でも何度目かに気がついた。これは、伝線が入ったのを、ていねいに糸でかがったあとなのだと。
祖母はもちろんパンティストッキングなんかはかなかった。やったとすれば母か、叔母だ。母はずぼらで、叔母はぜいたくで、どちらもそんなことしそうにないが、しかし案外やりそうな気もする。とりわけパンティストッキングがまだ出始めの、珍しいぜいたく品だったころならば。
気づいてからは、それも捨てられなくなった。はくことはなくても、何となくとっておきたい。というわけで、それは保存用の袋の方に入れている。もっとも、気づく前にほとんど捨ててしまったから、多分残っているのは一足か二足ぐらいだろう。まあそのくらいで、ちょうどいいのかもしれない。(2018.2.7.)

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